第六話 尾根の道
「二日半?」
ミラが、朝の湯を吹きそうな顔をした。
「往復で二日半だ」
「無理よ。来るときに四日かかったでしょ」
「四日かかったのは荷が軽かったからじゃない。橋が落ちてて、南へ迂回したからだ」
俺は来るときに書いた行程を見せた。
「初日は街道で稼いだ。二日目に旧軍道へ入って、三日目に橋の手前で止まった。石切場の作業道へ回って半日。四日目の午後に着いてる。つまり、往路で丸一日は谷を避けるのに使ってる」
「それでも二日半にはならないでしょ」
「今度は逆向きだ。城から下る」
ミラが黙った。
「登りと下りで、荷車の速さは倍違う。荷を積んでるならもっとだ。それに、行きは三十一人分の食料と鍋と毛布を積んでた。今度は見本だけ積んで下って、帰りは金しか積まない」
「……本を積むんでしょ」
「本は売る。売れたら金になる。金は軽い」
ミラは指で数えるような仕草をして、それからため息をついた。
「あんた、そういう計算いつしてるの」
「歩きながらだ。他にやることがない」
◇
問題は、下りのどこを通るかだった。
俺たちが来た道は、谷を大きく迂回している。橋が落ちているからだ。荷を積んだ荷車で石切場の作業道を通るのは、幅を考えると危ない。
九日目の朝、俺はミラとハンナとリオンとガルドを連れて、城の南門を出た。
「北の尾根に上がる」
ミラが先を歩きながら言った。
「城から見えてる、あの背の高いやつ。あそこの稜線が、たぶんヴェルデの手前まで続いてる」
「たぶん」
「見たことないもの。地図に描いてあったのは覚えてる。北方の三十七枚のうち、二十一枚目。谷を渡らずに南へ抜ける線が引いてあった」
「描いたのはあんただろ」
「三年前にね。上から見て、たぶんこうだろうと思って引いた線よ。歩いてない」
俺は帳面に書いた。ミラ、九日目、経路踏査。
尾根に上がるのに、午前いっぱいかかった。上がってみると、稜線は思ったより広かった。荷車二台が並べる幅がある。
「行けるな」
ガルドが地面を踏んだ。
「岩が浅い。土が薄いってことは、雨が降っても泥にならん」
「分かるのか」
「鍛冶場と同じだ。地面の焼け方でな……いや、うまく言えん。踏むと分かる」
俺は書いた。ガルド、九日目、路面の判断。
リオンは黙って、崩れかけた岩を一つずつ押していた。
「これ、落としておく。荷車が来たときに邪魔になる」
「今やるのか」
「今しかないだろ」
彼は岩を谷へ蹴り落とした。乾いた音が、いくつも重なって遠ざかっていった。
◇
尾根の中ほどで、ハンナが立ち止まった。
彼女は空を見ていなかった。地面に膝をついて、草の向きを見ていた。
「アルドさん。ここ、使えます。でも条件つきです」
「言ってくれ」
「草の倒れ方が、全部こっち向きです。西からの風がずっと吹いてる。稜線ってのは風の通り道だから、それ自体は当たり前なんですけど」
彼女は立ち上がって、西のほうを指した。
「雨が来るとき、風は必ずここを通ります。船だと、これは真っ先に避ける場所です」
「雨だと、通れないか」
「通れます。ただ、荷車が横風を食らいます。積み方を間違えると、まず横転します」
「積み方で防げるなら、それは条件じゃなくて手順だ」
ハンナが、少し笑った。
「そう言われると、そうですね」
「積み方は、あんたが決めてくれ。縄はあんたのほうが詳しい」
「低く、真ん中に寄せます。それと、雨の日は一台ずつ間を空けて」
俺は書いた。ハンナ、九日目、荷の積載方式。
そこから半刻ほど進んだところで、稜線が細くなった。
左側が崩れている。土がえぐれて、下の岩が剥き出しになっていた。荷車が通れる幅は、かろうじて残っている。かろうじて、というのが問題だった。
「ここは駄目だな」
ガルドが縁に足をかけて、土を蹴り落とした。ぼろぼろと崩れて、下へ落ちていく。
「輪が片方乗ったら、そのまま持っていかれる」
「直せるか」
「石を積めば」
ケインは来ていない。ガルドは膝をついて、崩れた面をしばらく見ていた。
「……三尺ぶんだ。三尺、外へ張り出させれば通る。下に大きいのを二つ噛ませて、上に平たいのを渡す」
「石はあるか」
「そこらじゅうにある」
彼は顎で斜面を示した。リオンが黙って降りていって、抱えられるだけの岩を持って上がってきた。二往復で、下段が埋まった。
俺はそのあいだ、崩れた縁の長さを歩幅で測っていた。二十二歩。荷車が通り抜けるのに、心臓が二つ鳴るくらいの距離だ。
「ガルド。これ、雨が降ったらまた崩れるか」
「崩れる。だが、崩れる場所が分かってれば怖くない。怖いのは、どこが崩れるか分からんときだ」
俺は帳面を開いて、その一言を書いた。
書いてから、これは仕事の記録じゃないなと思った。だが消さなかった。
◇
尾根を三分の二ほど進んだところで、ミラが足を止めた。
しゃがみ込んで、地面に指を這わせている。
「アルド」
初めて、名前で呼ばれた気がした。
「これ、見て」
浅い土の上に、二本の筋があった。細く、平行で、二十歩ほど続いてから草の中へ消えている。
「轍だな」
「そう。しかも新しい」
「どのくらいだ」
「雨のあと。三日以内よ。降ったのは、あたしたちが着いた日だから」
俺はしゃがんで、筋の幅を測った。手のひら三つ半。うちの荷車と同じくらいだ。
「誰が通った」
「知らない。でも、荷車がここを通れるって知ってる人間がいるってことね」
ガルドが眉を寄せた。
「盗掘か。城の噂を聞きつけたなら、あり得る」
「かもしれん」
俺は轍をもう一度見た。
二本の筋は、まっすぐだった。迷った跡がない。初めて通る人間が引く線じゃない。
「戻るか?」
リオンが聞いた。
「いや。道は使う」
「危なくないか」
「危ないかもしれん。だが、他に道がない」
俺は立ち上がって、帳面を閉じた。
「それに、通ってる奴がいるってことは、この道が使えるって証明だ。俺たちが二日半で行けるかどうか、もう試した奴がいる」
◇
城に戻ったのは、日が沈んでからだった。
大広間に地図を広げた。ミラが一日で描いたものだ。紙は俺の帳面を破ったものが四枚、糊で貼り合わせてある。
「尾根の入口から、下りきるまでで、荷車なら半日と少し」
ミラが線をなぞった。
「そこから先はヴェルデまで平地。半日。片道で一日と少しよ」
「往復で二日半だな」
「……そうね」
彼女は自分で引いた線を、少し眺めていた。
「二日半」
「なんだ」
「あたしが引いた線が、本当に道になったの、初めてかも」
俺は帳面を開いて、その日の欄を書き足した。
ミラ、九日目、経路の踏査と作図。所要、往復二日半に短縮。
「なにしてんの」
「もう書いた。今のは書き足しだ」
「なんて」
「短縮、二日半。それだけだ」
ミラは覗き込もうとして、やめた。
「……いいわ。あとで見る」
◇
その夜、誰を連れて行くかを決めた。
「荷車二台。行くのは六人だ。俺、ミラ、ハンナ、ガルド。あと荷を扱える二人」
「俺は」
リオンが顔を上げた。
「お前は残る」
「なんでだ。人手なら俺が一番使えるだろ」
「使える。だから残ってもらう」
俺は帳面の裏に、ヴェルデの町並みを簡単に描いた。市の立つ広場、商会の館、掲示板。
「ヴェルデは交易町だ。三日に一度、王都から人が来る。お前の顔は、いま王国で一番売れてる顔だ」
リオンが眉を寄せた。
「顔を隠せば」
「隠したところで、背丈と歩き方でばれる。二年半、後ろから見てた俺が言うんだから間違いない」
彼は口を開いて、閉じた。
「元勇者が魔王城の資産を売ってる、って話が王都に流れたら、どうなる」
「……面倒になるな」
「俺たちが売ってるのは、国が捨てた物だ。それでも、瓦版はそう書かない」
リオンは、しばらく黙っていた。
「じゃあ、俺は何をしてればいい」
「城を回してくれ」
俺は帳面をめくって、留守中の割り振りを読み上げた。
「トビーは書物庫の乾燥を続ける。一日四列だ。セロは炉番。魔石の残量を毎朝見て、減り方を記録しておいてくれ。リゼさんは診療所を開けたままにしておく。ケインは東翼の三部屋の隣を、あと二部屋使えるようにする」
「石は足りるか」
ケインが割り込んだ。
「崩れた回廊のを使え。どうせもう通れない」
「なら足りる」
「エッダは、残りの細工物の梱包を終わらせてくれ。俺が戻るまでに次の分が出せるようにしておきたい」
俺は最後に、リオンを見た。
「揉め事が起きたら、お前が止めろ。殴るなよ」
「殴らないさ」
「殴らないでどう止める」
リオンは少し考えて、それから真顔で言った。
「立ってる」
誰かが吹き出した。ガルドだった。
「そりゃ止まるわ」
◇
その夜、俺は積荷の一覧を作った。見本にする書物二百冊。細工物も二百点。残りは目録で売り、買い手に城まで取りに来てもらう。魔石炉は動いているので、売らない。
明日、十日目の朝に出る。十一日目にヴェルデで売り、十三日目に戻る。
戻った日が、精算日だ。
銀貨で三百六十八枚。それが、三十一人に払わなければならない額だった。
払えなければ、この帳面は紙になる。
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