第三十二話 前後
紙は借りられなかったので、読んでもらうことにした。
九十三日目の午後、ノーラが自分の紙を膝に置いて、名を一つずつ読み上げた。俺は自分の帳面に写した。彼女の紙は彼女の手元にあり、俺の紙は俺の手元にある。同じ名が二枚になるだけだ。
「これでいいのかい」
「いいです。写しはこちらで持ちます。そちらの紙は、そちらのものです」
三十一まで読んで、彼女は止めた。
「次は」
「いま、ここで寝起きしている者に印をつけたい。あなたが知っているぶんで構いません」
二十七に印がついた。
残りの四つには、つかなかった。
「この四人は」
「半年、戻ってない」
「線を引かないんですか」
「引かない」
「戻らないなら」
「戻らないと決めたのは、あたしじゃない」
それで終わりだった。
次に、俺が自分の目で顔を見た者に、別の印をつけた。
これが思ったより進まなかった。日中、長屋にいるのは年寄りと子どもと、体の利かない者だけだ。ほかは畑の端や水場や、町へ下りる道の途中にいる。
ハンナが下の棟の裏で三人を見つけ、ミラが水場で二人を見つけた。俺が一人ずつ名を聞き、ノーラの読み上げた名と突き合わせた。
前の晩に火の周りにいた十七人のうち、名を突き合わせられたのは十四人だった。そこへハンナとミラが見つけた五人を足して、十九になった。
残る八人は町へ出ている。ヘンドのように毎日下りて戻る者もいれば、十日帰らない者もいる。
九十四日目の夜までかけて、数は動かなかった。
俺は帳面に五つ並べた。
――名簿にある名、三十一。
――いま宿舎を寝起きの場にしていると聞き取れた者、二十七。ただしノーラの申告による。
――整理官が直接会って確かめた者、十九。
――町へ出ており、直接は確かめていない者、八。
――名簿にあるが、半年以上戻っていない者、四。
三十一から四を引くと二十七になる。二十七から十九を引くと八になる。数としては、それだけのことだ。
国の紙には「三十人前後」と書いてあった。
前後の中身は、五つに分かれた。どれも三十ではなかった。
◇
その晩、十九人のうちの一人が、長屋の外で待っていた。
ヤンという男だった。四十くらいで、右の手首から先がない。
「あんた、紙を国に出すのか」
「出すことになると思います」
「名前も」
「書くことになります」
「俺の名は、書かないでくれ」
最初、理由は言わなかった。
俺はまず、どの紙かを確かめた。
「ノーラの紙に載っているのは、構わないんですか」
「あれは、ここの紙だ」
「商会に出す紙なら」
「知らん。国の紙が嫌だ」
「国の紙に載ると、どうなると思ってます」
「知らん。知らんから嫌だ」
彼は右腕を少し持ち上げて、また下ろした。
「二年前に、国の紙に名を書いた。輜重の三番組だ。書いた翌月に、組ごとなくなった」
名簿があったから組が消えたのか、消える組の名簿がたまたま先に作られたのか、俺には分からない。
分からないが、書いた月の次の月に組がなくなるのを見た人間に、分からないという言葉は効かない。
俺は書いた。
――九十四日目。一名より、国へ提出する名簿への記載を拒む旨の申し出。宿舎内の名簿への記載は可。商会向けは未確認。本人は、二年前に国の紙へ名を書いた翌月に所属組が解散した経緯を挙げる。名簿と解散の関係は未確認。人数の差とは別の事項として扱う。
別の事項だ。八人は確かめられていないだけで、載せないと言ったわけではない。四人は戻っていないだけで、載せるなと言ったわけではない。
載せるなと言ったのは、いま目の前にいる一人だけだった。
混ぜて書けば、両方が分からなくなる。
◇
九十五日目と九十六日目、俺は峠の道の端に座っていた。
場所はヘンドが選んだ。最後の坂の下だ。
「ここで止まる」
「止まる」
「見てりゃ分かる」
半刻で分かった。
荷を満載した二輪は、この坂を一度で上がれない。御者は二つのうちどちらかを選ぶ。荷の半分を下ろして二度運ぶか、町まで下りて付け替えの馬を借りるか。
どちらも半日が消える。
ダンは道の端に立って、上がっていく車の後ろを見ていた。二日、ほとんどそればかり見ていた。
「半分は、積み方だ」
二日目の昼に、彼はそう言った。
「どういうことだ」
「重いのを後ろに寄せてる。あれだと前が浮く。前が浮けば馬が滑る。滑るから上がらない」
「積み直せば上がるのか」
「全部じゃない。四台に一台くらいは、下ろさずに済む」
俺は聞いた。積み直すのに、どれくらいかかるか。
「二人で四半刻だ。縄を解いて、また掛ける」
彼は左肩を上げずに、右手で縄の掛け方を宙に描いた。描いてから、手を下ろした。
「掛けるのは、片手でもできる」
荷を下ろして運び上げるのは力仕事だ。積む順を直すのは、そうではない。同じ坂に、二つ別の仕事があることになる。
日が暮れてから坂の下に着いた車は、そのまま朝まで動かない。降りる道が細く、夜には使えないからだ。置いておける小屋も柵もない。御者は荷の上で寝ずに番をする。
俺は数えた。
二日で、上りが十九台、下りが十四台。そのうち、坂で止まって荷を分けたのが七台。付け替えを借りに下りたのが二台。夜に着いて朝まで動かなかったのが二台。
「雨の日は」
「もっと止まる」
「冬は」
「そもそも来ない」
困っている車は、二日で九台になる。週にすれば三十台を超える。
だが、困っている車の全部が金を出すわけではない。自分で二度運べば金はかからない。半日を惜しまない者もいる。
「どれくらいが、払うと思いますか」
「半分だな」
ヘンドは考えずに言った。考えずに言った数を、俺はそのまま使うことにした。ほかに根拠がない。
――週十六台。困っている車の半分と仮に置いた数。根拠は馬方一人の見当のみ。
夜に着く車は、二日で二台。週にすれば七台だが、これも全部が預けるとは限らない。六台としておく。
雨の日も、冬も、まだ見ていない。
ミラが道の反対側で、同じものを数えていた。突き合わせると、上りの台数が一台違った。
一台の違いを、俺たちはその場で埋めなかった。どちらが正しいかは分からない。分からないまま、少ないほうを書いた。
◇
九十六日目の夜、板を一枚借りて、炭で書いた。
――荷役と積替え、一台につき三枚。十六台で四十八枚。
――夜の預かり、一台につき二枚。週に六台で十二枚。
――売上、週六十枚。
出ていく金を書いた。預かった馬の飼葉と水。夜の灯り。縄と帆布。車止めの木。壊れた道具の直し。締めて週二十五枚。
――差引、三十五枚。
次に、要る手を数えた。
――荷役と積替え、一台に二人で半日。十六台で十六人日。
――夜の番と朝の送り出し、毎晩一人で七人日。
――積む順を決めて書く者と、預かった荷の出し入れに四人日。
――道具と場所の手入れに八人日。
――水と飼葉の用意に五人日。
――合わせて、週四十人日。
ダンの言った積み直しで済む車があれば、荷役の手は減る。減るぶんを数から引くかどうか迷って、引かなかった。まだ一台も直していない。
四十人日を、誰が出すのか。
週四日で割れば、十人だ。
十九人のうち、坂の上まで四町を上がれる者を数えた。サラは上がれる。町までの一里は歩けないが、坂は近い。ヘンドは行ける。ヤンは片手だが、縄は掛けられるとダンが言った。
十二人だった。
ただし、十二人が十二人とも週四日を出せるとは限らない。畑があり、町の日雇いがあり、体がある。
やると言うかどうかも、まだ聞いていない。
数えたのは、坂を上がれる足の数だけだ。
三十五枚を四十人日で割った。
四日働いて、三枚と半分になる。
ただしそれは、城へ一枚も出さない場合の話だ。
国は百八十日目までに、売却によらない収入を週百二十四枚まで上げろと言った。いまは七十四枚だ。五十枚足りない。
その五十枚のうち、ここで十五枚を持てるとする。
――現地に残るのは、二十枚。
――二十枚を四十人日で割ると、四日働いて二枚。
城の日当は、四日で四枚だ。
「三枚は高い」
ヘンドが板を見て言った。
「一台三枚も取れるか」
「取れませんか」
「半日を買うんだ。半日が三枚なら、安いと言う奴もいる。だが、坂で止まった奴は金を出したくて止まってるわけじゃない。止まって、腹を立ててる」
「腹を立てている人間は、いくら出しますか」
「出さないよ。出すのは、止まる前に決めてた奴だ」
俺はその言葉を板の隅に書いた。
――止まってから言うのでは、遅い。
「半分ですね」
ミラが板を覗いて言った。
「半分だ」
「半分でも、やるんですか」
ハンナが聞いた。
「俺が決めることじゃない」
十六台は、困っている車の半分と置いた数だ。半分の根拠は、馬方一人の見当しかない。三枚も二枚も、俺が置いた値だ。十五枚は、五十枚のうちどれだけをここに背負わせるかという話で、まだ誰とも決めていない。
積み上げたと言えるのは、四十人日だけだ。それも、やってみないと外れる。
俺は板の下に書いた。
――以上はすべて見込み。台数は二日の観測による暫定。値は未決。城へ出す額は未決。手の量のみ、作業から積み上げた数。
板を置いて、外へ出た。
サラが樋の下にいた。夜のうちに布を替えておかないと、朝の水が濁るのだという。
四十人日のうち、彼女の手が何人日になるのかを、俺はまだ書いていない。
書いていないのに、四十という数は彼女の手を当てにして出ている。




