第三十一話 代わりの名
九十一日目の朝、大広間に五十二人が集まった。俺を入れて五十三人だ。
出るのは四人。俺と、雇用の三人。城に残る雇用は、四十九人になる。
「代理を決める」
六十九日目に足した三つ目の規則だ。整理官が城にいないとき、誰が判断するかを、先に名前で決めておく。
「ケイン」
彼は口を開けたまま、少し黙っていた。
「俺は、石板の数を数えてただけだぞ」
「数えてた。数えた紙を、一枚も落としてない」
落とさない人間は、少ない。
「任せるのは三つだ。日々の割当。精算の実務。九十七日目の借入を、前の晩に全員へ言うこと」
「任せないのは」
「証文への署名だ」
九十日目、二枚に署名したあとで、俺はコルトにもう一枚だけ書いてもらっていた。
――締結済みの枠の中で借りる分は、代理の請求と確認者の確認をもって足りる。条件を変える場合と、新しい契約を結ぶ場合は、整理官の署名を要する。
「枠の中で借りるだけなら、あんたとヨルで足りる。条件を変える話が出たら、止めてくれ。俺が戻るまで止まっていい」
「止まったら、払えないぞ」
「払えないなら、払えないと全員に言う。六十九日目に、そう決めた」
ヨルが紙を持って前に出た。四つ目の規則だ。城外に出る仕事は、出る前に決める。
「出る前に決めたか」
「決めた」
「読む」
彼は声に出して読んだ。
――九十一日目発、戻りは未定。七日ごとに便で知らせる。出張する雇用三名の日当は、これまでどおり週四日ぶん。四日を超えた分は、戻ってから割当を減らして均す。三人が抜けた割当は、四十九人で被る。勤務日数は増やさない。割当の組み替えで埋め、埋まらない分は遅れとして書く。被る者の名は下に書く。
名前は昨夜のうちに書いてある。二十三人。誰がどの仕事を引き受け、元の仕事をどれだけ後ろへ回すかまで書いた。
「被る側は、納得してるのか」
「二十三人に一人ずつ聞いた。二人が渋った。渋ったと書いてある」
「渋ったのは誰だ」
ニコが言った。
「書いてない」
「これまでは、反対に名を書いてきただろう」
ヨルだった。そのとおりだった。
「反対は名を書く。渋ったのは反対じゃない。引き受けた上で、嫌だと言っただけだ」
「同じだろう」
「同じにすると、引き受けたほうの事実が消える」
ヨルはそれ以上言わずに、紙の下へ書き足した。
――渋った者二名、名の記載なし。整理官の判断による。
それから、自分の名を書いた。
「戻ってこなかったらどうする」
ケインが言った。冗談ではなかった。峠には落ちる場所がある。
「決めてない」
「決めとけよ」
「決めても、その紙を俺は見られない」
言ってから、答えになっていないと思った。帳面を開いた。
――整理官が戻らない場合の扱い、未定。代理へ決定権を渡すか、五十二人で選び直すか。九十一日目時点で結論なし。
「それでいいのか」
「よくない。だが、決めてないことを決まったふりにはしない」
出る前に、地下へ降りた。
三回目の交換は、まだ取り決めていない。決めないまま出れば、七行目を自分でまた破ることになる。
「しばらく城を空ける」
「何日」
「決まっていない」
ヴェスカは壁のほうを見た。刻み目は、今朝も一本増えている。
「決まっていないことを、言いに来たのか」
「決まっていないと、言いに来た」
彼女は少し黙って、それから言った。
「なら、待つ」
――三回目の交換は、整理官の帰城後に取り決める。その間、地下への立入なし。
荷は四人分の寝具と、二十日ぶんの食い物と、帳面が二冊だった。
食い物は、今週の維持費で城に買ってあった分から、四人ぶんを分けて出した。買い足してはいない。商会へ納める乾燥肉にも手をつけていない。納める袋は、今週も二十のままだ。
門を出るとき、リゼが馬の前に立って脚を見た。それから、ダンの左肩を見た。
「四日で戻る道じゃないよ」
「分かってる」
「分かってる人は、二日目に痛くなる」
◇
九十二日目の夕方、峠を降りきったところにオルデンがある。
町は谷の口にあり、宿舎はそこから一里ほど離れた斜面の上にあった。
石の長屋が三棟。戦のあいだ、峠を越える荷と人を受けていた宿舎だという。壁は厚く、窓は小さく、屋根は落ちていない。造りは城より正直だった。
ただ、窓の板は三棟とも打ちつけたままだ。煙が上がっているのは、真ん中の一棟だけだった。
国の紙には「閉鎖された宿舎」と書いてあった。閉鎖とは戸に錠が下りていることだと思っていたが、錠はどこにもなかった。二棟が使われていないだけだった。
「王都からかい」
女が一人、戸口から出てきた。四十くらいに見えた。
「城からです」
「同じことだろ」
ノーラと名乗った。戦のあいだ、この宿舎の出入りを記録する係だったという。
「何をしに来たんだい」
「まだ決めていません」
「決めずに四人も来るのかい」
「決めてから来ると、決めたことをそのまま押しつけることになるので」
彼女は俺をしばらく見た。信じた顔ではなかった。
「あんたたちが来ると、紙が来た。十日前に」
彼女は前掛けから折った紙を出した。国の書式ではなかった。自分で線を引いて、自分で欄を作った紙だ。
名前が三十一、並んでいた。
俺は火のほうを見た。土間で鍋の周りに座っている。数えた。
十七人だった。
「合いませんね」
「合わないね」
彼女はそれだけ言って、紙を畳んだ。
◇
鍋は一つだった。
ノーラは杓子を持って、先に子どもと年寄りへ配った。次に、明日町へ出る者。最後に自分と、出ない者。
順番は決まっていて、誰も文句を言わなかった。決まっているから言わないのか、言っても変わらないからかは、分からなかった。
ハンナが自分の椀を見て、それからノーラを見た。
「これ、毎日ですか」
「毎日だよ」
「足りますか」
「足りないよ」
足りないと言いながら、彼女は鍋の底を掻いて、遅れて入ってきた男の椀に入れた。
ミラが荷から袋を出して、四人分の乾し肉を鍋へ入れた。
鍋は四人分だけ増えた。座っているのは十七人だ。
同じ量を毎晩出していれば、持ってきた分は長くもたない。ミラは一日ぶんだけ入れて、袋を閉じた。
閉じるところを、何人かが見ていた。
そのあと彼女は土間の隅で、配る順を書いていた。誰に何番目に渡ったかを、そのまま写している。
「書くのか」
ダンが小声で言った。
「書いておくと、あとで変わったときに分かる」
ダンは何も言わずに、自分の椀を半分残して隣へ回した。隣は十くらいの子どもだった。
俺は、それを書かなかった。書くと、ダンが次から回さなくなる気がした。
水は、長屋の裏の石の樋を伝って来ていた。
夜、音のするほうへ行くと、樋の継ぎ目に布を巻いている女がいた。片足を投げ出して座っている。
「サラだよ」
後ろからノーラが言った。
「戦のときは峠の水場番。いまも同じことをしてる」
「誰かに頼まれて」
「誰も頼んでない」
サラは手を止めずに言った。
「止まると、みんな困るから」
その言い方を、俺は知っていた。二年半、同じことを思いながら樽を並べていた。
補給の仕事には名前がつかない。止まったときにだけ、名前がつく。
「布は、どこから」
「町で古いのをもらう。年に二回」
「もらいに行くのは」
「ノーラ」
彼女は継ぎ目を巻き終えて、手を水で洗った。洗ってから、初めてこちらを見た。
「あんた、水を見に来たの」
「いえ」
「じゃあ、何を見に来たの」
「人と、仕事です」
「仕事なら、目の前にあるよ」
彼女は樋を指した。継ぎ目は二十ほどあって、布の色がどれも違う。替えた順なのだと分かった。
◇
九十三日目の朝、坂を上がってくる男がいた。
六十近い。馬方で、ヘンドといった。町へ下りて、戻ってきたところだという。
「呼ばれなかった」
彼は誰にともなく言って、土間の端に座った。
「呼ばれるか分からなくても、行くんですか」
ハンナが聞いた。
「行かないと、呼ばれたときにいない」
ダンが縄を巻く手を止めた。
「呼ばれた日は、いくらだ」
「日によるな。半日で銀貨一枚のときもある。飯だけのときもある」
「飯だけのときも、行くのか」
「行く」
ダンはそれ以上聞かずに、また縄を巻いた。左肩は、今朝も上がっていない。
俺は自分の手順の一行目を踏もうとした。
始める前に、全員に言う。
踏めなかった。
一つ。八人が町へ出ている。いつ戻るか、ノーラも知らない。
二つ。集まるなら町側の集会所が広いが、サラは一里を歩けない。歩けない者は、ほかにも三人いる。
三つ。ノーラの紙には三十一人いて、火の周りには十七人しかいない。誰に言えば全員に言ったことになるのかが、決まっていない。
城では大広間があった。扉を開ければ、五十二人が入った。それだけのことが、ここでは成り立たない。
――九十三日目。全員へ説明することができない。理由三つ。人が一か所にいない。歩ける者と歩けない者が分かれている。全員が誰かが定まっていない。七行目と八行目は、この土地ではこのままでは使えない。
書いてから、もう一行足した。
――使えないものを、使えるふりで持ち込まない。
「持ち込まないなら、どうするんですか」
ハンナが聞いた。
「数える」
「何をですか」
「人と、車だ」
国の紙には、三十人前後と書いてあった。前後がいくつなのかを、誰も数えていない。数えていない数の上に、仕組みは載せられない。
ノーラが土間の向こうで、また紙を広げていた。三十一の名が並んだ紙だ。
「その紙、借りられますか」
彼女は手を止めた。
「何に使う」
「数えるのに使います。減らすためではありません」
「減らすためじゃない紙を、国の者が持って行ったことはないよ」
彼女は紙を膝の上に置いたまま、こちらへは寄越さなかった。
三十一の名のうち、一つも消していない紙だ。消していない理由を、俺はまだ聞いていない。




