第三話 全員の名前
夜明け前に起きたのは、寒さのせいだった。
大広間の床は石で、毛布を二枚重ねても下から冷えが上がってくる。三十一人が身を寄せ合って眠っていた。誰かが咳をしている。乾いた、嫌な音の咳だった。
俺は厨房へ行って残り火に薪を足し、それから帳面を開いた。
昨日のうちに三十一人分の名前は書いてある。書いてあるのは名前だけだ。その横が、まだ空いている。
こいつらに何ができるのか、俺は知らない。一昨日は「石を運べるか」「火を扱えるか」で選んだ。それは選別であって、把握ではない。補給係の仕事は、まず数えることだ。
薪をもう一本くべて湯を沸かした。湯といっても、雨水槽から掬った泥水を布で三度濾したものだ。
◇
夜が明けきる前に、俺は全員を起こした。
「一人ずつ聞く。二つある」
「はあ?」
ガルドが目をこすった。
「今からかよ。腹が減ってんだ」
「飯は炉が動いてからだ。動かなきゃ湯も沸かない。動かすには、誰が何をできるかを俺が知らなきゃいけない」
俺は帳面を膝に載せて床に座り、見開きの左に線を一本引いた。
「一つ目。冒険者になる前は何をしてた」
「……はあ?」
「二つ目。冒険者として、何が一番得意だった」
「そりゃ剣だが」
「剣で何をしてた。斬るのか、押さえるのか、支えるのか」
ガルドが口を開いて、閉じた。それから、少し考える顔になった。
「……押さえるほうだ。前で受けて、隊列を崩させない」
俺は左に書いた。鍛冶、親父の工房でふいご。右に書いた。受け止める、列を崩さない。
「次」
最初は面倒くさそうだった声が、五人目を過ぎたあたりから変わってきた。自分の番が来る前に、思い出そうとする顔になっていた。
「石工の見習い。三年で逃げたけど」
「冒険者としては」
「野営地の石囲い。うまく積むと火が長持ちする」
「実家が織物。冒険者としては……傷の当て布と、天幕の繕いばっかりでした」
「船に乗ってた。帆綱の結び方なら誰にも負けない。名前はハンナ。あと、天気。朝の風の匂いで、昼から降るかどうかは当たる」
六人目の若い男は、なかなか答えなかった。
「……パン屋。三日でクビになった」
小さく笑いが起きた。
「三日でも、窯の火は見ただろう」
「見ました」
「冒険者としては」
「火魔法です。でも威力がなくて、戦闘じゃ使いものにならなくて。斥候の連中の濡れた薪を乾かす係でした」
俺はしばらく手を止めた。濡れた薪を乾かせる火。それは戦場では役に立たない。この城では、今日いちばん要る。
「名前を」
「トビーです」
三十一人分の職能が、帳面の見開き二ページに収まった。
冒険者ギルドの登録簿には、この欄はない。あそこに書いてあるのは、討伐等級と得意な武器だけだ。国は、この三十一人を「余った剣」として数えた。俺の帳面では、左の列が鍛冶と石工と織物と井戸掘りと船乗りとパン屋で、右の列が索敵と盾と結索と火囲いと罠外しと天候の読みだった。
剣として数えれば、一人につき一つしか書けない。二列に分ければ、六十二になる。
◇
炉室は、朝でも夜と変わらないほど暗かった。セロが魔石炉の側面板を外して、中を覗き込んでいる。
「炉心は生きてます。魔石も、残量三割ってところ。問題はこっち」
彼が指したのは太い導管だった。
「地下から水を吸い上げる管です。ここに遮断弁があって、いま閉じたまま固着してます。魔族が撤退するときに閉めたんでしょうね」
「開けば動くのか」
「動きます。ただ、順番を間違えると終わりです」
セロは炉心の窪みを指した。
「先に魔石を入れて火を起こすと、管に水がないまま熱管が焼けます。一度焼けたら、俺には直せません。二度と湯は出ない」
「じゃあ順番は」
「弁を開けて、水が来てるのを目で確かめて、それから魔石です。逆は絶対にやらないでください」
俺は帳面にその順番を書いた。書いておかないと、暗い中で誰かが良かれと思って火を入れる。
それからミラを呼んだ。
「配管の経路を追えるか」
「壁の中でしょ。……見えるところだけなら」
「それでいい。導管がどこを通って、どこで地上に出るか。分岐がいくつあるか。それを図にしてくれ」
「紙がないんだけど」
俺は帳面を破って渡した。ミラは一瞬、破られたページを見て、それから俺を見た。
「いいの、それ」
「白紙は白紙だ。使うために持ってる」
彼女は受け取って走っていった。
リオンが弁の前に立った。
「これを回せばいいんだな」
「素手じゃ無理です。梃子が要ります」
「棒はあるか」
ガルドが崩れた回廊から鉄の手すりを引き抜いてきた。二人がかりで運ぶ重さだ。リオンはそれを片手で受け取って、弁の輪に差し込んだ。石工だった男が支点に石を積む。積み方が速く、目地の噛ませ方に迷いがなかった。
「いきますよ」
リオンが梃子に体重をかけた。最初は何も起きなかった。鉄が軋む音だけが暗い部屋に響いている。リオンの首の筋が浮いた。
――ごり、と鳴った。
弁が、指一本ぶんだけ回った。
「動いた!」
「もう一度」
ハンナが梃子の先に縄を巻いて、四人がかりで引く方向を揃えた。石工が石を積み直す。弁が四半周まで回ったところで、頭上で乾いた音がした。
「伏せろ!」
叫んだのはガルドだった。天井近くの継ぎ手から白い筋が噴き出す。二年ぶんの錆と圧が細い隙間を一気に押し広げ、水柱がガルドの肩を叩いて、大男の体が半歩、横へ吹き飛んだ。
「セロ!」
「圧が抜けてます、どこかで破断してる! このまま開けたら貯水槽に届く前に全部漏れます!」
弁を戻すべきか。戻せば、また固着するかもしれない。
俺が判断するより早く、回廊の奥からミラが駆け込んできた。破ったページを握っている。
「三階! 東の回廊の下で分岐が二本、片方が折れてる。壁の外に管が出てるとこ、そこだけ雪ざらしになってた」
「塞げるか」
「布と、あと重しがあれば」
織物の女が、荷から裂いた当て布の束を抱えて走り出した。天幕を繕っていた手が、今度は導管を繕う。
十五分。俺は帳面に、その十五分のあいだ誰がどこにいたかを書いた。書くことしかできなかった。
「塞いだ!」
伝声管から声が落ちてきた。
「もう一度、開けろ」
リオンが梃子に体重を戻す。弁が半周した。セロが導管に耳をつけた。
「……来てます。水、来てます」
「見えるか」
「見えます。透明じゃないけど、流れてます」
「じゃあ、魔石だ」
セロが炉心に魔石を押し込んだ。地面の下で、低い音が鳴りはじめた。
それから、壁が光った。
黒い岩に彫り込まれていた紋様が、床から天井へ向かって順に赤く灯っていく。細い線が枝分かれし、回廊の奥へ走っていった。血が通うのに似ていた。
誰も声を出さなかった。二年前まで、この光の下に魔王がいた。
◇
最初に湯が出たのは厨房の樋からだった。濁っていた。三十一人が、それを黙って見ていた。二回目は少し薄くなった。三回目で、透きとおった。
誰かが、笑い声とも悲鳴ともつかない声を上げた。トビーが竈に火を入れ、ハンナが樋の角度を縄で固定し、井戸掘りの男が「圧が安定してる」と誰にともなく報告した。
夕方までに東翼の三部屋に暖房の導管が通った。石の床に手を置くと、じんわりと温かい。リゼが、咳をしていた男をその部屋へ運んだ。
「肺じゃないわ。喉が冷えただけ。三日で治る」
彼女はそう言って、それから小さく付け足した。
「温かい部屋があるなら」
肩を打たれたガルドは、鎖骨にひびが入っているかもしれないと言われて、それでも夕食まで石を運んでいた。
◇
その夜、三十一人が湯気の立つ鍋を囲んだ。乾燥肉と豆と塩だけの汁だ。うまいものじゃない。それでも、誰も喋らずに飲んでいた。
俺は鍋の脇に帳面を広げて、木札の束を膝に置いた。
「一人ずつ、こっちに来てくれ」
「なんだよ、飯くらい落ち着いて」
「渡すものがある」
最初に来たのはガルドだった。
「名前を」
「……知ってるだろ」
「知ってる。それでも聞く」
男は少し黙ってから言った。
「ガルド・レン」
俺は書いた。ガルド・レン、梃子の支点、石材運搬、継ぎ手破断時の警告、勤務五日、未払い銀貨五枚。木札を渡す。番号は七番。
「五日?」
ガルドが札を裏返した。
「城に着いたのは昨日だぞ」
「王都を出た日から数えてる。歩くのも仕事だ。五日ぶん、五枚だ」
男はしばらく札を見ていた。それから鼻を鳴らした。
「……前の隊じゃ、移動日は日当がつかなかった」
「うちはつく」
「そりゃあ、あんたが払えたらの話だな」
「そうだ」
俺はうなずいた。嘘をつく理由がない。
「次」
ミラが来た。
「ミラ・ソーン。……あんた、全員に聞くの? 三十一人よ」
「聞く」
「なんで」
俺は手を止めなかった。
「書いてなきゃ、やってないことになるからだ」
ミラが、言葉を探すように口を開いた。俺は書き終えて、札を渡した。
「今日、あんたは折れた導管がどこにあるか十五分で見つけた。あれがなきゃ、俺たちは弁を戻して、明日また同じことをやってた」
「……走っただけよ」
「走っただけの仕事に、番号がついた」
彼女は札を握って、鍋のほうへ戻っていった。
それから一人ずつ来た。石工が、トビーが、ハンナが、織物の女が。名前を言い、俺が書き、札を受け取っていく。書くのに思ったより時間がかかった。一人につき、その日やったことを一行書く。急げば略せる。略さなかった。
最後にリオンが来た。
「俺も要るのか」
「要る。今日、弁を半周回したのはお前だ」
「王宮の名簿からは、自分で降りてきたんだがな」
「こっちには載る」
俺は書いた。リオン・アーレン、遮断弁の開放、勤務一日、銀貨一枚。
リオンは札を受け取って、少し笑った。
「一枚か。ガルドは五枚だろ」
「お前が来たのは昨日の夕方だ」
「四日ぶん、出遅れたわけだ」
「取り返せばいい。九十日ある」
三十一人分。一人も飛ばさなかった。
五日の者が三十人。一日の者が一人。数字が違うということは、それぞれが違う日から、違うものを差し出したということだ。名簿は、そこまで書ける。
三日前、俺の名前は羊皮紙に載らなかった。載せる価値がないと判断されたからではない。ただ、載せる欄が用意されていなかっただけだ。
欄は、自分で引ける。
俺が帳面を閉じようとしたとき、城門のほうから金属を叩く音が響いた。規則正しい、三度の打音。誰かが正式な作法で来訪を告げている。
ガルドが立ち上がった。
「見てくる」
「いや、俺が行く」
俺は帳面を抱えたまま、冷たい回廊を歩いた。崩れた門の外に、松明を掲げた三騎がいた。中央の一騎が筒に収めた書状を掲げている。その脇に、見覚えのある細身の男が立っていた。袖口の汚れひとつない上着。
メルヴィンだった。
「アルド殿。ご機嫌よう」
彼は微笑んだ。三日前と、同じ顔で。
「本日付で、この城の扱いが変わりました。王国は、旧魔王城の接収を決定いたしました」
俺の背後で、暖房の通った部屋の明かりが、回廊の石床にほのかに伸びていた。
「――九十日は、どうなった」
「ですから」
メルヴィンは書状の封を割った。
「そのことで、お話に参りました」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
毎日21時ごろ更新予定です。
ブックマークや評価をいただけると、更新の励みになります。
誤字を見つけられましたら、誤字報告機能でお知らせいただけると助かります。




