第二十八話 戻り
六十三日目から六十六日目までの四日は、遅れを数える四日だった。
解体は八人日ぶん遅れている。柱を落とす日が後ろへずれ、次の便もずれる。ガルドは何も言わずに支保の位置を描き直した。
地下では二回目の交換が進んだ。麦を壺三杯、水を四杯、二人で運ぶ。ヴェスカは商いの印がついた行を拾い、俺はそれを写した。三日で二十頁と決めたぶんは、三日で終わった。
拾えたのは、印のついた行が十四。買った側の名も、売った側の名も、読めない記号のままだ。彼女は読み上げるだけで、意味を足さない。足さないことに、俺は少し慣れてきた。
「これで二十頁だ」
六十六日目の夜、彼女はそう言って綴じ帳を閉じた。
「次は」
「次の分を決めてから」
そのとおりだった。俺は書いた。二回目、履行済み。三回目は未取り決め。
トビーは窯の余熱で脂を煮続けている。四、五日で一壺。塩水を入れる前の鍋の色を、彼はもう見なくても分かるらしい。
「上の膜、薄くなってきました」
「良くなったのか」
「原料が新しいからです。夏の脂は日が経つと駄目になるので、溜めておけない」
溜めておけない物を、月ごとに納める話はできない。増える速さは知れている。
六十四日目には、七十三日目の検分に向けて、地下へ降りる段の埃を落とした。落とさないほうがいいという意見もあった。埃の半円は、こちらが数えてきた記録だからだ。
結局、落とした。落として、その旨を書いた。
――六十四日目。地下階段の埃を除去。従前の埃の跡は失われる。検分に備えるための整理であり、記録は帳面に残る。
六十七日目の夕方、門の外から車輪の音がした。
◇
荷車は空だった。
ハンナが馬から手を離し、ミラが荷台から降りた。二人とも埃で色が変わっている。峠を二度越えた顔だった。
リゼが最初に近づいた。二人の顔を見て、手を見て、それから馬の脚を見た。
「馬のほうが先」
彼女はそう言って、ロッドを呼んだ。
ハンナは水を一杯飲んで、それから話しはじめた。
「売れました」
ハンナが最初に言った。
「六つ全部です。ただ」
「三枚じゃなかったか」
「二枚でした」
六つで十二枚。
俺は数字を口の中で転がした。明日の朝には集荷の荷車が来る。次の精算は六十九日目だ。
「値切られたのか」
「値切られてません。板に貼ってある額が、二枚でした」
値をつけられる前に、値が貼ってあった。ヴェルデでは、コルトが算定した額を持ってきた。オルデンでは、板を見て、その額で置いていくかどうかだけを聞かれた。
「三枚で出せと言われてたので、三枚と言いました」
「言ったのか」
「言いました。買い手は、板を指しました。それだけです」
二枚で六つ置いてくるか、六つ担いで峠を戻るか。ハンナはその場で決めたことになる。
「置いてきました。持って帰っても、脂は日が経つと悪くなります」
判断としては正しい。俺が現地にいなくても、決めなければならないことがあった。
ミラが懐から紙を出した。四つに折った紙が、二枚。
「これが、オルデンの板」
彼女はもう一枚を並べた。ヴェルデで写した古い紙だ。麦、塩、油、布、釘、蝋。
「同じ形に書いてあるから、並べられる」
俺は二枚を卓に置いた。
◇
金具は、どちらも一個二十枚だった。
油と蝋は、オルデンのほうが高い。麦は少し安い。塩はほとんど同じ。釘は、オルデンの板に項目がない。
「同じ品で、値が違うのがある」
「あります」
「動かない品もある」
「金具は、写した数字が同じでした」
三度目だ。綴じ帳の戦時の行、四十五日目の支払、五十九日目の支払。そこにオルデンの板が加わって四度目になる。
どこの町でも二十枚の品と、町ごとに違う品がある。
「金具のほうが、おかしいんじゃないのか」
ヨルが後ろから覗いて言った。
「二つの町で同じ額なんて、普通あるか」
「相場が同じなら、ある」
「相場が同じなら、油も蝋も同じになるだろう」
言われて、俺は二枚を並べ直した。
油と蝋は町ごとに違い、金具だけが動かない。金具を買っているのは、どちらの町でも同じ商会だ。油と蝋を買っているのは、町ごとに別の店だ。
それが何を意味するのかは、まだ書けない。書けるのは、違うということだけだ。
俺は帳面に二枚を綴じた。
――六十七日目。オルデンの相場表、写し一枚。ヴェルデの写しと並べて綴じる。金具は両町とも一個二十枚。油と蝋はオルデンが高い。
◇
十二枚は、卓の上に置いたままになった。
ハンナが袋から出して、数えて、そのまま卓に置いた。俺は帳面を開いて、手を止めた。
書く欄がない。
城の共通資金に入れるのか。作った者と運んだ者の取り分にするのか。製造と輸送を通常の割当の作業として扱うのか、別の仕事として扱うのか。
どれも決めていない。
「十二枚か」
ニコが卓を覗いた。
「十日分の飯にもならん」
「ならない」
「それでも、誰かの取り分だろう。作ったのはトビーだ。運んだのはこの二人だ」
二十一人の札を数えた日を、彼はまだ引き合いに出さない。出さないことで、かえってその日の形が卓の上に立った。あのときは、始める前に決めていた。解体に出た日に一枚、金具を外したら一枚、石板を運び出したら一枚。
今回は、何も貼っていない。
「アルドさん」
ハンナが言った。
「これ、誰の分ですか」
「決めてない」
「出る前に、決めておくものじゃないんですか」
七行目だ。始める前に決めろ、と書いてある。
書いたのは俺だ。
「決めてなかった」
俺は帳面に書いた。
――六十七日目。灯し脂の売上十二枚。配分未定。出発前に取り決めなし。整理官の落ちである。
手元の数字には足さなかった。決まっていない金は、手元ではない。
◇
「もう一つあります」
ハンナは埃を払う手を止めなかった。
「私とミラは、五日働きました。四日の週に、五日です」
六十二日目に出て、六十七日目に戻った。往復四日、商談一日。二人で十人日だ。
「一日ぶん、どうなりますか」
「……それも、決めてない」
「二つですね」
ハンナは初めて手を止めた。
「売上の行き先と、五日目の扱い。どっちも出る前に決まってなかった。それで、もう一つあるでしょう」
あった。
六十二日目、俺は署名した。前渡し百六十八枚。担保は先週と同じだと、朝に全員へ言った。その後で、条項が一つ増えた。担保物件の立入検分、七十三日目。
ハンナとミラは、そのとき峠の上にいた。
「聞きました。ケインさんから」
彼女は言った。
「増えた条件を、私たちは知らないまま出ていました」
「そうだ」
「怒ってはいません。困ってるんです」
彼女は荷車の縄を巻きはじめた。
「出るときに決まってないと、帰ってから決まる。帰ってから決まったことは、出ていた者には直せない。次に出るとき、私は何を持って出ればいいんですか」
答えを持っていなかった。
持っていないまま、俺はそれを書いた。
――ハンナの申し立て。城外に出る者は、出発前に日数・取り分・割当の扱いが定まっていない。条件の変更が不在中に生じた場合、不在者は異議を出せない。六十九日目の協議に付す。
「書いたな」
ミラが横から覗いた。
「書いた」
「書いても、まだ何も決まってないけど」
「決まってないことは、決まってないと書く」
ダンが土間の隅で縄を巻いていた。手を止めずに、こちらを見ずに言った。
「決まってないまま出されるのは、こたえるぞ」
「そうだろうな」
「そうだろうな、じゃない。こたえるんだ」
彼は縄の端を歯で押さえて締めた。左肩は上がらない。
「向こうで五日、飯だけで働いてたのと同じだ。帰ってから額を聞かされるのは」
ハンナが何か言おうとして、やめた。ダンはそれ以上言わずに、巻いた縄を壁に掛けた。
◇
その夜、ミラが厨房の隅で板の写しをもう一度読んでいた。
「これ」
彼女が指したのは、オルデンの板の余白だった。文字の書き足しがある。板に書いた者とは別の手だ。
「買い手が書いたやつ。毎月十二壺あるなら、一壺三枚で買ってもいいって」
十二壺。
俺はトビーを呼んで、聞いた。溜まる速さはどれくらいか。
「三十三日目から六十日目で、桶が六つでした」
二十七日で六桶。一週で一桶半。煮て、洗って、濾して、壺一つ半。
「一壺二枚なら」
「週に三枚です」
三枚だ。
明日の集荷で入る乾燥肉が七十四枚。次の精算に必要なのは二百五十枚に近い。そこへ三枚。
俺は板の余白の字をもう一度読んだ。
毎月十二壺で、一壺三枚。月に三十六枚。週にすると八枚あまりになる。いまの三枚の、二倍半だ。
できない話ではない。ただ、いま作れているのは月に六壺半だ。倍にしなければ届かない。
「倍にできないの」
ミラが聞いた。
「原料が倍にならない。罠の数を増やせば脂は増えるが、罠を見る人手が要る。人手は解体に取られてる。解体が遅れれば次の便が遅れて、返済が遅れる」
「どこを押しても、どこかが凹むわけね」
「そうだ」
彼女は板の写しを二つに折って、俺のほうへ滑らせた。
「じゃあ、押す場所を城の中から探すのはやめたら」
俺は折られた紙を見た。ヴェルデの板と、オルデンの板。城の外に、値が二つある。
答えは思いつかなかった。ただ、二枚の紙を綴じた頁のことが、灯りを消した後まで頭に残った。
卓の上には、まだ十二枚が置いたままだった。




