第二十七話 灯し脂
六十日目の朝、トビーが厨房の裏に桶を六つ並べていた。
中身は脂だ。乾燥肉を作るとき切り落として捨てていた分らしい。
「いつから溜めてた」
「三十三日目からです。捨てるのがもったいなくて」
村は皮しか使わない。城は肉だけだ。脂は、両方から捨てられていた。
「上が灰色だな」
「日が経ったやつです。あと十日置いたら、たぶん使えません」
「煮たら、どれくらいになる」
「滓と水が出ますから減ります。桶六つで、壺六つ分になれば上等です」
俺は書いた。粗脂、桶六つ。精製後、壺六つ分の見込み。使用期限、十日。
◇
やり方は地下から上がってきた。セロが手順を聞き、紙に書いた。
「二度煮る。一度目で煮溶かして、浮いた滓を取る。それから塩水を入れてもう一度煮る。冷めると水と脂が分かれるので、上だけ取る。最後に布で濾す」
トビーは紙を三度読んで、窯に火を入れた。
「余熱でやれます。薪は増やさなくていい」
村から毎月二十束来る分で足りる。
一度目の煮溶かしで、部屋の匂いが変わった。獣の匂いだが、腐った匂いではない。
昼過ぎ、最初の壺ができた。冷えて固まると白い。匂いは、ほとんどしない。
トビーが芯を立てて火をつけた。炎は細く伸びて揺れず、煙も出ない。
「これ、書物庫で使えます。松明が怖くて、あそこは昼しか作業できなかった」
俺は書いた。城内の用途——書物庫の灯り、革、軸。
「壺一つに、半日ですね」
「六つで三日か」
「鍋を二つ並べます。余熱の口は二つある」
トビーは窯の口を指した。
「ただ、昼は片方が書物庫の乾燥で塞がってます。あれは止めません。昼は一口で二壺。夜は乾燥がないので、二口で二壺」
「一日で四壺か」
「六つなら、明日の夕方に揃います」
六十日目の朝に始めて、六十一日目の夕方に六壺。荷を出すのは六十二日目の朝。間に合う。
彼は鍋を洗いはじめた。教わったのは今日だが、火の番は初めてではない。
◇
六十一日目。乾燥肉の二十袋を納めて八十枚が入った。運んだのは、うちの荷車とうちの二人だ。集荷が始まるのは六十八日目の納品分からで、運搬の実費が引かれるのもそこからになる。いくらかは、まだ知らない。
同じ日、綴じ帳から出た数字を自分の帳面と並べた。
灯し脂は戦時中、壺一つにつき銀貨三枚で動いていた。六つで十八枚。明日の不足は百六十八枚。桁が違う。
それでも消さなかった。
乾燥肉は食料商が二十袋で限度だ。それ以上なら商会を通せとも言われた。食料商への直売で増やす道は、そこで閉じている。
灯し脂の原料は、毎月入ってくる。売っても減らない側の行になる。かもしれない。まだ一枚も売っていない。
◇
同じ日、金具の数字が三つ揃った。
綴じ帳の戦時の行、一個二十枚。四十五日目に商会が払った額、一個二十枚。五十九日目も同じ。
三度、同じだった。
石板は揃わない。束で値がつき、束ごとに一枚あたりが違う。品質か、束の大小か、値をつける側の裁量か、分からない。
考えているうちに、別のことに気づいた。
俺は相場という言葉を何度も使ってきた。値切られなかったから安くはない、と書いた日もある。
その相場を、どこで知ったのか。
ミラが町で写してきた紙だ。麦、塩、油、布、釘、蝋。あれで相場というものを覚えた。
写した町は、ヴェルデだ。
基準を、確かめたい相手のところから受け取っていた。
俺は書いた。
――相場の出所。ミラの写し。写した先はヴェルデ。基準として使ってよいか、未検証。
結論は書かない。書けることが、まだない。
◇
夜、地下へ降りて、刻み三つの印のことを聞いた。
「代金を先に渡して、品か場所で返させる取引につく」
「先に渡す」
「そうだ。物を渡して金をもらうのではない。金が先だ。返すのは品か、場所」
俺の証文は四通。前渡しで受け取り、売却代金で返し、動かない物を担保に置く。同じ形だった。
「これは、悪い取引の印か」
「違う。それだけで悪いなら、この城の帳面はぜんぶ悪い取引だ」
一致しているのは形だけだ。罪の証拠ではない。同じ書き方を長く続けてきた、という証拠だ。
◇
六十二日目の朝、荷車を出す前に、五十二人全員を大広間に集めて言った。
「今日も百六十八枚借りる。額も担保も、先週と同じだ」
誰も手を挙げない。先週は四人が異議を出した。今日は一人もいない。
同じ額を二度続けて借りると、二度目の説明は短くなる。短くなったことに、誰も文句を言わない。
――五十五日目と同一条件につき異議なし。説明は先週より短い。
この時点では、同一条件だと信じていた。
それから荷車を一台出した。積んだのは壺六つ。行き先はオルデン。峠を越えて片道二日、往復四日、商談に一日で五日。
行くのはハンナとミラだ。ハンナは輸送隊にいた。ミラは地図を持っていて、値を写した経験がある。
「値は」
「戦時中と同じ、壺一つ三枚で出してくれ。それが通るかを知りたい。通らないなら、売らずに持って帰っていい」
「売れなかったら、無駄になりますけど」
「無駄にならない。いくらで断られたかが分かる」
ミラは手を止めた。
「……あの紙、あたしが写したのよ。商会の館の、入口の脇の板から」
「知ってる」
「あれ、相場だと思ってた」
「俺もそう思ってた。写したのはあんただが、相場だと決めたのは俺だ」
ミラは何も言わずに地図を畳んだ。
「オルデンの板も、写してくる。貼ってあれば」
二人と五日ぶんの手は、解体の輪番から抜いた。十人日。六十八日目から集荷が始まれば運ぶ手が二人日浮くので、差し引いて八人日。
その八人日ぶん解体が遅れる。柱を落とすのが遅れれば次の便が遅れ、返済も遅れる。
俺は理由を書いた。
――六十二日目。オルデンへ試験出荷。灯し脂、壺六つ。二名、五日、十人日。六十八日目からの集荷で二人日が浮くため、差し引き八人日ぶん解体と返済が遅延。
――目的は売上ではない。第一に、戦時中の一壺三枚がいま通るかの確認。第二に、オルデンの相場を写して持ち帰り、ヴェルデの相場と並べられるようにすること。
灯し脂は集荷の書面の三品に入っていない。担保にも入らない。捨てていた脂から作った物だ。二つとも書面で確かめた。
◇
午後、コルトが来た。
必要額は二百四十八枚、手元八十枚、不足百六十八枚。証文の額は百六十八枚。五度目だ。
「本日の分から、条項が一つ増えております」
コルトは証文を裏返して、下のほうを指した。
「担保物件の状態確認のため、弊会は立入検分を行うことができる。日付は七十三日目でございます」
「日付が、先に入るんですか」
「担保が増えた場合、通例、一度は見せていただきます」
通例。五十五日目に俺が聞いて、彼がそう答えた語だ。約束ではないと思って、そのまま書いた。
通例は、こういう形で来るらしい。
「外すことは」
「本日の前渡しを見送られるのであれば」
見送れば、二百八枚が出ない。
俺は署名した。
債務は五百七枚から六百七十五枚になった。
署名してから、八行目を破ったことに気づいた。
借りることは、朝、全員に言った。だが、増えた条件は言っていない。言ってから署名するには五十二人をもう一度集めることになる。ハンナとミラは、朝のうちに発っている。
その場でできなかった。二百八枚を出さないという選択も、できない。
破ったなら、破った理由まで書く。
もう一つ、署名しながら考えていた。この額を出すには、五十二人という人数と、週四日の割り当て、維持費、乾燥肉の週八十枚を知っていればいい。
乾燥肉を買っているのは、ヴェルデの食料商だ。商会ではない。
だが商会は、その食料商が何袋仕入れたかを知っている。三十四日目にコルト自身が言った。相場と手間賃から、御城に幾ら渡ったかは算盤で出ます、と。
納入量と手取額を把握し、担保を評価し、六十八日目からは集荷も担う。算盤で出る。
出るというだけかもしれない。だが五度続けて、一枚も違わない。
俺は帳面の後ろの頁を開いて書きかけた。誰にも見せない頁のつもりだった。
手が止まる。五十四日目に決めたことがある。見せない頁は、あれより悪い。
前の頁に戻って書いた。
――五度、不足額と証文の額が一致。理由不明。城の数字が外に出ている可能性、要調査。この行は全員が読める場所に置く。
――同日。増えた条件(立入検分)を全員に諮らず署名。八行目に反する。理由、二百八枚を今日払う必要があったため。異議の機会を与えていない。
要調査と書くのは、何度目か分からない。
◇
夜、地下へ降りて、オルデンへ荷を出したことを伝えた。
「読む頁を増やす」
彼女は言った。頼む前だった。
「初回は二日で十頁だった。あと二十頁あるのを、三日で読む」
「なぜ」
「この城が消えれば、あれを読める者が一人もいなくなる」
彼女は綴じ帳の背を押さえた。
「読める者がいない記録は、ただの紙だ」
「取り分は」
「麦は壺三杯、水は四杯。頁が倍になるから、その分だけ増やす。運ぶのは二人で来い。一人だと壺四杯はこぼす」
自分で条件を言ったのは、初めてだった。
――二回目。麦、壺三杯。水、壺四杯、二人運び。対価として、商いの印のある行を三日で二十頁。始める前に決めた。
◇
上がってから、大広間に残っていた者に七十三日目のことを話した。夜番には朝いちばん、オルデンの二人には帰ってから伝える。
順序が逆だ。本来は、先に言ってから署名する。
商会の人間が、地下区画を見に来る。あの部屋を見に来る。九十日目より前、あと十一日。
署名した紙を膝に置いて、その日付を数えた。それから帳面を開き、日付の行を作った。
検分の日付を、俺は自分の字で書き写した。




