第二十六話 五十七人
五十六日目、五人で降りた。
降りてすぐ、彼女は前置きなしに言った。
「一昨日の話だ。数えなかった、というのは聞いた」
「はい」
「あれでいい」
俺は顔を上げた。
「数えろと言ったのは私だ。言ったあとで気づいた。自分がやったことを、お前にもやらせようとしたんだ」
斜線のことだ。
「だから、あれでいい。二度は言わない」
俺は帳面の未了の行に、返答あり、と書き足すことにした。
こちらは昨日の証文の写しを持ってきていた。読めないと分かっていて、持ってきた。
「昨日、百六十八枚を借りました。担保に、この区画が入りました」
ヴェスカは写しを受け取らなかった。手も出さなかった。
「この区画というのは」
「この部屋を含みます」
彼女は刻み目の並んだ壁を見て、それから俺を見た。
「期限は」
「九十日目」
「払えなければ、誰が来る」
「商会の人間が来ます」
「その紙は、いま誰が持っている」
「一通は俺が、一通は商会が」
三つとも手続きの問いだった。怒りも怯えもない。人員配置係の聞き方だった。
「もう一つ聞く」
彼女は言った。
「その紙に、私がここにいることは書いてあるか」
「書いてありません」
「では、あの部屋は空き部屋として売られる」
俺は答えられなかった。図の上では、そうなる。
「一つ、教えろ」
彼女は続けた。
「その紙のほかに、お前が外へ出す紙はあるか」
「あります。国へ出す報告書です。八十五日目までに何度か出す」
「そこには、何を書く」
「城の人数、仕事、金の出入り」
「人数」
彼女はその言葉だけを繰り返した。
「五十六人と書いてきました」
「いつからだ」
「二十九日目からです」
「今日まで、それで通してきたのか」
「五十二日目に、あなたを見ました。それから四日、書き換えていません」
言ってから、四日という数字が耳に残った。
彼女は何も言わずに、壁の刻み目へ目をやった。二年、自分がここにいたことを自分で数え続けた者の目だった。
◇
地上へ戻って、人の帳面を開いた。
最初の頁に、総数の行がある。二十九日目から書き足しては消して、いまはこうなっている。
――人口、五十六人。うち雇用契約者五十二人、子ども三人、整理官一人。
俺は横線を引いて、下に書き直した。
――確認済み、五十七人。地上五十六人(雇用五十二、子ども三、整理官一)。地下一名、名、ヴェスカ。居住・雇用いずれも未決。給金対象は五十二人のまま。
書いてから、しばらく見ていた。
五十六が五十七になった。一しか動いていない。
一を足すのに、四日かかった。扉が開いたのは五十二日目で、今日は五十六日目だ。その四日、俺は五十六と書き続けていた。
◇
五十七日目の朝、ヨルが帳面の前に立っていた。
「五十七に変えたのか」
「変えた」
「戻せ」
初めて、はっきりした言い方だった。
「理由を聞く」
「その数は、外に出る」
彼は言った。
「国に出す書類に、城の人数を書くだろう。整理官の報告書だ。八十五日目までに何度か出すことになってる」
「出す」
「五十七と書けば、そのうちの一人は魔族だと聞かれる。答えれば、廃城に魔族が居住していると書かれる。九十日を待たずに、接収の口実になる」
俺は黙った。
筋が通っていた。感情の話をしていない。彼は接収の日程の話をしている。
「五十六に戻せば、口実は作られない。あの女が地下にいる事実は変わらん。俺が言ってるのは、紙の上のことだ」
「紙の上のことが、いちばん残る」
「残って、城が接収されたら、五十二人が路頭に迷う。あんたが数えた五十二人だ」
言い返す言葉を探して、見つからなかった。
俺は帳面を開いたまま、隣の頁を出した。
昨日書いた行の下に、もう一行足した。
――五十七日目。総数五十七の記載に、ヨル反対。理由、国への報告により接収の口実となる恐れ。整理官はこれを認識のうえ、記載を維持する。
「維持するのか」
「維持する」
「理由を言え」
「五十六と書いて、地下に人を置いたままにすると、この帳面が、あの綴じ帳と同じ形になる」
斜線の話だ。
配置の欄から名前を外して、外したことだけを別の印で残す。あれは、いる者をいないことにする書き方だった。
「同じじゃないだろう」
「同じだ。数に入れないという意味では、同じだ」
ヨルはしばらく俺を見ていた。
「……あんたは、いつもそれだな」
「そうだな」
「言っておくが、俺は反対だ。書いたな」
「書いた。名前も書いた」
「それでいい」
彼は帳面を閉じずに、そのまま行った。閉じるのは、俺の仕事だと思っているらしかった。
◇
同じ日、ヴェスカとの取り決めを先に決めた。七行目だ。始める前に決める。
仕事は、綴じ帳から商いの印がついた行を拾うこと。
量と日数も、その場で決めた。
――初回。麦、彼女の壺で二杯。水、同じ壺で二杯。地下まで汲んで運ぶ手間はこちらが持つ。対価として、商いの印がついた行を二日で十頁。
麦は、村から毎月来る三袋の共通在庫から出す。水を運ぶのは城の人間だ。運ぶ手間も対価のうちに数えた。
「十頁で足りるのか」
彼女が聞いた。
「足りなければ、次の分を始める前に決め直します」
「多すぎたら」
「そのときも、始める前に言ってください」
七行目は、始める前に決めろとしか書いていない。決め直すことは禁じていない。
麦のことは、厨房で先に言った。
「誰の分を削るんですか」
トビーが聞いた。
「誰の分でもない。在庫から出す。三袋のうち、壺二杯だ」
「三袋から引いたら、結局、誰かの椀が薄くなりますよ」
「薄くなる。だから、薄くなる分は五十六人で均す」
言ってから、訂正した。
「麦の話では五十七になる。地下の分も、この三袋から出るからだ」
トビーは少し考えて、匙の柄で鍋の縁を叩いた。
「……一人増えて薄くなる量なら、水を足す量と変わらないです。やります」
安請け合いに聞こえた。だが彼は、二十九日目から一度も焚くのをやめていない。
乾燥肉は使わないと決めた。納める二十袋に手をつければ、週八十枚が減る。
「日当は」
彼女が聞いた。
「出しません」
「働かせて、出さないのか」
「出せません。城に現金がない。次の精算も借りて払います」
俺は帳面の余白で計算して、それを読み上げた。
「あなたを給金の対象にすると、五十三人になります。四日ぶんで二百十二枚。維持費を足して二百五十二枚。乾燥肉の八十枚が入っても、百七十二枚足りません」
「いまは」
「いまは百六十八枚足りません。四枚増えるだけです」
四枚だ。日当一枚の四日ぶんでしかない。
その四枚を、俺は今日、出せない。
「城が残ったら払う、という約束もしません」
「なぜ」
「二年半前、俺たちはそれを言われた側です。今度払う、次の予算で払う、来月には出る。全部、出ませんでした」
払えない給金を先に約束するのは、あの日の役所と同じことをするのと同じだ。
「だから、渡せる物だけを、その場で渡します。麦二杯と、水と、運ぶ手間。それ以上は書きません」
彼女は少し黙って、それから頷いた。
「安い」
「安いです」
「上げろと言えるのか」
「次の分を始める前なら、いつでも言えます」
彼女は、それを聞いてから壺を二つ、棚から出した。
◇
五十八日目までに、拾い出された行が三つ形になった。
一つ。金具は、戦時中も一個につき銀貨二十枚で動いていた。
二つ。この城から出ていた品に、乾燥肉でも金具でも石板でもないものがあった。
「灯し脂」
ヴェスカはその行を指して言った。
「獣の脂を、二度煮て、塩水で洗って、濾す。灯りに使う。革にも塗る。軸にも差す」
「軸に」
「あんたたちが最初の日に見た、扉の軸の脂だ。あれは一度煮ただけの粗いやつだ。まともに作れば、白くなって、匂いも残らない」
「二年、それを作ってたんですか」
「軸に差さないと、扉が鳴る」
彼女は当たり前のことのように言った。
「鳴れば、上に聞こえる。聞こえれば、誰か来る」
二十二日目に麻紐を張ってから、紐が切れた日は二度しかない。切れなかった日、彼女は脂を差していたのだ。音を立てないために。
こちらが数えていた紐の記録は、向こうが音を殺していた記録でもあった。
三つ。その脂を買っていた場所の名が、綴じ帳に書いてあった。人間の地名ではなかった。
「東の峠を越えて、川がふたつ合わさるところ」
彼女はそう読んだ。それ以上は分からないと言った。魔族側の呼び名で書いてあるからだ。
ミラが三年前の地図を広げた。
「峠を越えた先で、川が二つ合わさるのは一か所しかない。オルデンよ」
「行ったことがあるか」
「一度だけ。荷車で、片道二日」
◇
五十九日目、第二便が売れた。
金具が八個で百六十枚。一個二十枚だ。石板は三十枚を束で九十枚。
合わせて二百五十枚。四割の百枚が作業者に渡り、六割の百五十枚は卓の上で差し引かれた。
債務は六百五十七枚から五百七枚になった。
手元は、一枚も増えていない。三度目だ。
柱が二本減り、金具八個と石板三十枚が城から出て、帳面の数字が百五十小さくなった。目に見えて変わったのは、西翼の空が少し広くなったことだけだ。
俺は第一便の数字を並べた。石板は三十七枚で百二十枚だった。一枚あたりにすると、今回のほうが安い。
「同じ石板だぞ」
ガルドが言った。
「束で値をつけてる。束の大きさが違えば、値も違う。そういうものかもしれない」
「かもしれない、で終わらせるのか」
「終わらせない」
俺は帳面に書いた。石板、束の値。第一便と第二便で一枚あたりが違う。理由不明。
それから、五十五日目の書面を出した。
集荷と保管の書面だ。取扱品目の欄に、三つ書いてある。乾燥肉、金具、石板。
俺は三つを指で押さえて、四つ目を探した。
ない。
帳面にあった灯し脂だけが、あの書面に書かれていない。




