第二十五話 四度目
五十五日目の朝、俺は壁に数字を書いた。
五十二人の四日ぶんで二百八枚。維持費四十枚。合わせて二百四十八枚。
手元は八十枚。昨日、乾燥肉二十袋を納めて入った分だ。
足りないのは、百六十八枚。
八行目は、借りる前に全員へ言うと決めている。
壁に書くのは、その始まりでしかない。前を通らない者がいる。通っても読まない者がいる。言うというのは、口で言って、返事を聞くことだ。
「先週は百九十二だったな」
ニコが横から見て言った。
「先週は繰り越しの一日が乗ってた。今週は四日ぶんだけだ」
「じゃあ来週は」
「同じだ。百六十八」
彼はそれ以上聞かなかった。聞かなくても、同じ数字が並ぶのは分かる。
◇
使いに持たせる文は、前の晩に書いてあった。
――五十五日目、精算につき百六十八枚の前渡しを願う。
願う、という言い方を三度書き直して、最初に戻した紙だ。ハンナに持たせるところだった。
◇
門から声がした。
馬車が来ていた。コルトは荷台から書類の袋を下ろして、いつもの角度で頭を下げた。
「精算日と伺っておりましたので」
四度目だ。頼む前に来たのは、二度目から三度続いている。
証文の額を見る前に、俺は数字が分かっていた。百六十八枚と書いてあった。
「なぜ、この額です」
「弊会にて算定いたしました」
同じ答えだった。四度、同じ答えを聞いている。
俺は担保の欄に目を落とした。
西翼。玉座の間。そして、その下にもう一行あった。
――地下区画。
「これは」
「担保として頂いておりました西翼と玉座の間は、御城が解体して売却しておられます」
コルトは書類の縁を揃えた。
「担保が減った分、新しい前渡しには新しい担保が要ります。既存の三通の条件は、一字も変えておりません。変わるのは、今日お渡しする分の条件です」
筋は通っていた。売ったのは俺たちだ。代金は返済に充てた。減ったのは事実だ。
「別のものでは、いけませんか」
「たとえば」
「書物庫に、まだ千四百冊ある」
「湿気で膨れたものでございますね。値がつきません」
知っていた。十日目に自分で数えた数だ。
「魔石炉が三基ある」
コルトの手が止まった。
「動いているのは一基、東翼の暖房と給水にお使いですね。担保に入れた物を御城が使い続けることはできます。ただ、払えなかった日に、弊会はそれを引き取ります。冬は、そのあとに来ます」
その先を、彼は言わなかった。言う必要がなかった。
五十六人が水と暖房を失う。三日目に咳をしていた男は、まだ城にいる。
「……ほかには」
言おうとして、口の中で止めた。
乾燥肉の週八十枚。村から来る薪と麦。帳面の右の欄にある二行だ。
あれを担保に出せば、書いた意味がなくなる。売っても減らないから右の欄に書いた。担保に出すのは、売る約束をするのと同じだ。
「……いや。ほかにない」
「弊会がお預かりできるのは、動かない物だけです」
コルトは静かに言った。責める調子はなかった。
「入ってくる金は、預かれません。入らなくなれば、そこには何も残りませんので」
それも、正しかった。
◇
署名の前に、大広間に人を集めた。
五十二人のうち、四十四人が来た。残りの八人は持ち場から離れられない。
コルトには、待ってもらった。
「借りる前に、全員に言うと決めています。八人にはこれから回ります。署名は、そのあとです」
「承知しました」
彼は玄関の脇の石に腰を下ろした。急かす様子はない。
「今日、百六十八枚借りる。担保に、地下区画が入る」
部屋が動いた。
「地下って」
「あの扉の向こうを含む区画だ。図の上では、そうなる」
「あそこには」
言いかけた者が、途中でやめた。
「人がいる」
俺が言った。
「ヴェスカが二年いた部屋も、その図の中だ。払えなければ、あそこは商会のものになる」
誰も、すぐには喋らない。
「五十四日目に、反対はなかった。あれは交換を続けることへの返事で、担保の話じゃない。今日の話で意見が変わった者は、言ってくれ」
三人が手を挙げた。
最初の一人はエッダだった。
「担保になった物は、いつか人が見に来ます。梱包の仕事をしていたから分かります。値をつける人は、必ず物を見に来る。見に来た人が、あの部屋の壁を見ます」
刻み目のことだ。七百を超える線がある。
「見られたら、どうなる」
「分かりません。分からないから、反対です」
二人目は、担保に入る前に扉を閉め直すべきだと言った。三人目は、理由を言わずに手を挙げた。
俺は三人の名前を書いた。理由を言わなかった一人の欄には、理由なし、と書いた。理由なしと書くのも、記録のうちだ。
「借りるのは変えない。払わなければ、五十二人の四日ぶんが出ない」
「変えないなら、聞く意味があるのか」
ヨルだった。
「意見が変わったことを、書く意味がある」
「書くだけか」
「今日は、書くだけだ」
ヨルは何も言わなかった。
◇
残りの八人を、持ち場で回った。西翼の足場に二人、罠の支度に二人、厨房に一人、給水の当番に二人、診療所にリゼが一人。同じことを八回話した。
八人目に、給水の当番の一人が言った。
「俺は反対だ」
「理由は」
「あの部屋の水は、うちの炉が汲んでる水と同じ脈だ。部屋が人手に渡ったら、水の話になる。そのとき、うちは何も言えない」
考えていなかった。反対の理由として書き、あとで調べる項目としても書いた。
異議は四人になった。三と書いた行を消して、四に直す。消した跡は残した。
コルトはまだ石に腰を下ろしていた。一刻半、待たせたことになる。文句は言わない。ただ、そのあいだ、城の壁と崩れかけた回廊を、ずっと眺めていた。
◇
署名した。
蝋を垂らして、コルトが印を押す。皿がふたつ。竿は水平ではなく、左が下がっている。円の縁に、小さな刻みが三つ。
四度目に見る形だった。
昨夜、地下で同じ形を見たことは、言わなかった。
「一つ伺います」
俺は言った。
「戦時中、そちらは魔王軍の側と取引をしましたか」
コルトの手が止まった。長くはなかった。
「いたしました」
否定しなかった。
「弊会は、行き場のない者に物を売ってまいりました。前線から外された兵にも、逃げた村にも、山に籠った者にも。買う者がいれば売る。それが商いです」
「魔族にも」
「相手が誰であるかを、弊会は選びません」
彼は書類を袋に戻した。
「選ぶ商会は、戦の三年目に全部潰れました」
嘘をついている顔ではない。恥じている顔でもない。
その二つのどちらでもない顔を、どう帳面に書けばいいのか分からなかった。
もう一つ、エッダが言ったことを聞いた。
「担保に入れた物を、そちらは見に来ますか」
「必要が生じれば。返済が滞る見込みが立ったとき、あるいは担保の状態が変わったと弊会が判断したときです」
判断するのは、そちらだ。
「来るときは、先に知らせが来ますか」
「通例、参ります」
通例。約束ではない語だから、そのまま帳面に書いた。
◇
帰り際に、もう一つ片づけた。
「集荷と保管の件、受けます」
次までに、と答えたままだった話だ。二日ぶんの手が浮く。六十九日目までに解体以外の出来高を作る宿題があり、手が要る。
「ありがとうございます」
コルトは書面を出した。取扱品目の欄に、三つ書いてあった。
――乾燥肉、金具、石板。
「この三品を、弊会が城まで引き取りに参ります。倉庫は弊会のものをお使いください」
「三品だけですか」
「いま御城から出ているのは、この三品でございます」
そのとおりだった。
「費用は、前に伺ったとおりですか」
「運搬の実費のみ、品代から差し引かせていただきます」
俺は指を止めた。
差し引かれるのは品代からだ。次の売りは五十九日目の第二便、その次が六十一日目の乾燥肉。どちらも、六十二日目の精算に充てる金になる。実費がいくらかは、まだ知らない。
「初回はいつから」
「明日からでも参ります」
「第二便と、六十一日目の乾燥肉は、うちの荷車で出します。その次からお願いします」
「六十八日目でございますね」
「そうです。実費が分かる前に、二回ぶん差し引かれるのは困る」
コルトは書面の余白に一行足して、こちらへ回した。
――初回集荷は六十八日目の納品分より。
俺は署名した。
◇
夜、帳面を開いた。
――五十五日目。精算二百四十八枚。手元八十枚。前渡し百六十八枚。債務、四百八十九枚より六百五十七枚。担保に地下区画を追加。既存三通の条件変更なし。
――同日。集荷・保管を承諾。取扱品目、乾燥肉・金具・石板の三品。初回集荷は次回納品日、六十八日目から。運搬実費は品代より控除。
――借入について、集会四十四名、持ち場八名、計五十二名に説明のうえ署名。異議四名、氏名記載。うち一名、理由の申述なし。
――地下の水脈と給水の導管は同一の脈との指摘あり。要調査。
――担保物件の検分について、商会の回答は「必要が生じれば」「通例、事前に知らせる」。約束ではない。
もう一行、書き足すことがあった。
五十四日目、外された者の数は数えなかったと彼女に言った。理由も言った。だが、彼女がそれをどう思ったかは聞いていない。あのとき彼女は、斜線を引いたのは自分だと言って、そのまま頁をめくった。
断ったことに、向こうがまだ答えていない。
――五十四日目、数の件。整理官は数えないと回答。相手方の返答なし。未了。
最後に、前の晩に書いた文を挟んだ。宛先に届かないまま残った紙だ。頼む前に、向こうが来たからだ。
書き終えて、担保の行をもう一度読んだ。
地下区画。図の上では、四つの壁と、階段と、扉一枚のことだ。
その中に、壺の並んだ棚と、畳んだ布と、七百を超える刻み目がある。
俺は、あの部屋を、彼女が読めない字で書いた。




