第二十四話 五十二の声
五十四日目。夜が明けきる前に、俺は帳面の新しい頁に線を一本引いた。
左に名前、右に空欄。空欄には、あとで印をつける。
昨夜のうちに、朝の集会を全員に伝えておいた。村への使いは一日遅らせ、夜番はハンナとトビーに代わってもらった。二人とも日中に休みを取っている。
集まるまでに、少し時間があった。
最初に聞いたのはハンナだった。
「外された経験、あるか」
「唐突ですね」
「唐突だ。悪いが、理由は後で話す」
彼女は荷の縄を止めて、少し考えた。
「輸送隊にいたとき、荷馬車の御し方を知ってるからって理由で、二年、前線に上げてもらえませんでした。頼んだわけじゃないですけど」
俺は空欄に印をつけた。
次はニコだった。井戸端で聞いた。
「竜の隊で、一度外された。臆病者だと言われた。実際は、隊長の甥が入りたがって、枠が要っただけだ」
「それだけか」
「それだけで十分だろう」
ミラには、地図を巻いている最中に聞いた。
「あたし? ないと思う」
少し考えて、付け足した。
「……村を出るとき、口減らしって言葉は聞いたことがある。あたしのことじゃないけど」
声が、前の二人より小さかった。俺は空欄の前で、ペンを止めた。
◇
「アルド」
リゼだった。薬箱を提げて、いつからそこにいたのか分からない。
「その頁、何」
「外された経験の有無を、聞いて回ってる」
「理由は」
「後で話す」
「今、あたしに話して」
俺は説明した。綴じ帳の斜線のこと、ヴェスカに数を求められたこと。
リゼは、しばらく黙っていた。
「数えるのが悪いなんて言わない。あんたが数えてきたから、ダンの縄が仕事になった」
「なら」
「でも今のは違う。何のために聞くかを言わないで、傷の話をさせて、名前つきで書いてる。それは仕事を数えてるんじゃない。人の傷を、証拠に使おうとしてる」
言葉が来なかった。
「昨日、地下で何を言ったの」
覚えていた。あなたが話したことは、あなたが許した分しか書きません、と言った。昨日の午後だ。
「……許した分しか書かない、と言った」
「ミラは、許したの」
俺は答えられなかった。
「なら、やめて」
俺は頁を閉じた。ペンを持つ手が、少し冷たくなっていた。
◇
三人のところへ、順に戻った。
何のために聞いたのかを話し、聞き方が間違っていたと言い、目の前でその行を消した。ハンナは「別に気にしてません」と言った。ニコは「消さなくていい」と言った。
それでも消した。
残していいと本人が言ったから残す、という筋にはしたくなかった。目的を言わずに取った記録は、本人が許しても残さない。そう決めておかないと、次も同じ聞き方をする。
ミラは、何も言わなかった。それがいちばん長く残った。
◇
朝、大広間に人を集めた。
五十二人が、全員来た。卓は出さなかった。壁を背に立って話す形にした。
「地下に、ヴェスカという者がいる」
俺は言った。
「元魔王軍の人員配置係だ。二年、あの扉の内側で生きてきた。俺とリオン、ケイン、セロ、リゼの五人で会っている。水と食料を渡し、記録を見せてもらっている」
「見せてもらってる、じゃなくて、押しかけたんだろう」
ヨルだった。
「押しかけた。否定しない」
「魔族だぞ」
「そうだ」
「二年、何を考えてたか分からん相手だ。それを住まわせるのか」
「今日は、それを決めない」
俺は言った。
「迎えるかどうかを決める材料が、まだ揃ってない。地下にほかの誰かがいるかどうかも、確認できていない。確認しないまま迎えることはしない」
「じゃあ、何を決めるんだ」
「今のやり方だ。五人が水と食料を渡し、記録を見せてもらう。それを、五人だけの話にせず、城の仕事として続けていいかどうか。それだけを決める」
「五人でやってたことを、今さら諮るのか」
「今さらだ。悪いと思ってる」
俺は認めた。
「もう一つ、先に言う。今朝、俺は何人かに、外されたことがあるかを聞いて回った。理由を言わずに聞いて、名前つきで書いた。リゼに止められて、やめた。書いた行は消して、本人にも話した」
部屋がざわついた。
「なんで、そんなことを」
「地下の記録に、外された者の印が十七あった。こちらにも同じ数がいるなら、話が通じると思った」
「通じさせるために、人の古傷を数えたのか」
ヨルの声は、静かだった。静かなほうが、刺さった。
「そうだ」
「あんたのその帳面は、そういう使い方もできるんだな」
返す言葉はなかった。そのとおりだった。
◇
「聞きたいことがある」
ヨルが続けた。
「時間をかけてる間に、地下にほかの誰かがいたら、どうする」
「石の補修の跡から、ケインが複数人の可能性を見立ててる。確認はできていない。本人にも二度聞いて、二度とも答えなかった」
「答えん相手を、信用するのか」
「信用してない。信用してないが、今日まで、こちらに手を出されたことは一度もない。扉を破ろうとしたのは、こちらのほうだった」
ダンが手を挙げた。
「盾が持てないってだけで、要らない側に回された。理由を聞かれたことは一度もない。向こうが勝手に決めて、それで終わりだった」
彼は自分の左肩を見た。
「その魔族が同じことをされてたなら、俺には他人事に聞こえん」
「同じとは限らんだろう」
ガルドが言った。
「あんたは人間に切られた。向こうは魔族に切られた。切った相手が違う」
「切られた側から見りゃ、同じだ」
「同じかどうかは、切られた側が決めることじゃない。切った側の理屈も、切られる前の事情も分からんのに、同じと言うのは早い」
ガルドの声に、怒りはなかった。慎重さだけがあった。
「俺は反対しない。急ぐのにも反対する」
ハンナが手を挙げた。
「その人、こっちの言葉が分かるんですよね。だったら、こっちの誰かが向こうの言葉を覚える必要は、ないんじゃないですか」
「今のところ、向こうがこちらに合わせてくれている」
「ずっと、そのままでいいんでしょうか」
答えに詰まった。考えたことがなかった。
「……分からない。だが、都合のいい話ではあると思う」
◇
挙手を求めた。
「今のやり方を、城の仕事として続けることに、反対の者」
誰も挙げなかった。
「賛成の者」
三十一人が挙げた。
「どちらでもない者」
二十一人が挙げた。ヨルもその中にいた。
「反対なし。賛成三十一。意思表示なし二十一」
俺は数えて、口に出して、書いた。
「全員一致ではない。反対がなかっただけだ。そう書く」
「それでいい」
ヨルが言った。
「賛成した覚えはない。反対もしない。それだけだ」
二十一人が黙ったことも、五十二人の声のうちだった。
◇
――五十四日目。全員集会、出席五十二名。現行の接触・交換の継続について、反対なし、賛成三十一、意思表示なし二十一。全員一致には至らず。迎えるか否かは未協議。地下に他者がいるか未確認。
――同日未明、整理官の単独判断により、目的を告げずに個人名を伴う聞き取りを実施。リゼの指摘により中止。該当行は本人の前で消去し、経緯を本人に説明。以後、同様の聞き取りは行わない。
消したい、と何度か思った。消さなかった。
◇
日が高くなる前に、五人で降りた。約束した刻限だ。
「数は」
扉の内側で、ヴェスカが最初にそれを聞いた。
「持ってきていない」
俺は経緯を話した。名前つきで聞いたこと、止められたこと、消したこと。
彼女は、長いあいだ黙っていた。
「数えなかったのか」
「数えなかった」
「なぜ」
「目的を言わずに人の古傷を数えるのは、あなたの綴じ帳の斜線と、同じことをすることになる」
彼女の顔から、表情が消えた。
「あの斜線を引いたのは、私だ」
部屋の空気が動かなくなった。
「配置を外す名簿を作るのが、私の仕事だった。誰を外すかは、私が決めたわけじゃない。だが、外したと書いたのは、私の手だ」
リオンが息を吸うのが、後ろで聞こえた。
俺は、何も言えなかった。俺の帳面には、九人の反対者の名前が書いてある。二十一人が黙ったことも書いた。書いたのは、俺の手だ。
「それで」
彼女は綴じ帳を開いた。話を切るときの手つきだった。
「今日の分を読む。どこからだ」
俺は前回の続きの頁を指した。
◇
その頁の隅に、小さな印があった。
名前でも、配置でもない形だった。円の中に、皿がふたつ。竿は水平ではなく、左が少し下がっている。円の縁に、小さな刻みが三つ。
「これは」
「商いの印だ。誰かの荷を、誰かに渡した記録の隅につく」
「日付は」
彼女は端の記号を辿った。
「戦争が終わる、半年前」
俺は頁を上から見直した。その印がついている行には、どれも斜線が引かれていた。
「外された者に、物を運んだ者がいる。この頁から読めるのは、それだけだ」
それだけだ、と彼女は言った。断りを入れるような言い方だった。
俺は、その印から目を離せなかった。
証文に押される蝋の印を、俺は三度見ている。皿がふたつ。左が少し下がった竿。縁に、刻みが三つ。
ヴェルデ商会の印と、同じ形だった。




