第二十三話 外された名前
五十三日目の朝、俺は水樽を一つと、乾燥肉の袋を一つ、荷車に積んだ。
乾燥肉は、契約で納める二十袋とは別だ。城の配給用に置いてある分から、一袋だけ出した。納める二十袋に手をつければ、明日入る八十枚が減る。
「それだけか」
リオンが荷車を覗き込んだ。
「多く持っていくと、施しになる。少なすぎても、舐めてると思われる」
「量、決めたのか」
「昨日の量を思い出しただけだ。壺の並び方を見ただろう。あれくらいの単位で、あの人は物を使ってる」
リオンは黙って荷台の縄を締め直した。
セロが道具箱に、昨日見た排煙口の寸法を測る紐を足した。リゼは薬箱の中身を入れ替えて、使わなかった包帯を戻した。ケインは何も持たなかった。石は、そこにある。
大広間を出るとき、ヨルとすれ違った。
「また地下か」
「また地下だ」
「昨日の女、名前は聞いたのか」
「聞いた。ヴェスカだ」
ヨルはそれだけ聞いて、何も言わずに通り過ぎた。何も言わなかったことが、昨日の沈黙と同じ重さに感じられた。
門を出るとき、ミラが遠目にこちらを見ていた。手を振るでも、止めるでもなかった。ただ見ていた。
◇
扉は、開いたままだった。
ヴェスカは昨日と同じ場所に立っていた。まるで動いていないようにも見えたし、一晩ぶん何かを片付けたようにも見えた。判別はつかなかった。
俺は荷車を扉の内側、彼女の手の届く位置まで押した。
「水樽と、乾燥肉です」
彼女は樽の蓋を開けて、匂いを嗅いだ。それから指を入れて、量を目で測るように見た。
「多い」
「多いなら、次から減らします」
「今日の分だけ置いていけ」
彼女は奥から壺を二つ持ってきた。棚に並んでいたうちの、大きさの同じものだ。
セロが樽を傾け、彼女が壺の縁で受けた。二つ満たしたところで、手を上げた。
「そこまで」
樽には、まだ半分以上残っていた。俺はそれを荷車に戻した。
「借りを作りすぎると、返し方が分からなくなる。二年、そうやって生きてきた」
その言い方に、リオンが少し眉を動かした。何かを言いかけて、やめた。剣は速いが言葉は遅い男だ。今は、遅いままでいいと思っているようだった。
俺は帳面に書いた。
――五十三日目。地下、ヴェスカへ水、壺二杯分。乾燥肉一袋。対価、記録閲覧の許可(一部、地下にて、本人立会いのもと)。
「それは、上の連中に読ませるのか」
彼女が指したのは、綴じ帳ではなく、俺がいま書いている帳面のほうだった。
「読ませます」
「全部か」
「渡した物と、受け取った物は、全部書いて、全部読ませます。水も乾燥肉も、あの五十二人のものだからです」
「では、私が話した中身は」
「それは別です。あなたが話したことは、あなたが許した分しか書きません」
「書き分けるのか」
「書き分けます。物の出入りと、人から聞いた話は、同じ帳面でも欄が違う」
彼女は少し考えて、頷いた。頷いたが、信じた顔ではなかった。
◇
「綴じ帳を、見せてください」
俺は言った。持って上がるつもりはない、と決めていた。
「地上には出さない」
「出しません。ここで読みます」
「読めるのか」
「読めません。読めるのは、あなただけです」
「それなら、条件がある」
彼女は指を三本立てた。
「一つ、写さない。二つ、破らない、抜かない。三つ、私が読んだ分だけを、お前が聞いた分だけを書く。全部を一度に知ろうとするな」
「分かりました」
「分かった、で終わらせるのか」
昨日、俺が彼女に言った言葉を、そのまま返された。
「三つとも、守ります」
彼女は、それでようやく綴じ帳を鞄から出させた。開いたのは、俺ではなく彼女の手だった。指先が乾いていて、紙をめくる音がほとんどしなかった。慣れた手つきだった。何百回もめくった手つきだ。
「これは、名前だ」
左の記号を指でなぞる。
「これは、配置。どこで、何をしていたか」
右の記号を指でなぞる。
俺の帳面と同じだった。名前、仕事、日付。並びが違うだけで、数えているものは同じだった。
セロが横から覗き込んで、記号の形を目で追っていた。読めないと分かっていても、追わずにいられないようだった。ケインは離れた位置から、腕を組んで見ていた。
「これは、何をしていた者です」
俺は、印のない行を指して聞いた。
「石を運んでいる。数と、日数で分かる」
「これは」
別の行を指した。
「水を運んでいる」
彼女はページをめくり続けた。何十行も、同じ調子で答えた。石、水、薪、修理、記録。俺たちがやっていることと、驚くほど近かった。
「この城、こっち側で建てたわけじゃない。人間の城だったものを、奪って使ってた。だから、直す仕事のほうが多い」
初めて聞く話だった。だが、それ以上は続けなかった。今日は、それでいいと思った。
彼女の指が、ある行で止まった。
右の記号の下に、小さな印がついている。斜めの線が一本。
「これは」
「外された者だ」
短く言った。
「配置を、外された。戦いが終わる前に」
「戦う前に、外された」
「配置がなくなった。運ぶ物がなくなれば、運ぶ係も要らない。……そういう理屈だ」
彼女はページをさらに数枚めくった。同じ斜線が、間を置いて現れる。多い日もあれば、一日に一本だけの日もあった。
「増えてる」
俺は言った。斜線の間隔が、後のほうほど狭くなっている。
「戦況が悪くなるほど、外される数が増えた。運ぶ物を作る前に、運ぶ物そのものがなくなっていった」
部屋が静かになった。
ケインが、初めて口を開いた。
「壁の補修と、増えた時期が近い」
「近いのか」
「継ぎ目の漆喰、古いものほど雑だ。新しいものほど丁寧になってる。手が空いた時期があったんだろう。……たぶん、外された連中の何人かが、ここに流れてきた」
彼の言い方は、断定ではなかった。石の積み方から読んだだけの、確かめようのない話だ。それでも、部屋の誰も否定しなかった。
ヴェスカも、否定しなかった。ただ、綴じ帳を持つ手に、少し力が入るのが見えた。
俺は数えた。見える範囲だけで、斜線のついた行は十七あった。全部のページを見たわけではない。
◇
「うちは、三万二千四百人だった」
俺は言った。誰に言うでもなく。
「討伐が終わった日、王国は徴募契約を全部終わらせた。冒険者三万二千四百人が、その日のうちに要らないと言われた。俺も、その一人だった」
彼女は手を止めた。
「戦った者もか」
「戦った者は、称号と勲章をもらった。運んだ者、治した者、直した者、記録した者は、翌日から仕事がなかった」
「同じ理屈だ」
「同じかもしれません」
俺は認めた。
「ただ、うちは戦後の話です。そっちは、戦いが終わる前に外している。まだ終わってないのに、要らないと決めた者がいる」
城に、片手の男がいる。縄を張るのが誰より速い男だ。討伐のあと、盾が持てないから要らないと言われた。二十日、彼の縄の仕事は誰にも数えられなかった。
その話は、しなかった。まだ、名前を出す段階ではない気がした。
彼女は綴じ帳を閉じた。全部は見せなかった。俺も、それ以上は求めなかった。
「聞いていいか」
彼女が言った。
「五十二人のうち、外された経験がある者は、何人だ」
「数えたことはありません」
「数えろ。数えないと、なかったことになるんだろう」
昨日、俺が書いた言葉ではない。だが、意味は同じだった。
「……次に来るとき、数を持ってきます」
彼女は頷いた。頷いただけで、それ以上何も言わなかった。
◇
「もう一つ、聞く」
帳面を鞄にしまいながら、彼女が言った。
「私を置くかどうかも、五十二人全員で決めるのか」
「決めます」
「反対する者が、十七人と同じ数だったら、どうする」
答えを持っていなかった。持っていないことが、顔に出たのだと思う。
「それは、行ってみないと分かりません」
「行ってみないと分からないことを、なぜ約束した」
二日目の約束のことだ。全員で決める、と。あの日、俺はまだヴェスカを知らなかった。
「約束した後で、都合よく変えないためです」
「反対が多ければ、私はここから出られない。それだけの話だろう」
「そうなるかもしれません」
「今のままのほうが、都合がいいんじゃないのか。地下にいる限り、五十二人には関係のない話だ」
その言い方には、棘があった。
「関係ないままにはしません」
俺は言った。
「関係ないことにしておくと、いつか、あの子どもの腕と同じことが起きる」
意味を説明しなかった。彼女にも通じるとは思えなかった。だが、自分に言い聞かせるための言葉ではあった。
彼女は、それに答えなかった。ただ、階段のほうへ顔を向けた。
「明日、いつ来る」
「日が高くなる前に」
「その時までに、数を数えておけ」
階段を上がりながら、リゼが聞いた。
「本当に、一人ずつ聞くの」
「聞く」
「時間がかかるわよ。五十二人分」
「かかる。それでも、数えないよりはいい」
リゼは、それ以上何も言わなかった。ただ、階段を上がる速さが、行きより少し遅くなっていた。
地上へ戻って、俺は帳面を開いた。
綴じ帳は、地下に置いてきた。持って上がらない、と朝に決めたとおりだ。斜線の入った十七の名前は、読めない文字のまま、あの部屋に残っている。
だが、うちの帳面には、読める名前が五十二ある。
俺はその一人ひとりに、明日の朝までに聞いて回らなければならない。あんたは、外されたことがあるか、と。
聞かれた側が、どんな顔をするか、想像がついた。ダンの顔も、ニコの顔も、思い浮かんだ。
想像がついたまま、俺は帳面を閉じた。閉じた帳面の重さが、いつもより少し増えた気がした。




