第二十二話 刻み目
掛け金が上がりきっても、扉はすぐには開かなかった。
軋みが一度。二度。それから扉が、内側へ沈むように開いた。
最初に来たのは、匂いだった。饐えた匂いでも、獣の匂いでもない。水と、焼けた石と、油の匂い。二年閉じていた部屋にしては、澄んでいた。
次に、風。セロが二十一日目に感じたという冷たい風より、いくらか温かい。奥から来ている。
「灯りがある」
ケインが低く言った。
彼はまず足元の敷居を見ていた。石が丸くなっている。長い年月の水気と、人が何百回も跨いだ跡だ。
「摩り減りは古い」
ケインは言って、松明を軸のほうへ寄せた。
「だが、こっちは新しい。錆の粉が落ちてない。油の跡がある。獣の脂だな」
二年動かさなかった鉄なら、錆が粉になって下に溜まる。溜まっていないということは、つい最近まで、誰かがこの軸に脂を差していたということだ。
闇の奥に、小さな橙色の点がひとつ。ろうそくではない。皿の上で、何かの欠片が細く安定して燃えている光だった。
リオンが半歩前に出た。剣は抜いていない。柄に手を置いたまま、動かなかった。
その光の下に、誰かが立っていた。
「動くな、と言うつもりはない」
声がした。低く、掠れていたが、震えてはいなかった。
女だった。背は俺の肩ほど。短い髪の中に、小さな角がふたつ隠れている。着ているのは色褪せた外套で、肩の刺繍だけがかろうじて形を保っていた。数字と記号が並ぶ意匠だった。
見覚えのない意匠だ。だが、並び方には見覚えがあった。書庫で見つけた綴じ帳と、同じ並び方をしている。
顔は痩せていたが、目に落ち窪んだ暗さはなかった。手の甲に古い火傷の痕がある。爪は短く、揃って切られていた。飢えて弱った人間の手ではない。使い続けた手だった。
女は俺たちを見た。長くはなかった。数える目だった。
一、二、三、四、五。武器を持つ者は一人。道具箱を提げた者が一人、薬箱を提げた者が一人。残る二人は手ぶらで前に立っている。前に出ているのが誰で、後ろに控えているのが誰か。視線がその順番を一度なぞった。
「五人。うち武装、一人」
独り言のように言った。
「多いとは言わない。少なくもない」
期限まで、あと四十日足らずだ。ここで間違えれば、その四十日はもっと短くなる。
リオンの指が、柄に触れる。俺は視線だけで止めた。
「名前を、聞いてもいいですか」
俺は言った。敵か味方かを聞く前に、それを言うと決めていた。実際に口にすると、思っていたより短い言葉だった。
女はすぐには答えなかった。
「先に聞いていいか」
「どうぞ」
「そこの、帳面を持った男。お前が、ここの一番上か」
「一番、というのが何を指すかによります」
「決めるのが、お前か」
「決めるのは全員です。俺は、書く係です」
女の眉が、わずかに動いた。今日、初めて表情が動いた。
「書く係が、扉の前に立つのか」
「立ちました」
沈黙があった。
「名前は、ヴェスカ」
それだけ言った。
◇
リゼが薬箱を提げて、一歩出た。
「診ても?」
「触るな」
鋭い声だった。今日いちばん強く出た声だった。
リゼは足を止めた。
「診るとは言ってない。見るだけだ」
「見るのも、断る」
俺はリゼに目配せした。リゼは薬箱を提げ直して、下がった。命令ではなく、自分の判断で下がった。
ケインが部屋の奥へ目をやった。天井は低く、石組みは古い。崩れた跡はない。
「補修してる」
彼は継ぎ目を指した。
「新しい漆喰がある。二年のうちに、少なくとも三度は直してる」
「三度じゃない」
女が短く言った。
「四度目は、去年の冬。凍って割れた」
ケインは黙って、もう一度継ぎ目を見た。数を訂正されて、機嫌を損ねた顔はしなかった。
セロが鼻を鳴らした。
「暖かいのは、うちの炉のおかげだけじゃないです。あそこ」
彼が指した壁の隅に、小さな穴があった。煤で黒く縁取られている。手作りの排煙口だった。
女は、セロの指の先を目で追った。
「その導管、こっちの炉とつながってますよね。いつからです」
「分からない。掘ったのは私じゃない」
「水は」
「北東の隅から湧いてる。そっちも、隙間から音を聞いただろう」
セロが息を止めた。二日かけて探した隙間を、女は一言で言い当てた。探すまでもない場所だった、ということだ。
俺は部屋の中を見た。寝台は板を組んだだけの粗末なものだったが、上の布はきちんと畳まれている。壺の並ぶ棚も、大きさの順に揃っていた。石を積んだだけの卓の上に、乾いた茸と、骨だけになった小魚が並んでいる。数えて、使った量だけ補っている置き方だった。
リゼは薬箱を提げたまま、離れた場所から女を見ていた。触れずに見るだけでも、分かることはある。頬のこけ方、肩の落ち方、立ち方の重心。リゼは黙って、それを覚えていた。
そして、壁に線があった。
縦の刻み目が並び、五本ごとに一本、横の線が引かれている。日数を数えた跡だ。俺たちが帳面でやっているのと、同じことをしている。
その列の隣に、もう一列あった。
左に短い記号、右に別の記号。
俺は肩の鞄から、あの綴じ帳を出した。九日目、書物庫の奥でセロが見つけたものだ。誰の文字か分からないまま、ずっと俺の手元に置いていた。書庫へは戻していない。売る物の目録にも入れなかった。今日、扉の前で読み上げるつもりで持ってきて、そのまま鞄に入っていた。
開いて、壁と並べた。
行の高さも、区切りの位置も同じだった。
女の目の色が変わった。数える目とは違う目だった。
「それを、どこで」
「書物庫です。九日目に見つけました」
「渡せ」
速い動きだった。飢えて座り込んでいた者の動きではない。壁を四度直し、水を汲み、二年ぶん働いてきた体の動きだった。彼女の手が、綴じ帳の背に触れる寸前で止まった。俺が、先に引いたからだ。
「渡しません。ここにあるものが、こちらの持ち物である以上」
「私のものだ」
「証明できますか」
女は答えなかった。答えの代わりに、壁の刻み目を見た。俺の帳面と、綴じ帳と、壁と。三つを見比べているようだった。
「下がれ」
俺は下がった。綴じ帳は、鞄に戻した。渡さなかったことが、正しかったのかどうか、まだ分からない。
壁の刻み目は、まだ見えている。数えれば、七百は超えていた。二年分には、足りる数だった。
◇
「さっき、扉越しに言ったな。五十二人と、子どもが三人と、お前」
「言いました」
「その数え方は、性別か。年齢か。それとも、働けるか働けないか」
思わぬ角度からの質問だった。
「働いているか、いないか。子どもは働いていない。だから別に数えます」
「じゃあ、お前は」
「雇う側なので、雇われている数には入れていません」
女は小さく頷いた。確認するような、重い頷き方だった。
「配置は、お前が決めるのか。それとも、その帳面が決めるのか」
少し迷った。
「帳面には、決まったことしか書きません。決めるのは、そのとき集まった人間です」
「ほかに、誰かいますか」
俺は聞いた。
女は、しばらく俺を見た。
「その質問には、まだ答えない」
「分かりました」
「分かった、で終わらせるのか」
「今日、聞くことじゃないと思っただけです」
女は少し黙って、それから小さく息を吐いた。
「……お前、本当に、書く係だったんだな」
「二年、何を食べてたんですか」
セロが横から聞いた。悪気のない声だった。
女はセロを見て、それから答えなかった。答えなかったことも、書けば記録になる。俺はそれだけを帳面の隅に書いた。
「今日は、行かない」
女は、それから言った。
「二年、閂は内側から掛けてた。開けたのは、音を立てたのがそっちだったからだ。信用したからじゃない」
「分かってます」
「明日も、同じ場所に来るのか」
「来ます。水と、食料を持ってきます」
「要らない」
即答だった。
「二年分、自分でやってきた。今さら、施しは要らない」
俺は少し考えて、言い方を変えた。
「施しではなく、交換にします。何かをもらったら、何かを渡す。この城のやり方は、それです」
女は、初めてかすかに笑ったように見えた。すぐに消えたので、確信は持てなかった。
「交換なら、考える」
「一つだけ聞く」
彼女は続けた。
「上の五十二人は、誰の指図で動いてる。お前が全部決めてるのか」
「決めてません。決め方だけ、俺が書いてます」
「決め方を書く、というのが分からない」
「明日、それも話します」
女は答えなかった。ただ、俺たちが階段を上がるあいだ、扉を閉めなかった。閉めなかったことに、意味があるのかどうか、俺には分からなかった。
◇
地上へ戻って、俺は帳面を開いた。
――五十二日目。地下扉開放。応対者五名、リオン・アーレン、ケイン、セロ、リゼ、アルド・カレン。相手方一名、名乗り、ヴェスカ。所属、出身、経緯は不明。壁面に刻み目による日数記録あり。同壁面の記号列、九日目発見の綴じ帳と同一体系と確認。本人、綴じ帳の所有を主張。証明の提示なし。整理官、引き渡しを保留。居住・雇用、いずれも未確定。
書きながら、指を止めた。
九日目、セロが書物庫で見つけたときから、あの綴じ帳を誰が書いたのか、俺たちはまだ知らない。あの日、ミラは「人の名前が並んでる」と言った。それ以上は、誰にも読めなかった。
もし、あの壁の刻み目と同じ手が書いたのだとしたら。
二年前、この城で何があったかを書いた帳面の、答え合わせができる相手が、地下にいる。俺たちが西翼で数えているのと、同じことを、あの部屋でも誰かが数えていた。
大広間に戻ると、リオンが階段の入口で足を止めて振り返った。
「明日も、行くのか」
「行く」
「一人でか」
「五人で行く」
リオンは短く頷いて、それ以上聞かなかった。
俺は帳面を閉じた。閉じても、頭の中では開いたままだった。




