第二十一話 内側から
四十九日目の夜、地下から音がした。
気づいたのはヨルだ。地下区画の記録係で、その夜の当番でもあった。二十二日目から、地下の当番は二人と決めてある。
「金属だ」
彼は大広間まで上がってきて、そう言った。
「鉄を、石に置いた音だ。一度だけ」
「聞き間違いじゃないか」
「二人で聞いた」
俺は入口の紙を確かめた。四十九日目の欄には、当番二人の名前しかない。ほかに降りた者はいない。
三人で降りた。
二十七段の階段の下、作業台の並ぶ部屋を横切って、黒い扉の前に立つ。
麻紐が、切れていた。
四十日目に張り直したものだ。結び目の蝋が、床に落ちて割れている。
埃の半円は、また少し内側まで広がっていた。
◇
翌朝、俺は入口の紙を全部持って上がった。
二十二日目から四十九日目まで、二十八日ぶんの記録がある。地下に降りた者の名前と日付が、二百件近く並んでいた。
俺は二冊目の帳面と突き合わせた。
紐を張り直したのは四十日目。その日から昨夜まで、地下に降りた者は延べ三十四人。全員が名前を書いている。全員が、当番か、魔石の運び出しか、居住区の整備で降りていた。
紐に触れた者は、いない。
そして、四十九日目の夜、当番の二人以外は誰も降りていない。
紐は切れた。
俺は記録をもう一度、上から辿った。
二十二日目に張ってから、紐は二度切れている。一度目は四十日目の朝で、そのときは俺が張り直した。書いてある。
四十日目。二本目の柱を落として、支保が滑った日だ。城じゅうが西翼に出ていて、地下は当番二人しかいなかった。
二度目が昨夜。
どちらも、城が別のことで手一杯だった日だ。
偶然かもしれない。だが、偶然にしては、こちらの都合をよく知っている。
「城の誰かが嘘をついてる」
ガルドが言った。
「それが一つ目だ」
「二つ目は」
「向こう側に、誰かいる」
部屋が静かになった。
「二年だぞ」
ニコが言った。
「二年、飯も水もなしで生きられるか」
「生きられないわ」
リゼだった。
「人なら、四日で死ぬ。水がなければ三日。二年は、あり得ない」
「じゃあ、いないってことか」
「そうは言ってない」
彼女は首を振った。
「生きてるなら、飲んで食べてる。飲んで食べてるなら、どこかから手に入れてる。つまり、あの部屋は閉じてない」
セロが顔を上げた。
「風です」
「風」
「二十一日目に開けたとき、冷たい風が吹きました。地下から上がってくる空気は、普通は生温いんです。あれは、外から来てました」
「外とつながってる」
「どこかで。そう言いました。俺、あのとき」
俺は帳面をめくった。二十一日目の欄に、書いてある。
――地下、冷風あり。外部との連絡口の可能性。
書いてあった。書いてあって、二十八日間、何もしなかった。
要調査、とも書いてある。二十一日目の夜だ。
あのとき俺は、要調査というのはいつかやるという意味で、補給係の帳面ではたいてい手遅れになってから読み返される、と自分で書いた。
二十八日たった。
まだ手遅れではない、と思いたかった。
◇
五十日目と五十一日目を、風の出所を探すのに使った。
セロが火のついた麻布を持って、地下の壁を端から炙った。煙が流れる方向で、隙間の場所が分かる。ミラが図を取り、ケインが石の積み方から人が通れる幅かどうかを見た。ケインの足は、二十日の療養が明けている。まだ引きずるが、歩けた。
見つかったのは、扉から離れた北東の隅だった。
崩れた壁の奥に、石が二つぶんの隙間がある。人が這って通れる大きさではない。だが、風は通る。腕なら入る。
「向こう側は」
「部屋です。松明の煙が吸い込まれていくので、それなりに広い」
セロは隙間に耳を当てた。
「……水の音がします」
「水」
「地下水です。炉が汲み上げてる水脈と、たぶん同じもの。向こうにも湧いてるんだと思います」
水がある。
水があれば、生きられる。二年でも。
「食い物は」
「分かりません。ただ、魔石炉の余熱は、あの壁の向こうまで通ってます。導管の走り方から言って、暖かいはずです」
俺は書いた。書きながら、指が冷たくなっているのに気づいた。
二十一日目から、俺たちは水と暖房を使ってきた。魔石炉を動かして、給水を通して、東翼を暖めた。
その炉の余熱が、壁の向こうまで届いている。
二十八日間、俺たちは、向こう側の誰かを暖め続けていた。
◇
五十二日目の朝、全員に諮った。
「地下の扉を開ける」
反対が出た。当然だった。
「魔族だろ」
「たぶんな」
「たぶんで開けるのか」
「開けない理由も、たぶんだ」
俺は壁に、分かっていることだけを書いた。
向こうに部屋がある。水がある。暖かい。二年前に内側から閂が掛かった。埃の跡は、少なくとも三度動いている。昨夜、音がした。
その下に、分かっていないことを書いた。
誰がいるのか。何人か。武器を持っているか。こちらに気づいているか。
「分からないことのほうが多い」
俺は言った。
「多いまま、あと四十日足らず、隣で暮らすか。それとも、今日確かめるか」
「確かめて、殺されたら」
「殺されるなら、とっくに殺されてる」
リオンが言った。
「二年、閂は内側から掛かってた。掛けたのは向こうだ。出てこないという意思表示だろう」
「出てこないなら、放っとけばいい」
「放っておけない」
俺は言った。
「期限まで四十日足らずだ。それを越えれば、この城には百人以上いるかもしれない。子どもが増える。地下は居住区になる。そのとき、開けられない扉が一つあるまま人を住まわせるのか」
誰も答えなかった。
「もう一つある」
俺は続けた。
「向こうが二年、出てこなかったのは、出ていく場所がなかったからだと思う」
部屋が静かになった。
「魔王軍は解けた。人間の国には行けない。魔族の側にも、たぶん帰る場所がない」
言いながら、自分の声が変わっているのが分かった。
「それは、俺たちが知ってる話だ」
◇
最後に、ヨルが手を挙げた。
「一つ聞く。開けて、向こうに誰かいて、そいつがここで暮らしたいと言ったら、どうする」
全員がこちらを見た。
俺は、その質問を予想していなかった。
「……人の帳面に、書く」
「魔族をか」
「名前を聞いて、何ができるか聞いて、書く」
「反対する奴がいるぞ」
「いるだろうな」
俺は言った。
「そのときは、全員で決める。二日目に、そう約束した」
ヨルは腕を組んで、しばらく黙っていた。
「……俺は、井戸で二年潜ってた奴を知らん。潜って生きて出てきたなら、そいつは井戸のことをよく知ってる」
彼は座った。それが賛成なのか反対なのか、俺には分からなかった。
◇
降りたのは、五人だった。
俺、リオン、ケイン、セロ、リゼ。武器はリオンだけが持った。リゼが来たのは、向こうが二年ぶんの何かを抱えている可能性があるからだ。
入口の紙に、五人の名前を書いた。
扉の前に立った。
高さは俺の三倍ある。把手はない。掛け金は向こう側だ。押しても引いても動かない。
「壊せるか」
「壊せる」
ケインが継ぎ目を見て言った。
「壁のほうを崩せば、三日で通れる。ただ、上に石が乗ってる。崩し方を間違えれば埋まる」
「三日か」
俺は扉を見上げた。
三日かけて壊すという方法はある。だが、それは向こうが二年守った閂を、こちらが力ずくで抜くということだ。
俺は帳面を出して、二冊目を開いた。
それから、扉を叩いた。
三度。五日目の夜に、メルヴィンが城門でやったのと同じ、正式な作法の打音だ。
返事はなかった。
俺は帳面を開いたまま、扉に向かって話した。
「アルド・カレンといいます。この城の、戦後資産整理官です」
自分の声が、石の部屋に反響した。
「二年前、この城に討伐隊が入りました。私はその隊にいました。戦っていません。荷物を運ぶ係でした」
後ろで、リオンが息を吸うのが聞こえた。
「いま、この城には五十六人います。子どもが三人と、雇われている者が五十二人と、私です。ほとんどが、魔王が倒れた翌日に仕事を失った人間です。行く場所がなくて、ここにいます」
返事はない。
「あなたが誰か、私は知りません。ですが、書物庫の奥で、綴じ帳を見つけました。魔族の文字で、左に短い記号、右に別の記号が並んでいる帳面です」
俺は、その一行を読み上げるつもりで持ってきていた。読めない文字だ。だから、形だけを言った。
「あれは、人の名前と、その人が何をしたかを書いた帳面だと思います。私も、同じものを書いています」
石の部屋が、静かだった。
「聞こえていたら、返事をください。返事がなければ、三日後に壁を崩します。崩さないほうがいいと私は思っています」
俺は待った。
誰も動かなかった。リゼが薬箱を持ち直す音がした。
どれくらい待ったか、覚えていない。
松明の火が、一度大きく揺れた。北東の隙間から風が来ている。ずっと来ていた風だ。
俺は帳面を閉じなかった。開いたまま、持っていた。
もし返事がなければ、三日後に壁を崩す。崩したら、向こうにいる誰かは、二年守ったものを力で開けられたことになる。
それは、名簿から名前を消されるのと、たぶん似ている。
それから、扉の向こうで、鉄が鳴った。
重い掛け金が、ゆっくりと持ち上がる音だった。




