第十八話 断る
三十八日目の昼、ラーデン村から人が来た。
村長の使いだという中年の男で、片足を引きずっていた。走ってきたらしい。
「猪です。群れで、二十を超えてます」
男は息が整わないまま言った。
「山の餌が尽きたんでしょう。畑をやられました。昨日は山羊が三頭」
「駆除は」
「村じゃ無理です。若いのは残ってません。罠を掛けようにも、掛け方を知ってる爺さんが去年死んで」
トゥーレとロッドが、いつのまにか俺の後ろに立っていた。二人とも、その村の生まれだ。
「罠師と、斥候を貸してください」
使いの男が頭を下げた。
「二人でいいんです。三日でいい」
◇
俺は、その場で答えなかった。
大広間に戻って、割り当ての紙を開いた。
五十二人が、それぞれ週四日ずつ通常の割り当てに入っている。給水の当番、食料の仕込み、居住区の補修、乾燥肉の生産。余っている手はない。解体は輪番の外なので、そちらから抜くという話ではない。
罠を掛けられるのは、うちに三人しかいない。三人とも、四日の割り当てに入っている。
抜けば、抜けた分を誰かが埋めなければならない。埋められる人間は、その日の割り当てを終えた者だけだ。つまり、輪番外の日を潰すことになる。
六行目は、あの三日を本人のものだと決めている。城が使うなら、買い取る。
買い取る金がない。
それに、猪の群れに人を出すのは危ない仕事だ。日当四枚と同じ額で行かせるわけにはいかない。危険手当が要る。
交代要員と、手当。どちらも金だ。
俺は数字を三度見直した。三度とも同じだった。
出せない。
夕方、使いの男を呼んだ。
「出せません」
男の顔が動いた。
「……三日です。三日だけで」
「三日を空けるには、代わりに入る人間が要ります。その人間には、潰した休みの分を払わなければならない。行く三人にも、危ない仕事の分を払わなければならない」
「金の話ですか」
「金の話です」
俺は言った。ごまかす言い方をいくつか思いついて、全部やめた。
「今日の朝、精算で使い切りました。手元にありません」
言いながら、自分の声が役所の人間に似ていると思った。
三十七日前、俺は同じ言葉を聞く側だった。規定です。余裕がありません。誰も嘘はついていなかった。国庫に金がないのは本当で、軍が採用を止めているのも本当だった。
本当のことしか言われないまま、行き場だけがなくなった。
いま、俺は本当のことを言っている。
「……分かりました」
使いの男は、それ以上何も言わなかった。食い下がられたほうが、まだ楽だった。
◇
「あたし一人なら行ける」
ミラが言ったのは、その夜だった。
「駄目だ。一人では出せない」
「出すんじゃない」
彼女は俺を見ていた。
「あたしが行くの。輪番の外で」
俺は言い返そうとして、口を開いたまま止まった。
輪番外の三日は、本人の時間だ。三十日目の夜、俺は自分で線を引いて消した。城のものではない、と書いた。
六行目は、俺が作った。
止める言葉が、一つもなかった。
「……止める権利は、俺にはない」
「そうよ」
「ただ、一つだけ言う」
俺は帳面を開かなかった。開いたら、それは記録になる。いま言いたいのは記録ではなかった。
「猪の群れは二十を超えてる。斥候一人で追えるのは、居場所までだ。追い出すには、罠を掛けて、追い込んで、仕留める人間が要る。あんた一人で行くと、居場所が分かったところで終わる」
「……分かってる」
「分かってて行くのか」
ミラは、しばらく黙っていた。
「行っても、何もできないってことよね」
「そうだ」
彼女は壁に貼った紙を見ていた。六行目が書いてある紙だ。
「あんたが止めないの、たちが悪いわ」
彼女はその夜、行かなかった。
翌朝、大広間の隅で、ミラは古い地図を写していた。
「行かないのか」
「行っても何もできないって、あんたが言ったでしょ」
彼女は手を止めなかった。
「だから、あたしにできることをやってる。三年前に描いた地図に、猪の通り道が入ってたのを思い出したの。獣道は十年変わらない」
斜面に、細い線が三本入っている。
「これ、渡せるか」
「渡すために描いてる」
◇
俺が渡せたのは、紙だけだった。
ガルドとケインに、罠の掛け方を書かせた。落とし穴の深さ、杭の角度、猪が通る道の見分け方。ケインは石の話しかできないと言ったが、山の斜面で獣道がどこを通るかは知っていた。石を運ぶ道と、獣が歩く道は似ているらしい。
ミラの獣道の写しを足して、紙は五枚になった。絵も入れた。
「これで足りるか」
ガルドが言った。
「足りない」
「だろうな」
「だが、何もないよりはいい」
使いの男は紙を受け取って、丁寧に折って懐に入れた。断られた相手に礼を言って、片足を引きずって帰っていった。
俺はその日の欄に書いた。
――三十八日目。ラーデン村より害獣駆除の要請。人員を割けず、断る。罠の掛け方と獣道を記した紙五枚を渡す。
書いてから、その一行を長く見ていた。
断った、と書いたのは初めてだった。
◇
四十日目、乾燥肉の二回目の納めをした。二十袋、八十枚。今度は前渡しの差し引きがない。丸ごと入る。
その金を、俺は返済にも備蓄にも回さなかった。
四十一日目の朝、村からもう一人来たからだ。
トゥーレとロッドの従弟にあたる子どもが、腕をやられたという。畑で猪に押し倒されて、肘から先の肉が裂けた。村には縫える者がいない。
リゼが薬箱を持って立ち上がったのは、話を聞き終わる前だった。
「行きます」
「城の外です」
「知ってるわ」
「城の中で無資格なら、まだ整理官の管理下だと言い訳ができます。外だと、それも言えません」
「言い訳が要るのは誰?」
彼女は薬箱の留め具を締めた。
「私は、要らない」
俺は止めなかった。止める理由が、規則の中にもなかった。
彼女が出ていったあと、俺は帳面に書いた。
――四十一日目。リゼ、ラーデン村へ出張。城外での施術。無資格。整理官はこれを認識のうえ、止めなかった。
書いてから、最後の一節を消して、書き直した。
――整理官の判断により、止めなかった。
止めなかったのが誰の判断かは、はっきりさせておくべきだった。
◇
同じ日の午後、俺は八十枚の袋を卓に置いた。
全員を集めて、言った。
「三人、村へ出したい」
「解体から抜くのか」
「抜かない。新しい契約を結ぶ」
俺は壁に書いた。
――害獣駆除。四人まで。最長四日。駆除の完了をもって、一人十枚。この八十枚から払う。交代要員には、潰した休み一日につき一枚。
「十枚」
ニコが目を丸くした。
「四日で十枚か。日当の倍以上だぞ」
「危ない仕事だからだ。猪は人を殺す」
「その八十枚、返済に回す金だろ」
「回さない」
俺は言った。
「回すと、こっちの帳面は綺麗になる。だが、村の畑が終わる」
「そんな理由で」
「そんな理由だ」
俺は正直に言った。
「はっきり言っておく。この八十枚を使うと、次の精算がまた厳しくなる。四十一日目の判断で、四十八日目が苦しくなる。それは俺の判断だ」
「また借りるのか」
「借りるかもしれない」
ヨルが低く言った。
「八行目、守れよ。借りる前に言え」
「言う」
最初に手を挙げたのはトゥーレとロッドだった。罠は掛けられないが道は分かる、と兄のほうが言った。次に罠師が二人。そのあとにミラが挙げた。
「あたしが行く。三日前に行けなかった分」
五人になった。四人までと書いたばかりだ。
「一人多い」
「じゃあ、あたしは無償で行く」
「駄目だ」
俺は言った。
「無償で行った人間がいると、次から誰かが同じことを言われる。あんたのときはただだったろう、と」
「……あんた、そういうところ、ほんとに」
「誰が行くかは、あんたらで決めてくれ」
行ったのは、ミラと罠師二人、それにトゥーレになった。ロッドは残った。泣きそうな顔をしていた。
四人とも、四十一日目から三日間は通常の割り当てに入っていた。交代は延べ十二日ぶんになる。
駆除の四十枚と、交代の十二枚。八十枚から五十二枚が出ていく。
◇
四十三日目の夕方、四人が戻ってきた。
猪は十九頭。罠で十四、追い込んで五。誰も欠けていなかった。片手の男は、三日で縄を四十本張ったという。
子どもの腕は、リゼが縫った。二十日で治るという。跡は残る。
彼女は四十一日目から村に泊まり込んで、四十三日目の朝に戻ってきた。三日で三度、傷を診たという。
「代金は」
「もらってない。村の女が卵を六つ持ってきたけど、返したわ」
彼女は薬箱を置いた。
「あの子に食べさせなさい、って。血が足りてないのは本当だし」
俺は帳面に書いた。四十一日から四十三日、リゼ、村にて三度の処置。無資格。無償。受け取った物なし。
村長が、翌日に城まで来た。
礼を言って、それから懐から布の包みを出した。
「治療代です。これしか出せませんが」
銀貨が数枚、包まれていた。
「治療代は、受け取れません」
「なぜです」
「うちの施術者は、資格を持っていません。診ることと、代金をもらうことは別です。金でも、物でも、治療の対価は受け取れない」
俺は言った。
「あの子の腕は、無償です。これから何度診ても、無償です」
村長は包みを持ったまま、しばらく立っていた。
「では、こちらは何もお返しできないのですか」
「治療については、何も。ただ、別の仕事なら、対価をいただきます」
俺は帳面を開いた。
「猪の駆除は、うちが人を出した仕事です。四人が三日、山に入って、片付けました。それと、罠は掛けたら終わりじゃない。半月に一度、点検して掛け直さないと、じきに獣が学習します。うちから人を出して、定期的にやります」
「それは、いくらで」
「薪と麦で、いただけませんか。うちは冬に薪が要ります。麦も足りない」
「……それは、こちらが助かる話です」
「うちも助かります」
言ってから、俺は付け足した。
「帳面には、三つに分けて書きます。治療は無償。駆除は対価あり。罠の点検は継続の仕事。混ぜません」
「なぜ、そこまで分けるんです」
「混ぜると、あとで一つの話にされるからです」
村長は包みをしまって、それから俺の帳面を見た。
「その帳面に、書くんですか」
「書きます」
「昨日のことも、書いてあるんですか」
「書いてあります」
俺は三十八日目の欄を開いて、見せた。
――ラーデン村より害獣駆除の要請。人員を割けず、断る。
村長はそれを読んだ。長いあいだ、読んでいた。
「紙は、届きました」
彼は言った。
「あれで、罠は三つ掛けられました。掛け方は分かったんです。ただ、掛ける人手がなくて」
俺は帳面を閉じようとして、閉じられなかった。
村長は責めていなかった。責める言い方を、たぶん知らない人だった。
「最初から来てくれたら」
彼はそう言って、それから慌てて首を振った。
「いえ、いまのは。助けていただいたのに」
俺は何も言わなかった。
言えることが、一つもなかった。
その夜、俺は帳面の三十八日目の欄に、一行足した。
――紙は届いた。掛ける人手がなかった。
事実と、理由と、本人の言い分。二十三日目にニコと決めた書き方だ。
書けば書くほど、この欄が何を意味するのかがはっきりしてくる。
俺は人に仕事を与えることで、ここまで来た。
与えなかったのは、これが初めてだった。




