第十七話 前渡し
三十四日目の朝、城門の前に馬車が一台停まっていた。
商会の紋が入っている。三つの環が組み合わさった紋様だ。十一日目に、老人が卓に置いた印と同じものだった。
降りてきたのは若い男で、ラウの下で働いているという。名をコルトと名乗った。
「アルド・カレン様。前渡しのご相談に参りました」
俺は、しばらく返事ができなかった。
こちらから頼みに行くつもりだった。頼む前に、向こうから来ている。
「……相談、というのは」
「本日、御城の精算日と伺っております。ご入用の額を、先にお立て替えするというお話です」
コルトは書類の筒を差し出した。
◇
大広間の卓で、証文を開いた。
周りに人が集まってきた。ミラ、ヨル、ガルド、リオン。誰も呼んでいない。商会の馬車が門をくぐった時点で、城の中に伝わっている。
俺は上から読んだ。
前渡し、銀貨二百十七枚。
俺は、そこで指を止めた。
「……二百十七」
「はい」
「なぜ、この額です」
コルトは表情を変えなかった。
「弊会にて算定いたしました」
「何を算定した」
「御城の必要額を、でございます」
背中に、冷たいものが降りた。
昨夜、俺が帳面で出した数字だ。給金二百六十枚、維持費四十枚、合わせて三百枚。手元が八十三枚。差し引いて二百十七枚。
その八十三枚は、昨日ヴェルデで手取り五十枚を受け取って、初めて確定した額だ。
昨日の夕方に確定した数字が、今朝、証文になって門の前に来ている。
「ねえ」
ミラが低い声で言った。
「なんで知ってるの」
コルトは彼女を見なかった。俺だけを見ていた。
「商いでございますので」
「答えになってない」
ミラが前に出た。
「あたし、この四日で三回ヴェルデへ行ってる。誰にも城の金の話なんかしてない」
「弊会は、御城の中のことは存じません」
コルトは初めて、少しだけ言葉を選んだ。
「ただ、ヴェルデの食料商が昨日、二十袋を仕入れました。相場と手間賃から、御城に幾ら渡ったかは、算盤で出ます」
「給金の額は」
「五十二名。日当銀貨一枚。週四日。……お聞きになりたければ、ご説明いたしますが」
俺は手を上げて止めた。
人数も、日当も、俺が壁に貼って全員に見せている。城に出入りする者は、行商人も、村の兄弟も、馬を貸してくれる村人もいる。
隠していない情報は、隠れない。
問題は、それを組み合わせて明日の必要額まで出す人間が、向こうにいるということだった。
◇
条件は続いていた。
担保は、西翼および玉座の間に存する資産一切。返済は、当該資産の売却代金をもって充てる。期限は九十日目。
「借りるな」
ヨルが言った。声が硬かった。
「井戸掘りの現場でな、親方が一度だけ金を借りた。次の年から、仕事を選べなくなった。相手の言う値でしか掘れなくなる」
「知ってる」
「知ってて借りるのか」
「ああ」
俺は言った。
「今日、二百六十枚を払えなければ、三週間の試行が三日で終わる。二十四日目に、全員が名前を書いた。あれを、こっちから破ることになる」
「破って、来週まとめて払えばいいだろ」
「その来週も、同じことになる」
リオンが口を開いた。
「アルド。断れるのか」
この男は、こういうときに真っ直ぐ聞く。
「断れない」
「そうか」
彼はそれだけ言って、少し黙った。
「俺は、断れる立場にいたな。王宮の話も、報奨も、返してきた」
「返せたのは、お前が英雄だったからだ」
「そうだな」
リオンは自分の手を見ていた。二十日目に、子どもを抱いた手だ。
「ここは、そうじゃないんだな」
俺は答えなかった。答えると、この城が自由でないことを認めることになる。
認めることになる、と思っている時点で、もう認めていた。
◇
俺は条項を一つずつ確かめた。
利は取らない、と書いてある。前渡しであって貸付ではない、という建て付けだ。
その代わり、金具と石材の買い手は商会に限る、とある。
「他所に売ってはいけない、ということですか」
「担保でございますので」
「相場より安く買われても、こちらは断れない」
「弊会は、相場を下回る値を付けたことがございません」
嘘ではないだろう、と思った。十一日目に、あの老人は値を上げさせた。安く買えば次に売る物がなくなる、と言って。
あれは親切ではなかった。今なら分かる。
今日を救うには多く、そこから離れるには少ない額。そういう渡し方をする人間だ。
俺は署名した。
署名しながら、ヨルの言葉を思い出していた。仕事を選べなくなる。
選べなくなるのは、たぶん、今日ではない。
今日はまだ、選んで借りている。
二回目からは、たぶん、選ばずに借りる。
「一つ、伺ってもいいですか」
俺は羽根を置いた。
「この前渡しは、どなたの判断です」
コルトは書類を揃える手を止めなかった。
「弊会の判断でございます」
「ラウさんですか」
「弊会の判断でございます」
二度同じことを言った。それが答えだった。
◇
コルトが帰ったあと、俺は全員を大広間に集めた。
署名する前に言うべきだった、と思ったが、遅かった。使いを待たせたまま四半刻も議論できる状況ではなかったし、待たせれば足元を見られる。
「借りた」
俺は最初にそう言った。
「二百十七枚。西翼と玉座の間を担保にした。返すのは、あれを売った金だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「返せなかったら、どうなるんだ」
「西翼と玉座の間が、商会のものになる」
「城が取られるってことか」
「城は取られない。担保はあの二区画だけだ」
俺は正直に付け足した。
「ただ、あそこを取られたら、九十日目に役所へ出す数字が減る。減れば、この城は撤去したほうが安いことになる」
「じゃあ、結局は」
「結局は、そういうことだ」
ヨルが壁を見ていた。二十四日目に貼った紙が、まだそこにある。
「なあ、アルド」
「なんだ」
「あんた、俺たちに諮らなかったな」
俺はそれを認めた。認めるしかなかった。
「諮らなかった」
「二日目の朝、条件を変えるときは全員の同意だと言ったろ」
「言った。だが、これは条件の変更じゃない。俺が整理官として結んだ契約だ」
「屁理屈だな」
「屁理屈だ」
俺は言った。
「だから、書く。諮らなかったことも書く」
ヨルはしばらく俺を見ていた。それから、壁の紙のほうへ顎をしゃくった。
「八行目を作れ。金を借りるときは、先に全員に言う、ってな」
「今日は間に合わなかった」
「だから、次からだ」
その夜、八行目が加わった。反対は出なかった。
◇
精算は、その夜になった。
五十二人。四日ぶんの四枚に、繰り越しの一日を乗せて五枚。二百六十枚。
維持費の四十枚を別の袋に分けた。
残りは、ゼロだった。
卓の上に、空になった袋が置いてある。俺はそれをしばらく見ていた。
「五枚だ」
ニコが札を裏返して言った。
「五枚だ」
「先週は四枚だった」
「繰り越しが一日、乗った。あと二週で返しきる」
「本当に乗ったな」
彼は札の番号と、帳面の欄を突き合わせていた。ガルドから習ったやり方だ。
「……あんた、どっから金持ってきた」
「借りた」
俺は正直に言った。
「商会からだ。西翼の金具を担保にした」
ニコの手が止まった。
「それ、帳面に書いたか」
「書いた」
「見せてくれ」
俺は開いた。
――三十四日目。ヴェルデ商会より前渡し二百十七枚。担保、西翼および玉座の間の資産。返済は売却代金による。期限九十日目。買い手は商会に限る。事前に全員へ諮らず、整理官の判断で署名。反対、ヨルほか三名。
ニコはそれを長く読んでいた。
「反対、四人か」
「四人だ」
「あんたは」
「俺は借りると決めた。だから、そこには入ってない」
「入れとけよ」
彼は言った。
「あんただって、借りたくなかったんだろ」
◇
夜、証文の写しを綴じた。
二冊目の帳面の後ろに、紐で括って挟む。これから九十日目まで、何度も開くことになる紙だ。
最後の一行に、目が留まった。
――本証は、貴殿作成の全資産目録に基づく。
俺は、その行を三度読んだ。
全資産目録。
九日目に作った目録は十一枚ある。だが、あれは売却対象品の目録だ。書物庫、細工物庫、厨房什器、工房の道具。西翼と玉座の間は入っていない。運べないから外した。
十一日目にヴェルデで見せたのも、その十一枚だ。ラウが受け取ってめくり、老人が卓の上を覗き込んだ。二人が見たのは、それだけのはずだ。
西翼の金具が六十以上あることを、俺は昨日はじめて数えた。
書いたのは自分の帳面で、外へは出していない。
なのに、この証文は「全資産目録」と書いている。
可能性は三つある。
一つ、商会が言葉を厳密に使っていないだけ。証文の雛形に「全資産目録」と刷ってあるだけかもしれない。
二つ、俺が十一枚以外の何かを、どこかで渡している。心当たりはない。
三つ。
俺は三つ目を書かなかった。書けば、城の中の誰かを疑うことになる。
五十六人の名前が、隣の帳面に並んでいる。全員の欄を、俺が自分で書いた。
俺は帳面を閉じて、松明を消した。
暗い大広間で、二十日目の封書のことを考えていた。あのときは、目録を見た人間が二人いた。
今度は、あの二人が見た十一枚だけでは説明がつかない。




