第十五話 二冊目
三十日目の朝、帳面が閉じなくなった。
背の糸が伸びて、束が膨らんでいる。破って渡した紙が十数枚あるので、実際の厚みはもっとあったはずだ。
俺は大広間の卓で、最初のページから順に繰った。
一日目、王都出発。三十一人分の名前。
五日目、給水復旧。五日の者が三十人、一日の者が一人。
十三日目、最初の給金。
二十日目、二十三人到着。
二十三日目、診療所開設。施術者リゼ、無資格。
二十四日目、有給勤務を週四日に制限。恒久化には反対二十九名、三週間の試行としては全員同意。
三十日で、ここまで来た。
問題は、この先だ。
昨日、俺は自分の帳面から人を探すのに、四半刻かかった。ケインの怪我がいつだったかを確かめようとして、二十三日目のページに辿り着くまでに、二十二回めくった。
四半刻。五十六人いる城で、俺が四半刻を使うということは、その間、誰の判断も進まないということだ。
◇
もう一つ、二十七日目の夜から頭に残っていることがあった。
切れた麻紐と、裸足の足跡だ。
入口の紙は毎日確かめている。この三日、地下へ降りた者は十一人いた。全員、名前を書いていた。全員、靴を履いていた。
書かれていることは分かる。分からないのは、書かれていないことのほうだ。
紙は、書いた人間の数しか教えてくれない。
◇
その日の午後、俺は区画の四人を呼んだ。
ガルド、エッダ、ヨル、マレン。二十四日目から、それぞれの区画の紙を書いている連中だ。
「帳面を、二冊に分ける」
俺は白紙の綴じを二つ、卓に置いた。書物庫に残っていた千四百冊のうち、湿気で膨れて売り物にならなかった一冊を解体して作ったものだ。文字の書かれた面の裏側が、まだ白かった。
「一冊目は、人の帳面だ。誰がここにいるか。名前、来た日、どの区画にいるか、家族がいるか。それだけ」
「二冊目は」
「仕事の帳面だ。誰が、いつ、何をして、いくら受け取ったか」
ガルドが眉を寄せた。
「同じ紙でいいだろ。今までそうだった」
「今までは五十六人だった」
俺は指を折った。
「明日、六十人になるかもしれない。九十日目には百人を超える。一冊で持つと、誰かの名前を探すのに四半刻かかる」
「四半刻」
「昨日、実際にかかった」
ヨルが口を挟んだ。
「分けたら、どっちにも同じ名前を書くことになるぞ。二度手間だ」
「なる」
「面倒だろ」
「面倒だ。ただ、二冊あると、片方が焼けても片方が残る」
俺は言ってから、自分の言葉に少し引っかかった。
二日目の朝、ガルドに給金札を渡したときに、同じことを言っている。帳面が焼けたら札が残る。片方が消えても、もう片方が証拠になる。
あのときは、俺一人が持つ紙の話だった。
いまは、四人が持つ紙の話になっている。
「もう一つある」
俺は続けた。
「地下へ降りた人間を、これから書く。誰が、いつ、何をしに降りたか」
ヨルが顔を上げた。地下区画は彼の担当だ。
「見張れってことか」
「違う。書くだけだ。止めない」
「止めないのか」
「止める理由がない。あそこは城の一部で、みんなが直した場所だ」
俺は少し迷ってから、続けた。
「ただ、奥の扉のことは、俺にも分からん。分からないものに人が近づいたとき、誰が近づいたのかだけは知っておきたい」
「何かあったときのためか」
「何もなければ、ただの紙で終わる」
ヨルはうなずいた。井戸掘りの現場で、誰が何番目に潜ったかを書く癖があるのだと、あとで聞いた。
◇
人の帳面を作るのに、丸一日かかった。
一人ずつ呼んで、名前と、来た日と、区画を書いた。三日目の朝にやったのと同じことだが、今度は職能を聞かなかった。それは仕事の帳面のほうにある。
書きながら、数が合わないことに気づいた。
城にいるのは五十六人だ。そのうち俺を除けば五十五人。書き終えたとき、行は五十六あった。
もう一度、上から数えた。やはり五十六だった。
最後の行を見た。
――アルド・カレン。整理官。来た日、一日目。区画、大広間。
書いた覚えがなかった。
筆跡は俺のものだった。人の帳面を作るあいだ、五十六人を順に書いていって、最後に手が勝手に一行足したらしい。
俺はしばらく、その行を見ていた。
三十日前、羊皮紙に載らなかった名前だ。
いま、自分の手で、自分の帳面に載っている。
載せたところで、何かが変わるわけではない。誰も読まない。日当の欄も相変わらず空白だ。
それでも、俺は消さなかった。
◇
夕方、二冊目を開いた。
仕事の帳面のほうだ。こちらは、これまでの記録を書き写すことになる。三十日分、五十六人分。
書き写しながら、一つ気づいたことがあった。
三日目の欄が、いちばん薄い。
あの日、俺は三十一人分の職能を二列に書いた。左が冒険者になる前、右が冒険者として。六十二行だ。
いまは、その倍以上の行がある。
トビーの欄には、火魔法のほかに「書物庫の乾燥」「余熱の管理」「窯」が足されている。ハンナには「積載方式」「昇降索」「乾燥棚の設計」。ケインには「解体順序」「岩盤の見立て」「石割りの教習」。エッダには「梱包」「導管の補修」「機織り」。
誰も、新しい能力を得たわけではない。
ただ、やったことが書かれただけだ。
二年半、俺は物を数えてきた。物は、数えても増えない。四百八十の乾燥肉は、数えても四百八十だ。
人は、違うらしい。
書けば書くほど、行が増える。
◇
その夜、大広間で全員に見せた。
二冊を卓の上に並べる。左が人の帳面、右が仕事の帳面。
「今日から、こうする」
「二冊になっただけだろ」
誰かが言った。
「そうだ」
「たいした話じゃねえな」
「たいした話じゃない」
俺はうなずいた。
「ただ、一冊のときは、俺が持ってた。二冊になると、俺一人では持てない。区画の四人に、それぞれの写しを預ける」
部屋が、少し静かになった。
「写しって、同じもんか」
「同じものだ。ガルドの区画のことは、ガルドの写しに書いてある。俺の本冊にも書く。二つが食い違ったら、二人で突き合わせる」
「食い違ったら、どっちが正しいんだ」
「分からん。突き合わせて、思い出せるほうが正しい」
「思い出せなかったら」
「両方書く。食い違ったまま残す」
「それ、記録って言うのか」
「言う」
俺は答えた。
「揃ってるように見せた紙より、食い違いが残ってる紙のほうが、あとで役に立つ。揃いすぎてる紙は、誰かが揃えた紙だ」
ニコが後ろから言った。
「あんた一人が持ってたほうが、揉めないんじゃないか」
「揉めない」
「じゃあなんで分ける」
俺は答えを用意していなかった。
考えて、それから言った。
「一冊しかないと、書く人間も一人だ。書く人間が一人だと、その一人が間違えたとき、誰も気づけない」
「あんた、間違えるのか」
「間違える。二十四日目に、毛布の配布を書き忘れた」
殴り合いをした二人が、こっちを見ないようにしていた。
「四人が書けば、四回書き忘れる。だが、四人が同じ日に同じことを書き忘れる確率は、ずっと低い」
誰も返事をしなかった。分かったのか分からなかったのかも、俺には分からなかった。
ただ、ガルドが自分の紙を懐から出して、卓の上に置いた。
「じゃあ、こっちの写し、もうちょっといい紙にしてくれ。破れる」
「明日、作る」
「あと、字を教えてくれ」
男は決まりの悪い顔をしていた。
「書けねえと、書き忘れるも何もねえだろ」
俺は帳面を開いた。二冊目のほうだ。
――三十日目。ガルド・レン、記帳の習得を申し出。
書いてから、その一行を見た。
仕事の帳面に、まだ起きていない仕事を書いたのは、これが初めてだった。
◇
寝る前に、俺は人の帳面をもう一度開いた。
五十六行。三十日前は、宿舎の前に五十三人がいて、俺はそのうち三十人しか連れて来られなかった。
連れて来られなかった二十三人のうち、五人は来なかった。二人は傭兵になった。三人は別の仕事を見つけた。
その五人は、この帳面には載らない。ここにいないからだ。
かわりに、別紙を一枚はさんだ。未着者記録、と表に書いた。
――王都、聖堂経由。未着五名。理由、傭兵登録二名、他職三名。
書く必要のない紙だった。それでも書いたのは、二人が傭兵になったからだ。
銀貨三十枚の前金。ここの三十日分。あの金がどこから出ているのか、俺はまだ知らない。
◇
三十日目の記録は、こうなった。
人口、五十六人。うち雇用契約者が五十二人(うち療養中一人)、子どもが三人、整理官が一人。
手元の銀貨、三十三枚。乾燥肉は初回の納めで五十枚、二回目から週八十枚の見込み。
繰越勤務、百五十二日ぶん。三週で返す。
備蓄、十四日ぶん。
城の期限まで、あと六十日。
繰越勤務、百五十二日ぶん。
この数字を書いたとき、俺は手を止めた。
今週の支払いを四日ぶんに抑えたのは、今週を乗り切るためだ。乗り切った。三十三枚残った。
だが、繰越は消えていない。百五十二日ぶんは、いつか払う。
三十四日目に何が要るかを、俺は紙の隅で計算した。
五十二人に四日ぶん。二百八枚。そこへ繰越を一日ずつ乗せると、五十二枚が足される。二百六十枚。食料と薪と塩で、さらに四十枚ほど。
合わせて、三百枚。
入ることが決まっている金は、乾燥肉の初回五十枚だけだ。棚を増やして七日で二十袋にするには、契約から日数が要る。初回の納めが三十三日目、二回目は四十日目になる。次の精算には間に合わない。
手元の三十三枚を足して、八十三枚。
足りないのは、二百十七枚だ。
俺はその数字を、二度書き直した。二度とも同じだった。
乾燥肉が回りはじめた。それは本当だ。だが、動き出すまでに日数がかかる。動き出しても、週八十枚では五十二人の四日ぶんに届かない。
週四日にして解決した、と思っていたわけではない。ただ、思っていたよりも、解決していなかった。
残っているのは、西翼と玉座の間だ。金具、石材、扉の錠前。解体すれば運べる。運べば売れる。
人手と日数が要る。
人手はある。二十七日目から始まった輪番外の三日が、五十二人ぶんある。
そこまで書いて、俺は線を引いて消した。
輪番外の三日は、城のものではない。三日前に、俺が自分で決めた。日当の出ない日に本人が作った物は本人のもので、城が使うなら買い取る。時間も同じだ。
あの三日を解体作業に回すなら、四日の割り当てから人を動かすか、売却代金から別に払う契約を結ばなければならない。
六行目を作ったのは俺だ。三日で忘れかけていた。
書いておいてよかった、と思った。書いていなければ、たぶん今夜のうちに人を割り振っていた。
日数は、六十日。
二か月だ。
あの文官が言った言葉を、俺はまだ覚えている。
――九十日後、この城が国庫にいくら残すのか。
残す、と彼は言った。
いまの帳面には、残せる物はほとんど書かれていない。書庫は空で、細工物も出した。
残っているのは、二冊の綴じと、五十六人だ。
俺はその夜、二冊目の最後のページに、まだ埋まっていない欄を作った。
――九十日目、提出。
その横は、空白のままにした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
アルドたちの街をもう少し見届けたいと思っていただけましたら、ブックマークで応援していただけるとうれしいです。
次回から毎日21時10分に更新予定です。
誤字を見つけられましたら、誤字報告機能でお知らせいただけると助かります。




