第十三話 無資格
十六日目に決めた七日間の試行が、明ける日だった。二十三日目の朝だ。
あの夜、ニコという若い男は、違反を帳面に永久に残すことに反対した。賛成はしない、七日だけ試す、と言って座った。
その七日が、今日で終わる。
俺は朝のうちに、壁の紙を外した。四行の規則と、その余白に書いた一行が並んでいる。
――違反記録を残すことについて反対あり。帳面は罰より重い、との意見。七日間の試行として合意。
「ニコ」
厨房で薪を割っていた男が振り返った。
「七日たった。まだ嫌か」
彼は斧を置いて、しばらく考えていた。
「……半分」
「半分」
「あんた、この七日で二回書いただろ。俺が炉番を代わってもらった日と、俺が寝坊した日」
「書いた」
「腹は立った。だけどな」
彼は言葉を探していた。
「同じ紙に、俺が余熱の導管を運んだことも書いてあった。あれがなきゃ、寝坊のことだけが残る」
「そうだな」
「悪いことだけ書く紙なら、俺は破りに行く。両方書くなら、まだ我慢できる」
俺は帳面を開いた。
「じゃあ、一つ足していいか」
「なんだ」
「これから何かを書くときは、事実だけじゃなく、理由と、本人が言ったことも一緒に書く」
「理由」
「寝坊、とだけ書けば、あんたは寝坊した男だ。前の日に炉番を二回続けたから寝坊した、と書けば、話が変わる」
ニコが口を開けた。それから、閉じた。
「……それ、書くのに時間かかるぞ」
「かかる」
「一日五十人分だぞ」
「かかる」
俺は同じ答えを繰り返した。かかることは、やらない理由にならない。
その日、四行の下にもう一行が加わった。
――記録には、事実と理由と、本人の言い分を併記する。
名前を書きに来たのは、今度は三十人ほどだった。全員ではない。それでいいと思った。
全員が賛成する規則は、たぶん誰も読んでいない規則だ。前の隊がそうだった。隊規は羊皮紙に立派に書かれていて、誰も中身を知らなかった。
昼過ぎ、ラーデン村から来た二人が俺のところへ来た。若い兄弟で、兄はトゥーレ、弟はロッドといった。
「俺たち、名前を書いていいのか」
「書く」
「村の人間だぞ」
「ここで働いてるなら、ここの帳面に載る。村に帰るなら、そのときに線を引く。消しはしない」
兄のほうが弟を見た。弟のほうが先に紙を取った。
◇
同じ日の午後、リゼが東翼の空き部屋を片付けはじめた。
石の台を一つ、窓際に据えている。ケインが石を切って作ったものだ。棚には、薬箱の中身が並べてあった。
「診療所ですか」
「そう呼んでいいのかしら」
彼女は台の高さを確かめるように、両手をついた。少し低い、と呟いてから、そのままにした。
彼女は瓶を一本ずつ布で拭いていた。
「人が五十六人もいると、毎日誰かが怪我をするの。この七日で、切り傷が九件、腹をこわしたのが四件、火傷が二件。廊下で診るのは、そろそろ限界」
「開けてください」
「開けるわ。ただ」
彼女は手を止めた。
「私、資格がないの」
知っている。第一話の夕方、宿舎の前で聞いた。三年と、六十万ルクレ。
「帳面に、どう書くつもり」
リゼが聞いた。試すような聞き方ではなかった。本当に迷っている声だった。
「そのまま書きます」
「そのままって」
「診療所、開設。施術者リゼ。戦時資格失効につき、無資格」
「……それ、証拠になるわよ」
「なります」
俺は帳面を開いて、彼女に見えるようにした。
「隠して書かなければ、見つかったときに『隠していた』も足されます。二つ罪が増える」
「一つで済ませたいってこと」
「それもあります。ただ、本当の理由は別です」
俺は今朝ニコと決めた新しい一行を指した。事実と、理由と、本人の言い分。
「あなたがなぜ無資格のまま診るのか。そこを書けるのは、あなたしかいない」
リゼは瓶を置いた。
しばらく窓の外を見ていた。雪はもう溶けかけている。
「……傷を縫うのは、資格があってもなくても同じよ」
「それを書きます」
「それだけじゃないわ」
彼女は俺のほうを向いた。
「私が縫わなかったら、誰も縫わない。この城には、私しかいない。だから縫う。資格がないのは私の落ち度じゃなくて、資格を消した側の都合。書くなら、そこまで書いて」
俺は書いた。書くのに、少し時間がかかった。
二年半のあいだ、俺が書いてきたのは物の数だ。乾燥肉が四百八十、豆が九袋。数は書けば終わる。
人の言い分は、終わらない。
――二十三日目、診療所開設。施術者リゼ。戦時限定施術資格は魔王討伐の翌日に失効。城内に他の施術者なし。本人の申し出により、無資格であることを明記して記録する。
◇
その診療所が、その日のうちに使われた。
夕方、東翼の壁を延ばしていたケインが、崩れた石に足を挟まれた。
悲鳴を聞いて走ったとき、俺が最初に見たのは石ではなく、彼の周りに集まった六人の背中だった。誰も動かしていない。ヨルが「触るな」と怒鳴っている。井戸掘りの現場では、落ちた人間を焦って引き上げると必ず悪化するのだと、いつか言っていた。
石をどけたのはリオンだった。両手で抱えて、一度で外へ運んだ。二十日前なら、この男は剣を抜いていたかもしれない。
運び込まれたとき、彼の左の足首は明らかに向きがおかしかった。ガルドが二人がかりで抱えてきて、台に乗せた。
「動かさないで」
リゼの声が変わった。廊下で話していたときの声ではない。
「ハンナ、縄。まっすぐな板を二枚。エッダ、布を裂いて。細く、長く」
二人が走った。
「アルドさん、押さえて」
「どこを」
「膝。私が引くから、体が動かないように」
俺はケインの膝を押さえた。頬に古い傷のある男が、歯を食いしばって天井を見ていた。
「ケイン。声は出していいわ」
「……出さん」
「出したほうが楽よ」
「うちの親方が、出すなって」
「その親方、ここにいないでしょう」
リゼが引いた。
ケインが声を出した。石を割るときのような、短い音だった。
骨が戻る感触が、押さえていた俺の手にも伝わった。
板を当てて、布で巻く。エッダが裂いた布は、ちょうどいい幅だった。
「折れてはいないわ。外れただけ。二十日、歩かないで」
「二十日」
「歩いたら、次は折れる」
ケインは天井を見たまま言った。
「……日当は」
俺はそのとき、まだ帳面を開いていなかった。
「出る」
「働いてないぞ」
「働けなくなったのは、東翼の壁を延ばしてたからだ。壁は要る。要るものを作ってて怪我をしたなら、それは仕事中だ」
「そんな決まりがあるのか」
「ない」
俺は帳面を開いた。
「今から作る。全員に諮る」
「諮るって、俺のためにか」
「あんたのためじゃない。次に足を挟む誰かのためだ」
ケインは天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「……親方は、そういうのを作らなかったな」
「作らないと、どうなる」
「怪我した奴が、黙って現場から消える。それだけだ」
その夜、五行目が加わった。
――城の仕事で動けなくなった者には、動けない間も日当を出す。
反対は出なかった。ニコが最初に名前を書いた。
◇
夜、リゼが手を洗いながら言った。
「今の、書くの」
「書きます」
「施術者、無資格。処置、脱臼の整復。……いい記録じゃないわね」
「いい記録です」
俺は書きながら答えた。
「日付と、患部と、処置と、結果。それを書いた人間が誰で、資格があったかなかったか。全部揃ってる」
「揃ってると、何かいいことがあるの」
「分かりません」
正直に言った。
「ただ、揃っていないものは、あとから何とでも言われます。揃っているものは、少なくとも数えられる」
リゼは布で手を拭いて、それから小さく息を吐いた。
「……今日、行商人が来たでしょう。塩を売りに」
「来ました」
「あの人から聞いたの。王都の監査が、地方を回りはじめたって。戦時資格の失効を、ちゃんと守ってるかどうか調べてるらしいわ」
俺は書く手を止めた。
「いつ来ると」
「知らない。でも、来るなら来るでしょうね」
彼女は薬箱の蓋を閉めた。留め具の金具が、いつもどおり丁寧に磨かれていた。
「そのときは、その帳面が私を守るの? それとも、私を吊るすの?」
俺は答えられなかった。
どちらにもなる。それだけは分かっていた。
「一つだけ、言えます」
「なに」
「今日のケインの足は、二十日で治ります。あなたが引いたからです。それは、誰が読んでも同じように読めます」
「読める人がいればね」
「読める人を、こっちで用意します」
「どうやって」
「分かりません」
俺は正直に言った。彼女は少しだけ笑った。うまくない笑い方だった。
「あなた、そればっかりね。分かりません、って」
「分かることだけ書いてると、紙が埋まらないので」
その夜、俺は帳面の最後のページをもう一度開いた。
整理官の欄は、まだ空白だ。
その下に、誰にも見せていない行が二つある。十一日目と、昨夜書いたものだ。
――間違えたときは、書く。
――約束を変えるときは、変える前に言う。
その隣に、もう一行足した。
――守れないかもしれないものは、先に、守れないと書く。
明日の朝、俺は全員の前で日当の話をする。
言う前に、自分の紙に書いておいた。




