第十一話 内側の閂
二十一日目の朝、俺たちは炉室の奥の壁の前に立っていた。
壁ではない。扉だ。ただし、二年前に誰かが外側から石を積み上げて塞いでいる。積み方は雑だった。逃げる者の手だ。
「魔族が自分で塞いだんですね」
セロが石に手を当てた。
「なんで塞いだと思う」
「見られたくないものがあるか、置いていくのが惜しいか」
「どっちにしろ、中に何かある」
ケインが石を一つ叩いた。乾いた音がした。
「モルタルを使ってない。積んだだけだ。下から抜けば崩れる」
「崩れると危ないか」
「危ない。だから上から順に外す。手間はかかるが、そっちが早い」
「早いほうでいい」
俺は言った。
「今日中に開ける」
昨日、俺は全員の前でそう言った。言ったことは、その日のうちにやる。それができない日が来たら、次から誰も俺の言うことを聞かなくなる。
◇
石を外すのに、半日かかった。
リオンが上段を、ガルドが中段を、ケインが崩れる順序を見た。ヨルが土嚢を積んで、万一のときに人が逃げる導線を作った。
途中で一度、中段の石が二つまとめて落ちた。ガルドが体で受けて、足の甲に乗せた。
「ケイン」
「言ったろ。抜く順を間違えるとこうなる」
ケインは怒鳴らなかった。ただ、落ちた石を拾って、元の位置に戻した。
「見てろ。この石は、上のこいつが乗ってる。だから先に上を抜く。上を抜くと、今度は右のが動く。右を押さえながら抜く」
「面倒だな」
「面倒だから、俺は現場を三年で逃げたんだ」
ガルドが笑った。足の甲は腫れていて、リゼが後で湿布を巻いた。俺はその二つを帳面に書いた。ケイン、二十一日目、解体順序の指示。ガルド、二十一日目、落石を受けて負傷。
最後の一段を外したとき、内側から風が吹いた。
冷たい風だった。地下から上がってくる空気は、普通は生温い。二年閉じていた空間なら、なおさらだ。
「……これ、どこかで外とつながってますね」
セロが言った。
「奥に、抜け道がある」
中へ入るのは十人に絞った。俺、セロ、ケイン、ガルド、ミラ、リオン、ヨル、それに石を運べる三人。
「もっと連れて行けばいいだろ」
ガルドが言った。
「二年閉じてた場所だ。空気が悪いかもしれん。崩れるかもしれん。何が悪いか分からないうちに、五十人は入れられない」
「十人なら入れるのか」
「十人なら、全員の名前を俺が覚えていられる」
松明を掲げて、俺が先に入った。
階段だった。幅が広い。人間が二人並んで歩ける、というのではない。人間なら四人が並べる。一段の高さも、俺の膝の上まである。
降りるのに苦労した。ガルドが舌打ちをした。
「魔族ってのは、みんなこんなにでかいのか」
「討伐した奴らは、だいたい俺たちと同じくらいだったぞ」
リオンが言った。
「じゃあ、この階段は誰のためだ」
誰も答えなかった。
俺は段の高さを歩幅で測りながら降りた。一段が膝の上。二十七段。上りきるのに、俺なら息が上がる。
降りながら、妙なことに気づいた。
段の中央が、わずかに擦り減っている。石が窪んでいるのだ。
二年で減る量ではない。何十年、あるいはもっと長いあいだ、誰かがここを行き来していた。
その誰かは、この段を苦もなく上り下りできる背丈だったはずだ。
◇
降りきったところは、広い部屋だった。
松明を掲げても、天井は見えない。壁に沿って、腰の高さの台が延々と並んでいる。作業台だ。上に道具が残っている。二年ぶんの埃をかぶっていた。
その台の一つに、セロが駆け寄った。
「アルドさん」
声が上ずっていた。
「これ、魔石です」
木箱が並んでいた。蓋を開けると、拳ほどの大きさの結晶が詰まっている。青みがかった灰色で、松明の光を受けると内側が薄く光った。
「いくつある」
「……数えます」
セロは箱を一つずつ開けていった。指が震えていた。
「三十四。いや、三十六です。うち、四つは割れてますけど、割れてても使えます」
「炉に入れると、何日もつ」
「一つで四日から五日。三十六なら――」
彼は口の中で計算して、それから顔を上げた。
「半年です。半年、炉が止まりません」
後ろで、誰かが息を吐いた。
俺は帳面を開いた。この日のために、開いた。
――二十一日目。地下区画開放。魔石三十六個。炉稼働、およそ百八十日ぶん。
書きながら、指が少し速くなっていた。
魔石は買えば高い。ヴェルデの相場なら一つで銀貨百枚だ。三十六個なら三千六百枚になる。
だが、売らない。
売ったら炉が止まる。炉が止まったら水が止まり、水が止まったらここに人は住めない。
売れる資産と、売れない資産がある。俺はその区別を、この日はじめて帳面に線で分けて書いた。
――右欄、売却可。左欄、稼働に要す。売却不可。
左欄に書いた最初の項目が、魔石三十六個だった。
「アルドさん、それ」
セロが覗き込んだ。
「売れるものを右に書いて、売れないものを左ですか」
「そうだ」
「でも、魔石は売れますよ。三千六百枚です」
「売れる。だが、売ったら明日から水が出ない」
俺は左の欄を指した。
「売れる物と、売っていい物は違う。今まで俺は、それを分けずに数えてた」
セロは少し黙ってから、言った。
「……炉も、そっちですね」
「炉もだ」
俺は左の欄に書き足した。魔石炉三基。
右の欄に残っているのは、厨房什器と、工房の道具と、値のつかない千四百冊だけだった。
◇
部屋の奥に、扉があった。
両開きで、高さは俺の三倍ある。黒い金属で、表面に紋様が刻まれていた。炉が動いてから回廊の壁に浮かぶようになった、あの赤い線と同じ形だ。ただし、この扉の紋様は光っていない。
「開くか」
リオンが押した。動かない。ガルドが加わった。動かない。
ケインが継ぎ目に指を入れて、しばらく探っていた。
「閂じゃないな。……これ、内側から留まってる」
「内側から」
「掛け金が、向こう側にある。こっち側には触るところがない」
俺は扉に近づいた。
把手はない。押すところも引くところもない。人間が開けることを想定していない扉だ。
その足元に、松明の光が落ちた。
埃が積もっている。二年ぶんの埃だ。部屋のどこも同じように積もっている。
だが、扉の前だけ、床の埃が薄かった。
半円形に、薄くなっている。
「……これ」
ミラがしゃがみ込んだ。彼女は斥候だ。地面を読むのが仕事だった。
「扉が開いた跡よ。開いて、閉じてる」
「二年前にか」
「違う。二年前なら、そのあとに埃が積もって同じ厚さになってる」
彼女は指で床をなぞった。
「これ、最近。ひと月以内」
部屋が静かになった。
俺は自分の背中に、冷たいものが降りるのを感じた。
冷たい風が、まだ足元を流れている。この部屋のどこかが外とつながっていて、そこから空気が入ってくる。
――そして、この扉は、内側から開いた。
「アルド」
リオンが小声で言った。手が、腰にある。剣は持ってきていない。癖だ。
「戻るか」
俺は考えた。
考えるあいだ、後ろで九人が松明を持って立っている。今日ここに来たのは、部屋と魔石が要ったからだ。両方あった。目的は果たしている。
「戻る」
俺は言った。
「魔石は全部運び出す。作業台の道具も。それから、この部屋は使う。空気も床も問題ない。ここから上の階段までを居住区にする」
「扉は」
「今日は触らない」
「いいのか」
「よくない」
俺は扉を見上げた。
「だが、今日開けても、俺たちには何もできない。中に何がいるのか分からない。分からないものに、これ以上の人間を近づけない」
俺は帳面に書いた。
――同区画奥、大扉。内側から施錠。開閉跡あり、ひと月以内。要調査。
――当面、扉に封印を施し、地下への出入りを記録する。
書いてから、その一行をしばらく見ていた。
要調査。それは、いつかやるという意味だ。
補給係の帳面では、いつかやると書いたものは、たいてい手遅れになってから読み返される。
◇
その夜、地下から運び上げた魔石が、大広間の床に並んだ。
三十六個。松明の光を受けて、薄く光っている。
五十四人が、それを囲んで見ていた。誰も触らなかった。触っていいものかどうか、分からなかったのだろう。
「半年だ」
俺は言った。
「これで、半年は水が出る。暖房も止まらない」
声は上がらなかった。代わりに、みんながゆっくり息を吐いた。
半年。
九十日の期限より、ずっと長い。
「アルドさん」
トビーが手を挙げた。
「じゃあ、俺たち、半年はここにいられるんですか」
俺は答えようとして、止まった。
いられる。水と暖房がある限り、凍えない。だが、飯は別だ。
備蓄は、あと二十日ぶんもない。
「炉は半年もつ」
俺は正直に言った。
「食い物は、二十日だ」
トビーの手が下がった。
「売る物も、すぐには出せない。書庫は空だ。細工物も出した。西翼と玉座の間には、まだ金具や石材が残ってる。だが、あれは解体しないと運べない。人手と日数がかかる」
「じゃあ、当面は」
「当面は、ここで何かを作って売るしかない」
「作るって、何を」
ガルドが聞いた。
「分からん」
俺は魔石の一つを手に取った。冷たかった。
「だが、二十日ある。二十日で見つける」
誰も、その言い方を疑わなかった。
疑わなかったのは、この二十日で俺が言ったことが、全部その通りになってきたからだ。水は出た。給金は出た。部屋は増えた。魔石まで出た。
それが少し、怖かった。
俺が間違えても、たぶん、この五十四人は同じ顔でついてくる。
その夜、俺は帳面の最後のページを開いた。整理官の欄は、まだ空白のままだ。
その下に、俺は一行だけ足した。誰にも見せない場所に、自分のために書いた。
――間違えたときは、書く。
それしか、思いつかなかった。




