第71話『トラウマ』
「ありがとう。お兄ちゃん」
そう言い残して、彼女は夜の川に飛び込んだ。
ドポンとした、思いのほか軽い音だけを残し紫夏は川の中に消えた。
「あの野郎!」
既に、飛び込んだ紫夏を探そうとしても、この夜の暗さで彼女の姿を目で追うことはできない。
こうなったら、助けに飛び込むしか!
「……くっ!」
しかし、助けようとした瞬間、僕の足が震え出した。
そして、ふと過去のトラウマが蘇る。
『だずげでぐあだぁい!』
体が『生きたい』と、もがき始めた記憶と『生』にしがみつくどうしようもなく情けない自分への悔しさ……
『おい! だれか溺れているぞ!』
『救急隊呼べ!』『大丈夫かーっ!?』
自分で死んでもいいと思ったはずなのに、生きようとして救われた過去……
あの日、僕は確かに『死』を拒否した。
昔、家族で飼っていた猫が死んで自暴自棄になった僕は今の紫夏と同じように、この川に飛び込んで死のうとした……だけど、結果は死の恐怖と溺れる苦しさで無様にも行きたいと願い助けを叫び生き残った……。
その記憶が川に向かおうとする僕の足を引き留めた。
「そう、助けを呼べばいいんだ……」
しかし、今から誰かに助けを呼んで間に合うか?
助けが来るのは少なくても数分、いや下手したら十分後以上……。
「だからって言って、飛び込んで助けられる保証なんて……っ!」
『だずげでぐあだぁい!』
蘇るのは過去の記憶と苦しみ。
あの時は死のうとして、それでも、死にたくないと願い。助かってしまった。
『おい! だれか溺れているぞ!』
『救急隊呼べ!』『大丈夫かーっ!?』
あの時の僕だって、助けてもらったじゃないか?
そうだ! その助かった命を捨てるのか!?
もう……あんな苦しい思いは……
「モモカ……おもクロ丸……」
――だから、悩んだのは一瞬だった。
「二度とゴメンだ!」
アイツも……紫夏も今そんな苦しい思いをしているはずだ。
ボクだから分かる!
だから、僕が助けなきゃいけないんだ!
「冬花!」
トラウマを抱えながら、僕は夜の川に飛び込んだ。




