第五話 魔王城へようこそ
十八回目。リリスの方から呼び出された。
場所は魔王城の門前だった。一ヶ月ぶりのそこは、あの日と何も変わっていなかった。石畳の色が、ところどころ黒く変わっているのを除けば。
あれは血だ。俺の仲間の血だ。
「来たか」
リリスは鎧姿だった。久しぶりに見る戦装束に、俺は反射的に身構えた。
「なんだよ、久しぶりに殺し合いか?」
「違う」
リリスは首を振った。それから、少しだけ言い淀んだ。
言い淀む。この女が。
「父上が、お前に会いたいと言っている」
俺は、たっぷり三秒黙った。
「……は?」
「私が人間と会っていることは、とうに知られていた。隠せると思ってはいなかったが」
「殺されるってことか、俺」
「そうはさせん」
即答だった。
リリスは俺の目をまっすぐ見て、言った。
「私が保証する。お前は客だ。父上とて、娘の客を勝手に殺しはせん」
――入れる。
頭の中で、何かが冷たい音を立てて回転を始めた。
魔王城の内部。玉座の間。魔王グラウディアの姿。人間側が誰一人として持っていない情報が、今、俺の目の前で扉を開けている。
俺は不安そうな顔を作った。
「……お前が保証するって言うなら、信じるよ」
リリスの表情が、わずかに動いた。安堵、というやつだと思う。
「行くぞ」
◆
魔王城の中は、想像していたよりずっと静かだった。
血と死の匂いが漂う場所、とリリスは言っていた。確かに匂いはあった。だが、それ以上に印象的だったのは、圧倒的な広さと、そこに人影がほとんどないことだった。
俺は歩きながら、必死に頭に叩き込んだ。
大門から中央階段まで、およそ百歩。階段は右に折れて二層。二層の突き当たりに大扉。左手に回廊。回廊の窓は南向き、六つ。柱は太いが間隔は広い。隠れる場所は少ない。
「何を見ている」
「いや、でかいなと思って。掃除大変だろ、これ」
「魔族は掃除をせん」
「してくれ」
リリスがふっと笑った。俺も笑った。
笑いながら、俺は柱の数を数えていた。
◆
玉座の間の扉が開いた瞬間、俺は膝が笑うのを感じた。
巨大な影が、そこにあった。
人の形はしている。している、というだけだ。座っているのに、天井近くまで頭がある。角は二本ではなく、六本。皮膚は黒曜石のようで、両目だけが濁った黄色に光っていた。
魔王グラウディア。
空気が重い。ただそこにいるだけで、肺が縮む。
「これか」
声は、床から響いてくるようだった。
「これが、娘の飼い犬か」
リリスが一歩前に出た。
「父上。彼は客です」
「客」
グラウディアは笑った。笑ったのだと思う。喉の奥で岩がぶつかるような音がした。
「五千年生きて、初めて聞く言葉だな。娘が人間を客と呼ぶ」
黄色い目が、俺を見下ろした。
「勇者。名は」
「……カイルです」
「カイル。お前は今、何を考えている」
心臓が跳ねた。
俺は顔を上げた。
「怖いです」
沈黙。
それから、また岩がぶつかる音がした。
「正直だな」
「嘘をついたら殺されると思ったので」
「賢い」
グラウディアは玉座に背を預けた。
「よかろう。娘の客だ。今日は殺さん」
――今日は。
「だが勇者、覚えておけ。三十日後、私は人間の土地に降りる」
背筋が凍った。
「三十日後、私はここを出る。北の三国から順に沈める。海を上げてな。人間は溺れる。それだけの話だ」
あまりに軽い口調で、あまりに巨大なことを言った。
俺は思わずリリスを見た。
リリスは、静かに頷いた。
「私も出る。父上の左に立つ」
その声には、迷いがなかった。
当たり前だ。こいつは魔王の娘だ。
この一ヶ月、俺が見てきたものが何であれ、こいつは、俺の国を沈める側に立つ。
――そうだ。
――そうでなくては、困る。
俺は自分の内側が、静かに固まっていくのを感じた。
◆
「勇者。せっかくだ、見ていくがいい」
グラウディアが右手を上げた。
玉座の背後の床に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。差し渡しは、俺が十人並んでも足りない。びっしりと文字が刻まれ、青白く脈打っている。
「三十日、これを編む。編み終えたとき、海が動く」
俺は魔法陣を見つめた。見つめながら――気づいた。
グラウディアが手を上げた瞬間、その腕の輪郭が、揺らいだ。
水に映った像のように、ぼやけた。
俺は目を凝らした。
――膜が、薄くなっている。
大魔術に魔力を注ぎ込んでいる間、自分を守る被膜が痩せる。当たり前の理屈だ。人間の魔術師だって、大魔法の詠唱中は無防備になる。
三十日後。魔法陣を起動する、その瞬間。
あの化け物に、刃が通る。
俺は魔法陣から目を離し、震える声で言った。
「……すごいですね」
「そうだろう」
魔王は満足そうに頷いた。
◆
帰り道、リリスは黙っていた。
城の門を出て、しばらく歩いてから、彼女がぽつりと言った。
「怖かっただろう」
「そりゃな」
「……すまなかった」
俺は驚いて彼女を見た。
「お前が謝るのかよ」
「私が呼んだ」リリスは前を向いたまま言った。「お前を危険な場所に連れて行った。人間の作法では、これは謝ることだろう」
俺は何も言えなかった。
しばらく歩いてから、リリスが立ち止まった。
「カイル」
「ん」
「三十日後、私はお前の国に行く」
「……ああ」
「その時、お前とは敵だ」
月が出ていた。銀の髪が、あの日と同じように光っていた。
「だから」
リリスは、俺を見た。
五千年生きた魔族の目が、ひどく若く見えた。
「それまでは、まだ、酒を飲んでもいいか」
俺は笑った。
「当たり前だろ」
◆
その夜、俺は宿に戻って、手帳に書いた。
――三十日後、魔王城。魔法陣起動の瞬間に膜が薄くなる。そこを狙う。
それから、少し間を置いて、もう一行。
――リリスは、必ずグラウディアの左に立つ。
俺の刃は、リリスには通らない。
だから、魔王を斬る前に、リリスを排除しなければならない。
被膜が消える、一生に一度の瞬間。
それが何なのか、俺は知らない。リリスも知らない。
だが、二十九日で見つけなければ、俺の国が沈む。
俺はペンを置いて、両手で顔を覆った。
長い間、そうしていた。
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