第四話 通らない刃
それから一ヶ月、俺はリリスと十七回会った。
数えている。全部、手帳に書いてある。
最初のうちは酒場だけだった。三回目からは、飯を食った後に市場を歩くようになった。七回目には、彼女の方から「次はいつだ」と聞いてきた。十回目に、リリスは鎧を着てこなくなった。
布の服を着たリリスは、角さえ隠せば、ただの背の高い銀髪の女だった。街の連中は誰も、こいつが三人の冒険者を殺した魔王の娘だとは思わない。
「これは何だ」
串焼きの屋台の前で、リリスが立ち止まった。
「串焼きだ。羊肉。食うか?」
「食う」
即答だった。この一ヶ月で分かったことがある。こいつは、食い物の話になると考える時間がゼロになる。
二本買って、一本を渡した。リリスは肉を一口かじって、目を細めた。
「……悪くない。だが唐揚げには及ばん」
「お前、なんでも唐揚げと比べるのやめろよ」
「基準が必要だろう」
真顔で言うので、俺は笑った。
――笑った。演技ではなく。
それに気づいた瞬間、口の中の肉が急に味を失った。
◆
十四回目は、雨だった。
軒下で雨宿りをしていると、リリスが空を見上げて言った。
「人間は、なぜ濡れるのを嫌がる」
「濡れると冷えるだろ。冷えると風邪をひく」
「魔族は病まん」
「知ってるよ」
俺は上着を脱いで、リリスの肩にかけた。
リリスは動かなかった。かけられた上着を、まるで見たことのない生き物のように見ている。
「……何だこれは」
「上着だ」
「私は濡れても平気だと言ったはずだが」
「知ってる」
「では、なぜ」
俺は答えに詰まった。
理由なんてなかった。ただ、隣に立っている奴が雨に濡れていたから、手が勝手に動いた。それだけだ。
「……なんとなくだ」
「なんとなく」
リリスは繰り返した。
それから、上着の襟を、両手で握った。
ぎゅっと、強く握った。
「なあ、カイル」
「ん」
「人間は、みな、こういうことをするのか」
「まあ、相手によるけどな」
「私は、五千年、雨に濡れてきた」
リリスは前を向いたまま言った。
「一度も、誰にも、何も言われなかった。魔族は濡れても平気だからな。当たり前のことだ」
雨音が、軒を叩いていた。
「当たり前のことだ」
もう一度、彼女は言った。
それから、しばらく黙って、小さく付け足した。
「……だが、悪くない」
俺は、その横顔を見ていた。
見ながら、頭の隅で、冷たい声がした。
――順調だ。
俺はその声を、雨音の中に押し込んだ。
◆
その日の帰り道、俺は聞いた。ずっと聞きたかったことだ。
「なあ、リリス。俺の剣、なんでお前に通らないんだ?」
リリスは串を咥えたまま、こちらを見た。
「今さらか」
「今さらだよ。七回やって七回だぞ。腕の問題なら、まだ諦めがつくんだけどな」
彼女はしばらく黙っていた。それから、意外なほどあっさりと言った。
「お前の腕の問題ではない」
「え?」
「魔族の体は、生まれた瞬間から魔力の被膜に覆われている。皮膚の上に、もう一枚、目に見えない皮がある。刃はそこで滑る。それだけの話だ」
リリスは自分の左腕を撫でた。俺の剣が滑った場所だ。
「安心しろ。お前の一撃は、確かに私に届いていた。届いた上で、通らなかっただけだ」
「……それ、全然安心できないんだが」
「そうか」
リリスは少し笑った。
俺は喉の奥が渇くのを感じながら、できるだけ軽い調子で聞いた。
「じゃあ、その膜ってのは、外れることはないのか? 風呂に入るときとか」
「馬鹿な質問をするな」
「いや、素朴な疑問だよ」
「外れん」リリスは言った。「寝ていても、意識を失っていても、死んでいても外れん。魔族の死体を人間が斬れんのは、そのためだ」
――終わりだ。
俺は思った。一ヶ月かけた作戦は、たった今、根本から崩れた。
寝首をかくことすら、できない。
「……もっとも」
リリスが、串を口から離した。
「一度だけ、外れることがあるとは聞いている」
俺は足を止めそうになるのを、必死でこらえた。
「へえ。どんな時だ?」
「知らん」
「知らんのかよ」
「父上が昔言っていた。『魔族の膜が消えるのは、一生に一度あるかないかだ』と。だが、どういう時に消えるのかは教えてくれなかった。──おそらく、私には縁のない話だからだろう」
リリスは肩をすくめて、また歩き出した。
「五千年生きて、一度も消えたことがない。この先も消えん。だから安心して私に斬りかかっていいぞ、勇者」
「……そりゃどうも」
俺は笑った。
顔が、うまく動いた。
◆
その夜、俺は街の共同墓地に行った。
三つの墓標が並んでいる。ドルグ。ラウル。ミラ。
中身は空だ。魔王城の門前から遺体を運び出すなんて、誰にもできない。名前だけを彫った石を、俺が一人で立てた。
俺は膝をついて、しばらく黙っていた。
「悪い」
やっと出た言葉が、それだった。
「まだ、殺せてない」
風が墓地を通り抜けていく。
「あと少しなんだ。あと少しで、あいつは俺に何もかも見せる。城の中も、魔王のことも、全部。そうしたら――」
言葉が続かなかった。
俺は自分の手を見た。この一ヶ月、この手であいつに串焼きを渡し、ジョッキを持たせ、雨の日には上着をかけてやった。
この手で、あいつを殺す。
殺せるのか。
――殺せる。
俺はドルグの墓標に額をつけた。石が冷たかった。
「お前ら、笑うなよ」
俺は言った。
「俺は今、あの女に、本気で会いたいと思ってる」
誰も、何も答えなかった。
それが救いだった。
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