八話
十二月の声を聞く、少し前。その日は来た。
模試の結果が、返ってきた。特進クラスの廊下に、月に一度の順路ができる。放課後、私は列の流れに乗って、貼り出された一覧の前を通り過ぎた。立ち止まってはいけない。立ち止まって見るほどのことではない、という顔で通り過ぎるのが、この順路の正しい歩き方だから。
私の名前はいつもの場所より二つ下にあった。そう。二つ。たった、二つ。世界は何も変わらない。廊下の窓から見える景色も上履きの色も何一つ。
「凪咲さんでも下がることあるんだ。……なんか、ちょっと安心しちゃった」
隣を歩いていた友人が屈託なく笑った。悪意なんて、何もない声だった。私は「油断しちゃった」と笑って返した。正しい角度の口角で。正しい高さの声で。頬の内側が、少しだけ痛かった。
判定表は週明けには家に届く。恐らく、母のカレンダーの赤丸が一つ増える。夕食の会話が一往復ぶんだけ静かになる。それだけのことだ。それだけのことなのに……。
十七時四十五分。私はいつも通りにベンチに座り、いつも通りにスケッチブックを膝に置いた。いつも通りに、できているつもりだった。
『(創太) どうかした?』
……どうしてわかるの。
マフラーに顔を半分埋めて、いつも通りの姿勢で、いつも通りの位置に座っていたのに。十メートルも離れているのに。私はペンを取った。手袋を外して、いつものように書こうとした。
そして、手が、止まった。
『じゅんいが』
そこまで書いて、その先の文字が、出てこなかった。ペン先は紙に触れたまま、一ミリも動かない。インクが出ないわけじゃない。手が冷えたわけでもない。ただ、続きの文字だけが、頭のどこにもいない。
……喉と、同じだ。
とうとうペンまで、詰まるようになったのかもしれない。声の出口を塞いでいた石が、いつの間にか指先にまで転がり落ちてきている。私の身体はどこまでも私に意地悪をしてくる。
私はそのページを、破らずにめくった。新しい白紙に『なんでもない』と書いて、掲げた。
彼はしばらく、こちらを見ていた。十メートル先の静かな視線が、『なんでもない』の文字を透かして見ているのがわかった。それから彼はゆっくり何かを書いて、掲げた。
『(創太) クイズ。世界でいちばん』
『(創太) あったかい飲み物は?』
……ずるいよ。
踏み込まないで、置いていく。答えは明日でいい、明日もここに来ればいい、という形の質問にして寄越す。そういうところが、この人は、本当にずるい。
十七時五十五分。私はいつものように、先に行く彼の列車を見送った。窓の向こうで、口の形だけの『また明日』が動くのもいつも通りだった。帰りの下り列車の中で、私は破らなかったページをそっと開いた。
『じゅんいが』
中途半端なひらがな五文字。続きは、まだ書けない。でも、破らなかった。丸めもしなかった。いつか、この続きを書ける日が来る気がしたから。
書けたその日にこの五文字ごと、読んでほしい気がしたから。
クイズの答えは、一晩考えて『ココア』にした。
本当の答えは、別にあったけれど。十メートルの向こうから届く、六文字とか、七文字とか。湯気も出ないくせに、どんな飲み物より身体の奥まであったかく広がる、あれ。
……なんて、書けるわけが、ないけれど。
****
翌日の一往復目は、宿題の答え合わせから始まった。
『(凪咲) ココア』
『(創太) 正解』
『(凪咲) 本当に?』
『(創太) あったかければ、全部正解』
彼女は呆れた顔で肩を落として、笑った。昨日よりは少しだけちゃんと笑った。
昨日の『なんでもない』は、どこからどう見ても、嘘の形をしていた。文字には表情がある。三か月近くも筆談をしていると、そういうことがわかるようになる。
あの四文字はいつもの彼女の字より少しだけ縦に潰れていて、最後の「い」の払いが、かすかに震えていた。
あれは『なんでもない』と書いた字じゃない。『なんでもない、ということにさせて』と書いた字だ。
でも、僕は訊かなかった。『訊かないのがルールだから』というのは、半分本当、半分嘘だ。
彼女がここで『なんでもない』と書けるなら、それでいい。嘘をつける場所は、本音を言える場所と同じくらい、人には必要なんだ。
でも、条件が一つある。その嘘を、嘘だとわかった上で、黙って受け取ってくれる誰かが、向かい側にいること。
例えば、学校の友人は僕の笑顔を本物だと思って受け取る。そして、彼女の周りの人は多分、彼女の「なんでもない」を本物だと思って受け取るのだろう。
それは本当に意味で受け取ったことになっていない。だから僕は、質問の代わりに、持ち越しのクイズを一杯差し出した。それが僕にできる、精一杯の給仕だから。
****
十二月を目前にして、一冊目のクロッキー帳が終わった。ポップ制作用に買ったはずの一冊は最後の三分の二が、全部、あの十分間で埋まっていた。解読不能のラッパも、黒い塗りつぶしの四角も、数えきれない『また明日』も。
新しい一冊を買いに行った駅前の文具店で、店番のおばあさんが「あら、もう使い切ったの。頑張るわねえ」と笑った。
使い終えた一冊は、捨てられなかった。家の本棚の、『夜のピクニック』が抜けたまま空いていた場所に、代わりに差した。表紙の角がすり減った紙の束が、どんな日記よりも雄弁に、この三か月を語っている気がした。
その週の帰り際、駅の掲示板に新しい紙が貼られているのに気づいた。
『年末年始の運行のお知らせ』
時刻表というものは、季節ごとに少しずつ形を変えていくものだ。
「ふうん」と思って、僕は改札を出た。三歩あるいて、もう忘れていた。
時刻表が形を変えるということが、僕たちにとって何を意味しうるのか。この時の僕は、考えてみることさえしなかった。
週末には、初雪の予報が出ていた。十二月が来る。水銀灯の光は変わらず青白くて、僕たちの息は、もっと白くなる。
彼女はたぶんもっと厚い手袋をして、文字はもっと丸くなって、僕はその丸みで向こうのホームの気温を測る。
鞄の中には、二冊目のまっさらなクロッキー帳。十メートル。僕たちの距離は、あの夜から一センチだって縮んでいない。線路だって、そのまま。声はまだ一度も届いていない。互いの名前は見返しの中で眠ったまま。
それなのに、紙の上でなら、僕たちはもうずいぶん近くにいるような気がする。一枚書くたびに少しずつ埋まっていく、この紙面上の距離の名前を僕はまだ知らないでいた。




