九話
十二月に入って最初の月曜日。
僕は駅に着いて、空を見上げて、それから理解した。夕方が、消えたのだ。十一月までは、ホームに着いた時点でまだ西の空に夕焼けの燃えかすが残っていた。茜色の最後の一滴みたいなやつが、丘の稜線のあたりにしがみついていた。
それが今日はない。十七時四十五分の三崎賀原駅は、頭の上から線路の果てまで、完全な夜だった。空気の匂いも、変わった。
うまく言えないけれど、十二月の夕方には金属を舐めたみたいな、つんとした匂いがする。線路の鉄と、乾いた空気と、遠くの海風が混ざった匂い。
息を吸い込むと、鼻の奥が小さく痛む。水銀灯の光の輪の中を、綿埃みたいな白い虫がふわふわと横切っていく。雪虫、というやつだと思う。あれが飛ぶと、雪が近いみたいだ。
残されたのは、古い水銀灯が二本。ジジジ、と虫の羽音みたいな音を立てて、青白い光の輪を一つずつ、上りホームと下りホームに落としている。
その輪の中に、僕と彼女は一人ずつ座っている。十メートル離れた、二つの小さな舞台照明。他に観客はいない。
寒さは、筆談の形まで変えた。まず、手袋の分だけ書くのが遅くなる。
次に、暗さの分だけ文字を大きく書かなければならなくなる。文字が大きくなると、一枚の紙に載る言葉が減る。載る言葉が減ると、不思議なことに会話は薄くなるどころか濃くなった。
『(創太) さむい』
『(凪咲) さむいね』
例えば、この二枚。十一月なら、もう少し気の利いたことを書いていたと思う。
今夜の冷え込みの数字とか、マフラーの巻き方とか。でも十二月の指先は、そんな長文を許してくれない。
削って、削って、最後に残ったのがこの三文字と四文字でそれで、ちゃんと足りているのだった。さむい。さむいね。世界で一番短い、でも確かに成立している会話。
言葉というのは、たぶん、量じゃない。教室で僕が一日に話している何百語より、この七文字の方がよほど「話した」という手応えがある。
凍えた指先が言葉から余計な飾りを全部むしり取って、芯だけを残していく。十二月の駅は、そういう意味では言葉の精錬所みたいだった。
その夜、珍しいことが起きた。
この空白の十分間に、僕たち以外の人間が現れたのだ。一番線の端、跨線橋の下のあたりで、がさ、と重たい袋の音がした。振り向くと、深緑の作業着を着た初老の駅員さんが、白い粒の入った袋を抱えて階段の下に立っていた。
この駅は一応、有人駅ということになっている。日中は改札脇の小さな詰所に人がいるらしいが、僕はほとんど見かけたことがなかった。
駅員さんは袋の口を開けて、跨線橋の階段に白い粒をざらざらと撒き始めた。融雪剤、というやつだと思う。一段、また一段。ずいぶん丁寧な撒き方だった。それから僕の視線に気づいて、駅員さんはにっと笑った。
「兄ちゃん、毎日いるねえ」
……見られていたのか。毎日。
「あ……はい。電車、待ってて」
「そりゃそうだ。駅だからな」
駅員さんはからからと笑って、また一段、白い粒を撒いた。
「今週、雪が来るからよ。ここの跨線橋は古いから、凍ると氷の滑り台になる。何年か前に、酔っ払いが階段で三段飛ばしの尻もちついてな。まあ、あんたら若いのは大丈夫だろうが、急いで渡るときだけは、気をつけな」
『急いで渡るときだけは』
その言い方が妙に具体的で、僕は「はい」と頷いた。駅員さんは満足そうに袋を担ぎ直し、二番線側の階段へ回っていった。
向かいのベンチの彼女が、通り過ぎる駅員さんに小さく会釈をするのが見えた。駅員さんも会釈を返して、彼女の側の階段にも、同じだけ丁寧に白い粒を撒いた。
僕たちの他にも、この駅を大事にしている人がいる。当たり前のことに、なぜか少しだけ驚いていた。僕たちの秘密の空白は、誰かが融雪剤を撒いて、電球を替えて、時刻表を貼り替えて、そうやって維持されている場所の上に成り立っている。
無人の楽園だと思っていた場所に、ちゃんと管理人がいた。駅員さんの足音が詰所の方へ消えてから、彼女が書いた。
『(凪咲) 何かあった?』
『(創太) 僕達、常連らしい』
『(凪咲) たしかに』
『(創太) 皆勤賞だし』
『(凪咲) 表彰状は誰がくれる?』
『(創太) 駅長かな』
彼女が水銀灯の下で、白い息と一緒に笑いをこぼすのが見えた。その週の持ち越しクイズは、季節にちなんだものだった。十七時五十五分の走行音に背中を押されながら、彼女が掲げたお題はこうだ。
『(凪咲) 雪が最初に積もるのは、どっちのホーム?』
一晩考えた。純粋な運の問題に見えて、多分違う。翌日、僕は答えを掲げた。
『(創太) そっち。スキマが多い』
『(凪咲) 正解。よく気づいたね』
『(創太) 常連なので』
『(凪咲) 常連なので』
同じ五文字を、線路を挟んで掲げ合う。傍から見たら、たぶん相当に間抜けな光景だと思う。でも幸い、この時間のこの駅に傍から見る人はいない。融雪剤を撒きにくる、あの駅員さんくらいしか。
そして数日後、僕たちは実際に見られた。その日、僕が『覆面パトカーの雪辱戦は?』と掲げた、まさにその瞬間だった。
跨線橋の階段の途中に、袋を抱えた駅員さんが立っていた。撒く手を止めて、僕のクロッキー帳と、向かいでスケッチブックを構える彼女とを、ゆっくり見比べている。固まった。
僕も、たぶん彼女も。説明のしようがない光景だという自覚は、二人ともあった。
駅員さんは、何も訊かなかった。にっと笑って、一段ぶんの白い粒を撒き足して、それから言った。
「冷えるからな、あまり無理するなよ、常連さんたち」
それだけ言って、詰所の方へ戻っていった。二番線で彼女がおそるおそる書いた。
『(凪咲) 大丈夫だった』
『(創太) 常連特権だね』
『(凪咲) うん』
『(創太) 良い大人だ』
見て見ぬふりをしてくれる大人が、この世界に少なくとも一人いる。それを知った夜、駅の水銀灯は、心なしかいつもより暖色に見えた。




