十話
その事件は、水曜日に起きた。
始まりはいつも通りだった。昼食を囲む四人。健人のくだらない話。廊下の通り過ぎていくような笑い声。僕がツッコミを打ち、笑う。何も変わらない日常。
「聞け、創太。購買のコロッケパンが復活してた」
健人が袋を掲げた。
「知ってるよ。今日、その話は四回目だ」
「これは四回言う価値があるんだよ。いいか。コロッケパンはな、揚物とパンの共存問題に対する、人類の最終回答なんだ」
「先週はメンチカツパンが最終回答だって、言ってなかったか」
「説というのは、随時更新されていくものなんだ。そうやって、人類は進化の歩みを進めてきたと言っても、過言じゃない」
「いや、過言すぎるだろ」
「まあ、なにはともあれ、放課後にも買いに行くわ。これ、ほとんど、一日一個しか手にはいたねえけど」
「大層な執念だな」
「ああ、この文化遺産は守らないとな」
最後の健人の一言に、僕は口角を持ち上げて笑う。それにつられて。周囲も笑う。何も変わらない。この教室という水槽の中は、今日も一定の体温に保たれていた。
話題が移ったのは、その後、すぐだった。
「そういやさあ」
向かいの席の田中が、思い出したように口に出した。
「昨日の野外実習の班決め、なんかピりついてなかったか」
「ああ、あれな」
健人がパンを加えたまんま頷いた。
昨日、来月行う野外実習の班決めがあった。じゃんけんで負けた班の内の一つ、僕たちの班が明らかに面倒な担当を押し付けられそうになり、その場の空気が、「それで決まりだね」と傾きかけた。
その時に、吉井さんという女子が手を挙げた。
「それだと、あの班だけ作業量が倍になってしまうと思うんですけど」
その瞬間、教室の空気がぴたりと、止まった。
誰も反論はしなかった。反論をする余地がなかったからだ。皆がうっすらと思っていた面倒を押し付けることの罪悪感や「本当にこれでいいのかな」という曖昧な空気感をその言葉が切り裂いた。
吉井さんの言ったことは正しかった。単純に正しかった、ただそれだけだった。
結局、その日は担当そのものが組みなおされて、全員が平等に少しずつ面倒を引き受けることになったのだった。
「吉井って真面目だよなあ」
向かいの対角線上に座る板垣がそう言った。誉め言葉とそうじゃないものの、ちょうど中間くらいの温度の声で。
「まあ、言っていることは正しいけどな」
健人はあっさりとそう言った。
「実際、吉井が口出さなかったら、俺らの班が損してたしな。こういうのは、運だし、面倒でもそれでいいかと、思っていたけど、正直、助かったよな。面倒なのは、やっぱ勘弁だ」
……言うんだなと、僕は思った。
健人はいつもそうだった。思ったことを思うがまま、声に出す。その声はデカいし、たまにデリカシーがなくて、人を怒らせる。
でも、健人の周りはそれで壊れない。それも含めて、前嶋健人であるのだという雰囲気を醸成している。
実際、健人がそう言った瞬間、机の周りの雰囲気は、軽くなった。
その中で、僕は笑っていた。同意でも否定でもない、ただそこの空間に馴染ませるための表面上の笑顔で。
……実際は僕もそう思っている。昨日の教室での吉井の言い分は正しいものだった。ただ、正しいと思っていても、それを口に出すことはできなかった。
でも、健人が言ってくれたから、もう僕は何も言わなくてもいい。これも、いつも通りのことだ。
この出来事はそれで終わりのはずだった。
****
休み時間の終わり際、僕は一人で廊下の水道にいた。
冬の水道の水は、指の芯まで響くように冷たい。両手で水をすくって、それを口に含んで、ゆすぐ。
ここは、教室と教室の間にある待避所みたいなものだった。誰の会話にも参加しなくてよくて、息継ぎができる場所。そんな場所で、二分間の避難をしていた。
そこへ思わぬ客がやってきた。同じクラスの西野さんだった。西野さんはクラスの女子の中心グループにいるような子で、僕とは席が若干近い以外に接点はなかった。
「ねえ、真木くん、聞いてよ。吉井さんってさ、ちょっと空気読めなくない? この前の班決めの時だってさ、もうあれで決まりかけてたじゃん?」
始まったのはよくある悪口。……いや、正確には愚痴のようなものだった。
班決めで吉井さんが空気を読まなかった。輪を乱した。ああいうのは困るというものだった。
「いや、正しいのはわかるよ? でもさあ、あそこでわざわざ、言う必要あったのかな。あれのせいで、帰るの遅くなったじゃん? みんな、早く帰りたかったのにさ」
「あ~」
「しかもさ、言い方もさあ、もっとやんわりした言い方とかあるよね。あんなにきつくいわれたらさ、みんな、嫌な気持ちになっちゃうよね」
そんな西野さんに対して、僕はいつものやつをやった。賛同も否定もしない。曖昧な回答。適当に相手の声色に合わせた相槌を打って、愚痴という言葉のボールを打ち返しも、受け取りもしない。ただ、ボールが過ぎ去っていくのを待つ。そういうやり方。
自分でもうまいものだと思う。相手の話の速度に合わせて、頷く間隔を調整する。声を出しすぎない。目を合わせすぎない。適度な距離を保ちながら、僕自身は同意も否定もしないまま、話す相手が勝手に都合の良く、僕自身の印象を決めるように仕向ける。何年もやり続けて会得した僕の唯一の特技。
それをしながら、頭の片隅では別の事を考えていた。
……きっと、吉井さんのあれは、言い方の問題じゃなかった。あそこでやんわりと言っていたら、多分、あの意見は流されていた。人は声の大きさや言葉の鋭さで、事の重大さを認識するものだ。
やんわりと言った言葉は、きっと無視される。だからこそ、吉井さんはあの場面で目立つようにあの言い方を選択したのだと思う。
僕はそう思った。思っただけで、その言葉は口には出てこなかった。
「ま、悪い子じゃないんだけどね」
西野さんは勝手に自己完結して、そう締めくくり、笑って、教室に戻っていった。
悪意のある言葉ではない。恐らく、彼女は誰にでもああいう話を振るし、次に話す時には忘れている。あれは、世間話の一種に過ぎない。ただ言いたいことを言って、満足して、終わる。ただそれだけのことだった。
****
しかし、放課後に事件は形を変えて返ってきた。
図書室に向かう渡り廊下で、吉井さんとすれ違った。目が合った瞬間、彼女は目を逸らした。氷みたいな目だった。
そのまますれ違いざまに、呟いた言葉が聞こえた。わざと聞こえるように、言ったのだと思う。
「真木くんも、笑ってたんでしょ」
……足が、止まった。
僕は振り返らなかった。振り返れなかったが正しい。背中で上履きの音が遠ざかっていくのをただ聞いていた。
そして、身体が遅れて反応した。心臓が一拍遅れて、大きく脈を打った。手のひらは冬なの湿っていた。
「笑ってた」そうかと、僕は思った。
僕のあの会話は伝言ゲームのように一往復する間に、「真木くんも同意して笑っていた」に変換されたのか。
西野さんはきっと、あの後にどこかの誰かにも同じように話したのだろう。
そこに「真木くんもさ」と添えて。多分、悪意ではない。相槌を打った人間の名前を話を補強する添え木のようにしただけだ。それが、二人目、三人目と渡っていくたびに変換されていったのだろう。
曖昧な回答は、相手には伝わらない。いや、その相手の都合の良い部分だけが切り取られていくものだった。
それが、意見を持たないということの最大の弊害だった。愚痴を打ち返さなかった僕は、それを肯定した人間として、吉井さんの耳に届いてしまった。
それに僕はもう一つ、認めなければならないことがあった。僕はあの時、心の中では、吉井さんが正しいと思っていたのだ。思っていて、黙っていた。
僕は中立の立場ですらなかった。どちらの味方もしなかったわけではなくて、味方だと思っていたのに、名乗り出なかった、ただの臆病者だった。
……知っている。この感触を、僕はよく知っている。
****
中学二年の秋だった。
僕には、親友が二人いた。母さんがいなくなった後の僕を、何も訊かずに遊びに誘い続けてくれた二人だった。放課後の公園も、ゲームの貸し借りも、くだらない言い争いも、ぜんぶ三人セットだった。
その二人がある日、決裂した。
原因は今思えば本当に小さなことだった。連絡の行き違いと、今まで積もっていた細かい不満。本音と本音が正面衝突して、二人は互いに「あいつが謝るまで口をきかない」と宣言した。
そして、二人とも、僕のところに来た。
「創太はどっちが悪いと思う?」
僕は、答えられなかった。
どちらの言い分にも、正しいところがあった。どちらにも、悪いところがあった。何より僕は、知っていた。
本音というのは核兵器で、一度撃ち合いが始まった場所には、もう誰も住めなくなることを。僕の家がそうだったから。
だから僕は、どちらの味方もしなかった。どちらの前でも曖昧に笑って、「まあまあ」と言って、雨がやむのを待つみたいに、嵐が過ぎるのを待った。
でも嵐は、過ぎなかった。
先に痺れを切らしたのはどちらだったか、もう覚えていない。ただ、最後に二人から言われた言葉だけは一字一句、覚えている。二人は別々の日に、別々の場所で、まったく同じことを僕に言った。
「お前って、どっちつかずの偽善者だよな」
そうして、僕は二人の親友を同時に失った。
どちらかの味方をしていれば、片方は残ったのかもしれない。本音でぶつかっていれば、三人とも残れたのかもしれない。わからない。わかっているのは、『誰も傷つけない』を選んだ結果がそれだった。
でも、僕は自分のやり方を変えなかった。もっと、上手く笑えるように、もっと上手く馴染めるように、より、自分の仮面を分厚くした。結局、僕はその方法以外知らなかったから。
そうして、誰の記憶にも残らない、無色透明の相槌を打つことにした。それなのに。
「真木くんも、笑ってたんでしょ」
その一言で気づいたのだった。三年経っても、僕はまだ、同じ場所で同じ転び方をしていたのだと。




