十一話
帰りのホームルームが終わったあと、鞄に教科書を詰めていたら、目の前にコロッケパンが一個、ぽんと置かれた。顔を上げると、健人がいた。
「やるよ。購買の最後の一個」
「……なんで」
「いや、なんとなく」
健人は僕の前の席の椅子を引いて、後ろ向きにまたがるように座った。背もたれに腕を組み、顎を乗せる。この座り方をした時の健人は大体、話が長い。
「お前さ、六時間目の授業の時、ずっと、窓の外見てただろ」
「……見てない」
「見てたって。外を眺めているようで、意識は内側にあるっていうかさ。どこか上の空だったよな」
心臓が変な跳ね方をした。健人はたまにこういうことを言う。理屈は雑で、根拠はない。でも、そのくせ、正確な場所を引き当ててくる。
「なんだよ、それ」
「そういうの、具体的に言葉にするの苦手なんだよ」
健人は頭をかいた。
「なんか、あったんだろ。まあ、西野あたりか?」
「……なんで、そう思う」
「休み時間の時、水道のとこで喋ってただろ。近く通ったんだよ。……まあ、なんだ。西野の話なら真に受けんな。あいつは言ったことを大抵三日で忘れる。吉井だって、似たようなもんだ。あいつらは、ああいう奴らなんだ。お前は何も悪くねえよ」
「お前は何も悪くねえよ」、その言葉が思っていたよりも、胸の深い所に落ちた。落ちていって、少しだけ、痛かった。
……悪くないわけではないんだ。そう言いかけた、喉の手前まで全部来ていた。本当は吉井さんの味方なんだということ、それなのに、言葉を出せなかったこと。そして、三年前も同じようなことをして、親友を失ったこと。
でも、出なかった。想像してしまったのだ。
この話をした瞬間の健人の顔を。「お前はそんな風に考えて生きてんの?」という呆れた顔、あるいは、もっと良くない方。真剣に心配してくれる顔を。
もし、後者だったら、明日からこの水槽の温度は変わってしまう。健人は僕の事を「そういう奴」として、扱い始める。くだらない話をしていいのか、一瞬、迷うようになる。
水温は一定じゃないといけない。そうじゃないと、もうそこには住めなくなってしまう。それを保つことだけを僕は三年間やってきた。だから、今更、それは変えられない。
「……いや、ちょっと寝不足なだけだ」
「なんだ、そりゃ。ま、夜更かしはすんなよ。成長止まるぞ」
「もう手遅れだ」
「言うな。俺はまだ諦めちゃいないぜ?」
健人は笑った。豪快にいつも通りに。僕も笑った。いつもの量産系の笑顔を浮かべた。
僕はコロッケパンに目線を落とした。
「……こんな貴重な文化遺産、本当にもらっていいのか?」
「特別だぞ。ま、これが、唐揚げなら渡さねえけどな」
今度は普通に笑えた。意識せずに、少しだけ。
健人は椅子を戻して、カバンを担いで、「じゃあな」と言って、去っていった。廊下でさっそく、誰かとふざけている声が聞こえている。
僕はコロッケパンをしばらく、見つめながら、考えていた。健人は、朝からずっとこのパンの話をしていた。放課後にもう一個を買うと宣言していた。それを置いていった。
健人は良い奴だ。きっと、僕が思っているより、ずっと。その健人に、僕は「寝不足」だと嘘を言った。
カバンを持って教室を出る頃には、渡り廊下で見た氷みたいな目に刺された痛みが、胸の内側に戻ってきていた。
****
その日の十七時四十五分。
僕は多分、ひどい顔でベンチに座っていたのだと思う。クロッキー帳を出す気力もなくて、ただ膝の上で鞄を抱えて、線路の石を見ていた。
視線を感じて、顔を上げた。向かいのホームで、彼女がスケッチブックを掲げていた。
『(凪咲) 変だよ』
……お互い様というか、順番というか。この前は彼女が『なんでもない』と書く側だったけど、今日の僕はそれを書けない状況だった。
『(創太) わかる?』
『(凪咲) わかる』
『(創太) なんで?』
『(凪咲) 座り方』
彼女は座り方で言い当ててきた。十メートルの距離は、隠し事には向いていないらしい。
僕はマーカーのキャップを外した。
何を書くかは、決めていなかった。ただ、『なんでもない』と書く気には、なぜかなれなかった。彼女はあの日、僕に嘘をつくことを許された。
だったら今日の僕には、もう一つの選択肢があってもいい気がした。
数時間前に、ほんの数十センチの距離にいた人間には言えなかった言葉。なのに、今、十メートル離れた、名前も呼んだことのない人になら、伝えられる気がした。
その理屈のねじれ方を僕は説明ができなかった。ただきっと、声ではないからだと思う。声にした言葉は、相手の耳に、防ぎようなく届いてしまう。
でも、紙に書いた言葉は、相手に選択の余地を残す。読むと決めなければ、届かない言葉だ。受け取るかどうかは、相手が選べるのだ。
でも、同時にこうも思っていた。きっと、「彼女は僕の言葉を受け取ってくれる」と。そんな傲慢で自分勝手で相手のことを置き去りにしたような考え。
きっと、先ほど考えた理屈も、間違っていて、本当は自分のしたいことのために、論理を組み立てているにすぎないのだと思う。
……でも、それでも。
『(創太) 昔、親友を無くした』
掲げた。心臓が嫌な音を立てた。
『(創太) 親友同士が喧嘩して』
『(創太) 何もできなかった』
『(創太) 僕は偽善者らしい』
『(創太) そう二人に言われた』
続けて掲げた。この十分間で、一方的にこんなに枚数を使ったのは初めてだった。彼女は一枚ごとに、小さく頷きながら読んでいた。急かさず、ペンも持たず、ただ読んでいた。
『(創太) 同じことをまたした』
書き終えて、掲げて、僕は目をそらした。自分の吐いた本音を、相手が読んでいるところを直視するのは、思っていたより、ずっと怖い。ポケットの中で、指先が冷たかった。
彼女は、すぐには書かなかった。たっぷり一分、この十分間の中の一分は、途方もなく長かった。ペンを持ったまま、スケッチブックの白紙を見つめていた。
以前、手が止まっていた時とは、違う止まり方だった。あれは詰まっている手じゃない。選んでいる手だ。いちばん正確な言葉を出すために時間をかけて選んでいる手。
やがて彼女は、今日いちばん丁寧な字で書いて、両手で、まっすぐに掲げた。
『(凪咲) 偽善者じゃない』
『(凪咲) 優しすぎた。それだけ』
……息が、止まった。偽善者じゃない。
三年前に二回、突き刺さったまま抜けなかった文字を事情も知らないはずの彼女が、十メートルの向こうから、そっと引き抜いた。
『(創太) なんでそう思う?』
やっとのことで、それだけ書いた。彼女の返事は早かった。もう選び終えていたのだと思う。
『(凪咲) 本の見返し』
……名前の事だ。
本の見返しに付け加えた自分の名前。彼女の名前を知ってしまった僕が一方的に知っている状態にしないためのお返し。
彼女はそれをしっかりと見ていた。見ていながらも、踏み込まずに、この距離感を保ってくれていた。そして、初めて、今日の僕の話と本の見返しをまっすぐに繋いでみせてくれた。
どっちの味方もしないことと、どっちも傷つけたくないことは、外から見れば同じ形をしている。三年前の二人には、前者に見えた。彼女には、後者に見えた。
それだけの違いだった。その違いだけで、世界の色がこんなにも、変わって見えたんだ。
目の奥が、熱くなった。
泣くわけにはいかなかった。ここで泣いたら、あの夜の彼女と、おあいこどころの騒ぎじゃない。
僕は俯いて、マフラーに顔を半分埋めて、白い息を長く、長く吐いた。震えた息は水銀灯の光の中で白くほどけて消えた。顔を上げると、彼女はまだ、同じ言葉を掲げたままだった。
……腕、疲れるだろうに。
『(創太) ありがとう』
それだけ書くのが精一杯だった。五文字が、こんなに重い日もある。
彼女はようやくスケッチブックを下ろして、それから、思い出したように付け足した。
『(凪咲) 明日、言ってみれば?』
『(創太) 何を?』
『(凪咲) 事実を』
事実。そうか。弁解でも、告発でも、意見でもなく、事実。僕はあの愚痴に笑ってはいない。曖昧に濁しはしたけれど、同意はしていない。
それを一言、本人に届ければいい。それは本音の撃ち合いじゃない。ただの、事実の訂正だ。
『(創太) こわい』
『(凪咲) うん、でも』
『(凪咲) 一枚分だけだよ』
一枚分。
僕たちの単位で言えば、たった一枚。この十分間で、僕たちが毎日、何度も掲げている量。
……それくらいなら、できるかもしれない。




