十二話
翌日の昼休み。僕は吉井さんの席へ行った。
教室の後ろの窓際。吉井さんは昼食を取り終えて、文庫本を開いていた。席へ近づいていく途中で、心臓の音が耳のあたりまで聞こえてくるのが分かった。喉も乾いていた。
声をかけるまでの数歩が跨線橋を越えるよりも、遠く感じた。
「吉井さん」
彼女が顔をあげた。昨日と同じ氷の目で、少しだけ身構えていた。そして、僕は人生で一番短い事実の訂正を行った。
「昨日の言葉。俺、笑ってないから。それだけ」
吉井さんは驚いた顔で僕を見た。少しの間があった。彼女は文庫本に指を挟んだまま、机を見つめて、息を吐いた。
「……うん。ごめん。決めつけちゃって」
核兵器は飛ばなかった。事実を伝えるだけで、良かった。踵を返せば、その会話はそこで終わりのはずだった。
でも、足は止まったままだった。
『一枚分だけだよ』
昨日の彼女の字が頭の中で、もう一度掲げられた。僕はもう一枚、めくることに決めた。
「あと、もう一つだけ。班決めの時の吉井さんは正しかった。そう思ってる」
「え?」
「思っていたのに言えなかった。あと、助かった。ありがとう」
言い終えて、自身の手のひらが汗ばんでいるのに気付いた。事実をただ伝えただけなのに、まるで全力で跨線橋の階段を駆け上がったかのように心臓が高鳴った。
吉井さんはしばらく黙っていた。それから、文庫本を両手で持ったまま、小さな声で言った。
「……別にいいよ。慣れてるし」
「慣れてる?」
「うん。言うと、大体、こうなるの。毎回」
彼女は笑いながらそう言った。でも、その目は笑っていなかった。その種類の笑顔の作り方を僕は知っていた。毎日、僕が作っているそれと同じだったからだ。
「言わない方が楽だって、分かってる。でも、あそこで誰も言わなかったら、損していたのは、あの班だけだし……。それに、私、言い方、下手だから、余計にね」
「言い方の問題じゃなかったと思う」
自分で言って、驚いた。これは事実の先にある言葉だったから。
「きっと、あの言い方だから届いた。そう思う」
吉井さんが目を丸くした。それから、今度は、ちゃんとした笑顔で笑った。目元まで届く笑い方だった。
「……真木くんって、そういう風に考えてるんだ」
「……たまに」
「もっと、そういう言葉を言えばいいと思うよ。私はそっちの方が好き」
「……検討します」
吉井さんは「なにそれ」と笑いながら、文庫本を開いて、目線を落とした。
それで、今度こそ、終わりだった。
****
放課後、廊下で西野さんに呼び止められた。
「ちょっと、真木くん」
西野さんの頬が少し膨らんでいた。
「なんか、私、悪者になってない? 吉井さんに謝ったんでしょ?」
「謝ってない。訂正しただけ」
「同じじゃん」
「違うよ」
自分でも意外なくらい、自然に声が出た。
「俺は笑ってなかった。だから、そう言っただけ。西野さんの話はしていない」
西野さんは口を開けて、一瞬、何かを言おうとして、そして、口を閉じた。それからばつが悪そうに、髪の毛をいじりながら言った。
「……んー。まあ、私もちょっと色々言い過ぎたかも。別に吉井さんの事が嫌いなわけじゃないんだよ」
「知ってる」
「知ってたんだ」
「西野さんが自分で言ってた。「悪い子じゃないんだけどね」って」
「言ったっけ?」
「言ってたよ」
彼女はきょとんとした顔をして、それからけらけらと笑った。
「なにそれ。よく覚えてるね。……ま、いいや。ごめんね。巻き込んじゃって」
西野さんは、そう言って、あっさりと手を振って、友達の輪の中へ戻っていった。
……ああ、そうか。彼女には、最初から悪意なんてなかった。彼女にとってのただの愚痴は、伝言を通して、悪意をもたないまま、人を傷つけた。彼女は誰にも、銃口は向けていない。ただ、弾だけが飛んでしまったのだ。
……誰も悪くない。それがいちばん厄介だと、人生で学んだのは、二回目だった。そして、その二回目は、何も壊れなかった。
****
その日の十七時四十五分。
僕は報告のために、すでにいちばん最初の一枚を用意していた。
『(創太) 言ったよ』
『(凪咲) 成功したんだ』
『(創太) なんでわかる? 』
『(凪咲) 座り方』
彼女には、もうバレバレなようだった。最近の彼女は、紙だけじゃなくて、座り方からさえも、僕の心を見通してしまうみたいだ。
『(創太) もう一枚分言った』
『(凪咲) ?』
『(創太) 自分の本音を』
その言葉を掲げた瞬間、彼女は目を丸くして、ペンを一瞬止めてから、いつもの倍くらいの速度で手を動かした。
『(凪咲) すごいことだよ!』
『(創太) 手汗もすごかった』
『(凪咲) それもすごいこと』
僕はマフラーの中で笑った。事実は本音よりもずっと安全で、そして、その延長線上に本音があるのだと初めて知った。僕はそんなことも知らずに、この十六年間を過ごしてきたのだ。
だけど、僕にはまだ掴めないことがある。健人には言えなくて、十メートル先に居る彼女には言えた。この意味を僕はまだ正確には理解できていない。
……ただ、いつかは。
いつかは来るのかもしれない。あいつがただコロッケパンを置いて行ってくれたみたいに、僕が何かを差し出せる日が。
その「いつか」を僕は初めて少しだけ、楽しみだと思えた。




