十三話
「え、待って。凪咲さんって、ほんとにラインしていないの?」
昼休みの教室で、友人の一人が素っ頓狂な声を上げた。机の上には四人分のお弁当と三人分のスマホ。私のスマホだけが鞄の中で眠っている。
「うん。アカウント作ってないの」
「どうやって生きてるの?」
「普通に呼吸で」
冗談で返すと、みんなが笑った。笑いながら、彼女たちの親指は画面の上を滑り続けていた。
グループの連絡網。既読の速さ。誰かの投稿に付いた、ハートの数。放課後にどの動画を見たか。彼女たちの世界は、手のひらの中でもう一つ、常時、展開されている。
「でも不便じゃない? 連絡取れないじゃん」
「学校で毎日会えるから、大丈夫だよ」
「そういうことじゃなくてさあ」と友人は笑った。
そういうことじゃないのは、私にもわかっている。彼女たちの『繋がってる』は、二十四時間、切れ目なく続いていることに意味がある。
「おやすみ」の後も、「おはよう」の前も、細い糸が張られ続けていること。それが彼女たちにとって、重要なんだと思う。
「でも凪咲さんって、なんか大人だよね。スマホに振り回されてないっていうか」
別の友人がしみじみと言って、私は「そんなことないよ」と微笑んだ。大人なんかじゃない。
そもそも、振り回されるための回線を持たせてもらえていないだけ。でも、それを言うための回線は、この教室にはない。
私のスマホは、母の手帳の出張所のようなものだ。ファミリー共有の設定。位置情報は常時オン。夜九時になると、画面は自動でロックされる。入っているアプリは辞書と、塾の連絡帳と、天気予報。ただそれだけ。
買ってもらった日に母は言った。
「凪咲は真面目だから、こんな設定、要らないかもしれないけど、念のためね」
そこに悪気はなくて、どちらかというと善意からくるものだった。夜九時になると、スマホの画面はふっと暗くなる。「おやすみなさい」の代わりみたいに。
最初の頃は、その瞬間が少しだけ息苦しかった。でも、今は、ほんの少しだけ、ほっとする。九時から朝までは、地図の上の点も眠る。監視が眠る時間は、私も「見られていない私」に戻れる時間だから。
おかしな話だと思う。家の中で自由の匂いがいちばん濃いのが、電源の落ちた画面の前だなんて。だから、アカウントを持っていないのは半分は本当で、半分は建前だ。持てないが正しい。
でも、お弁当箱の卵焼きを口に運びながら、私はぼんやり考えていた。もし仮に、自由なスマホを持っていたとして。誰の監視もないアカウントを作れたとして。
……私は多分、彼とは交換しない気がする。
理由はまだ、言葉になっていなかった。その日の夕方までは。
十七時四十五分。その日の筆談は三往復目で、少し珍しい方向に曲がった。
『(創太) スマホ、持ってる?』
……来たと思った。いつか来ると思っていた質問だった。むしろ、三か月も来なかったことの方が不思議なくらいのごく普通の質問。
彼の字はいつも通りだった。特別な意図を隠している字ではない。ただ、ふと思った、という字。私は手袋を外して、正直に書いた。
『(凪咲) 持ってる。でも』
『(凪咲) 母と共有、位置とか全部』
掲げながら、少しだけ胸の奥が冷えた。この一枚は、私の家の形を初めて具体的に彼へ渡す一枚だった。彼は読んで、二秒くらい止まって、書いた。
『(創太) なるほど』
それだけだった。かわいそうとも、大変だねとも、書かなかった。うちもさ、と自分の話に繋げもしなかった。
ただ、「なるほど」。それは、多分、受け取りました、という事を表す四文字だった。この人は踏み込まない場所を、正確に知っている。
だから、続きは私が書いた。訊かれてもいないのに、書きたくなった。
『(凪咲) それにこの関係には』
一枚めくる。手袋を外した指先が寒さじゃない理由で、少しだけ震えた。
『(凪咲) スマホは要らない』
掲げてから、強すぎたかな、と思った。突き放したように読めたら、どうしよう。
でも彼はふっと息だけで笑って、すぐに返してきた。
『(創太) たしかに』
『(凪咲) 無視もできない』
『(創太) 一応、可能では?』
『(凪咲) したら、怒るよ?』
『(創太) しません』
律儀な四文字に、今度は私が息だけで笑う番だった。
帰りの下り列車の中で、私は窓に映る自分を見ながら、昼間の続きを考えていた。彼と交換しない理由。ようやく、言葉の形が見えてきた気がした。
スマホ上では、同じ言葉を百人にだって、同時に送れる。既読は一瞬で付いて、一瞬で流れていく。
確かに彼女たちの糸は二十四時間繋がっているけれど、その糸には、いつでも「あとで」が使える。あとで読む。あとで返す。全部、あとでやればいい。
でも、この十分間には、『あとで』がない。十七時四十五分に始まって、五十五分に終わる。書き損じても、時間切れでも、続きは明日で複製もできない。
掲げられた文字は、読まれた瞬間から、お互いの記憶とスケッチブックの中にしか残らない。
不便で、非効率で、時代遅れで。だからこそ、本物なのだと思う。
それに、と私は鞄の上から定期入れを押さえる。母の地図の上で、私は毎日、『駅で電車を待っているだけの小さな点』だ。位置情報は嘘をつかない。私は確かに毎日あの駅で、電車を待っている。
でも、点の中身までは、地図には映らない。この十分間に何が書かれて、何が渡って、何が溶けていったかは、世界のどんな画面にも表示されない。この表示されない場所にだけ、本当の私がいる。
……スマホの要らない関係。それは多分、私の人生で初めての誰にも複製できないたった一つの回線だった。




