十四話
十二月の半ば、その夜は粉雪が舞っていた。
ホームに着いた時にはまだ、空気の中に白いものがまばらに漂っている程度だった。積もる雪じゃない。地面に触れる前に消えてしまう、粉砂糖みたいな雪。水銀灯の光の輪の中だけ、雪が見えた。光の外では降っていないみたいに見えるのが不思議だった。
『(凪咲) 初雪』
『(創太) 積もらないやつ』
『(凪咲) 雪の予行練習だね』
いつも通りの削がれた言葉の応酬。そのはずだった。思えば、その夜の彼女は、最初から少しだけ様子が違った。
ページをめくる手が二回、行き先を見失った。マフラーの端を意味もなく結び直した。何かを乗せた天秤が、彼女の中でずっと揺れているのが、十メートル先からでも見えた。
そして、三往復目で、彼女のペンが少しだけ長く止まった。詰まっている止まり方でも、選んでいる止まり方でもない。何かを決めている止まり方だった。
『(凪咲) きいていい?』
僕は、姿勢を正した。ベンチの上で座り直す音が、静かな駅に響いた。彼女がこんな前置きをするのは、初めてだった。僕たちの間で、『きいていい?』は、それ自体が小さな越境だ。
『(創太) どうぞ』
彼女は一度、手袋を外した指先に息を吹きかけて、それから書いた。
『(凪咲) あの夜のこと』
『(凪咲) なんで声かけたの』
来た質問は、学校の名前でも、連絡先でもなかった。もっとずっと深いところにある、根底のものだった。正直に言えば、いつか訊かれる気はしていた。そして訊かれたら、どう答えるかも、何度か考えた。
「泣いてる人を放っておけなくて」これは嘘じゃない。「本が気になって」これは論外だ。
本当の答えは一つしかなくて、それを書くには、僕の心の一番奥にある部屋の鍵を開けなければならなかった。
粉雪が、水銀灯の光の中をゆっくり落ちていく。僕はキャップを外した。
『(創太) 昔、同じように泣いた』
掲げた。彼女は動かずに、続きを待っていた。急かさない。ペンも持たない。ただ、待っていた。
『(創太) 壊れる音を聞いて』
『(創太) 本音がぶつかる音に』
『(創太) 声を押し殺してた』
一枚書くごとに、指先が冷えていくのがわかった。寒さのせいだけじゃない。この話を、僕は誰にもしたことがない。健人にも、中学の二人にも、父さんにさえも。
言葉にした瞬間、あの暗い部屋が僕の中の現実として、確定してしまう気がして、十年間、輪郭をぼかしたまま抱えてきた。それを今、十メートル先の名前も呼んだことのない人に伝えている。
『(創太) それで本音を忘れた』
掲げた瞬間、彼女の肩が、小さく揺れた。
『(創太) あの夜の君は僕だ』
『(創太) そう思った、それが理由』
書き終えて、僕は長い息を吐いた。白い息が、粉雪と一緒に光の中へ昇っていった。空っぽになった、と思った。十年間、鍵をかけていた部屋の中身を七枚の紙に分けて、線路の向こうへ運び終えた。
彼女は、しばらく動かなかった。それからゆっくりペンを取って、一枚だけ書いた。
『(凪咲) 同じだったんだ』
『同じ』その二文字は、同情よりも、励ましよりも、ずっと正確に僕の胸の位置に届いた。かわいそうな人と優しい人じゃない。声の出し方を忘れた者同士だった。
『(創太) 同じで、よかった』
『(凪咲) うん。よかった』
それから彼女は、少しだけ迷う間を置いて、静かな一枚を寄越した。
『(凪咲) 親御さんとは、今は?』
『(創太) 父が単身赴任中』
『(創太) たまに電話してる』
『(創太) 天気の話して、切れる』
彼女は二度、ゆっくり頷いた。それから自分の側の窓を、少しだけ開けてみせた。
『(凪咲) うちは、毎晩母と一緒』
『(凪咲) それでずっと成績の話』
『(創太) それも天気と同じかも』
『(凪咲) ?』
『(創太) 本題を避ける話題』
『(創太) そういう意味で』
彼女の肩がゆっくりと下がった。笑ったのとも、うなだれたのとも違う。「言い当てられた」の形だった。
『(凪咲) うちの天気の話は』
『(凪咲) 成績だったんだ』
『(創太) 降水確率を聞かれる家』
『(凪咲) 今週は雨でした』
テストの順位の話だと分かった。分かったけれど、僕はそれ以上、そこには触れなかった。
今夜はもうずいぶんと窓を開け放ったのだから。それで充分だと思った。粉雪は、まだ降っていた。積もらない雪が水銀灯の光の中でだけ、確かに降り続けていた。
帰りの列車の中で、僕は窓に頭を預けて、妙な感覚を確かめていた。軽い。鞄も、体も、たぶん、それ以外のところも。
ずっと、開かずの間だった部屋に今夜、窓が一つ開いた。換気された部屋の空気は思っていたより、ずっと、軽い空気だった。
『同じ』と彼女は書いた。あの二文字。声には出さない。出さないけれど、あの二文字が今夜、僕の部屋の新しい窓となった。




