十五話
次は、私の番だと思った。
彼が七枚分の勇気を見せてくれた夜から三日経った。私はその間ずっと、鞄の中に、まだ書いていない告白を入れて歩いているような気分だった。重くて、落としそうで、でも早く降ろしたい荷物を抱えていた。
その三日の間に一度、学校で友人に訊かれた。
「凪咲さん、喉まだ調子悪いの? 長いね」
私はいつもの嘘で微笑んだ。
「うん、乾燥の季節だから」
嘘だけはいつも通りに出る。出たのに、その夜、初めて嘘の重さが身体の中に残った。本当のことを話そうと思うと、嘘の燃費が急に悪くなった。
『フェアじゃない』と思った。彼は私に見せてくれた。応えてくれた。私だけが言わないのは、不平等だ。
その夜も粉雪が降っていた。今度は、少しだけ積もる気配のするやつだった。ホームの端の、誰も歩かない部分に白い縁取りがうっすらとでき始めていた。
『(凪咲) 今日は私の番』
前置きを掲げると、彼はあの夜の私と同じように、姿勢を正した。学ランの肩に少し載った粉雪がその動きで小さく落ちた。手袋を外す。指先に息を吹きかける。ペンを握る。
喉は関係ないはずなのに、書き出しの一画目で、ほんの一瞬、ペン先が重くなった。それでも、書いた。
書き終えてから、胸の前で二秒止まった。
掲げてしまえば、もう戻れない。この一枚から先の私を彼は知ってしまう。でも、私は腕を伸ばした。
『(凪咲) 声が出なくなるの』
『(凪咲) 本音の時だけ』
掲げた。心臓の音が耳の奥でうるさかった。
『(凪咲) うそは出るのに』
『(凪咲) 最初はテストの時だった』
『(凪咲) でも、今はいつもそう』
『(凪咲) 病気かもしれない』
『(凪咲) でも、誰にも言えない』
書きながら、不思議なくらい手は震えなかった。声にしようとすれば百パーセント詰まる言葉たちが、ペン先からは正確に出ていく。
彼は、一枚ごとに深く頷きながら読んでいた。驚いた顔はしなかった。
『(創太) 知ってた』
『(凪咲) いつから?』
『(創太) この前止まった時』
『(創太) 言葉を失った感じだった』
彼には見抜かれていた。でも、嫌じゃなかった。見抜いた上で、あの日この人は質問の代わりにココアを差し出したのだ。
『(凪咲) でも、あなたと会って』
『(凪咲) 書く声は大きくなった』
……書く声。我ながら、おかしな言葉だと思う。でも、他に言いようがなかった。ノートの切れ端から、スケッチブックへ。サインペンから、太いフェルトペンへ。
私の「声」は、この三か月で、確かに大きくなっている。紙の上でだけ。彼のペンが止まった。詰まる止まり方じゃない。選んでいる止まり方。
それから彼は、今夜いちばん丁寧な字で書いて、両手でまっすぐに続けて掲げた。
『(創太) じゃあ僕は世界で一番』
『(創太) 君の声をきいてる』
……ずるい。本当にずるい。この人は。
「世界で一番、君の声をきいてる」
その言葉が、胸の中でゆっくり解けていく。視界が滲みかけて、私は慌てて上を向いた。粉雪が、顔に触れて溶けた。冷たさが、涙の言い訳をしてくれた。
よだかの夜とは違う。あれは決壊で、これはなんだろう。雪解け、みたいなものなのかな。上を向いたまま、ふと、思い出した。あの夜の彼の二枚目の紙。
『(凪咲) 最初の夜、覚えてる?』
『(創太) どの部分?』
『(凪咲) 星になりたいって所』
彼の顔が、少しだけ真剣になった。覚えている顔だった。忘れられるはずのない一枚を書いた側も、読んだ側も、ちゃんと覚えている。
『(凪咲) 今もなりたい?』
よだかは、地上に居場所をなくして、夜空へ飛んだ。星になって、燃え続けた。あの物語の読者だった頃の私は、それを美しい終わり方だと思っていた。地上がぜんぶ駄目なら、空があるじゃないか、と。
でも、彼はペンを持ったまま、夜空を見上げた。粉雪の降ってくる、光の届かない高い場所を、長いこと見ていた。それから視線を下ろして、線路を挟んだこちら側の私を見て、書いた。
『(創太) 最近は地上も悪くない』
粉雪が、水銀灯の光の中で、いっせいに光った気がした。地上も、悪くない。
よだかは空へ逃げた。逃げるしかなかった。でもこの人は、あの物語を何度も読んだこの人は、地上に理由を見つけようとしている。十七時四十五分、この寒くて何もないホームに。
だったら、私も———。
『(凪咲) 私も。地上の常連を』
『(凪咲) 続けます』
『(創太) 皆勤賞、二名』
『(凪咲) 表彰状は駅長から』
『(創太) 式典はこのホームで』
水銀灯の下にモノローグが二つ。十メートルの雪の中で、初めて会話になった夜だった。帰りの下り列車の窓に、粉雪が斜めの線を引いては消えていく。
喉の石は、まだ消えていない。明日もきっと、朝の食卓で喉は詰まるし、教室でもきっとそのまま。それは、わかっている。
でも、詰まらずに書く声の届く場所が、地上に一つある。
私の『本当』を受け取って、「世界で一番きいてる」と言ってくれる人が線路の向こうにいる。
それだけあれば、この冬は越せる。窓の外の粉雪に向かって、私は口の形だけで言ってみた。そこに、声は、要らなかった。




