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「十七時四十五分、向かいのホームの君」  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「世界で一番遠いチョコレート」
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十六話

 日曜日の朝、母が言った。


「凪咲、今日は一緒に出かけましょう。参考書とか、文房具とか見に行かなくちゃね」


 隣町の駅ビルには、この辺りでいちばん大きな書店が入っている。私は母の選んだ淡いグレーのコートを着て、母の運転する車の助手席に座った。


 今日の母は機嫌がよかった。ハンドルを握りながら、小さく鼻歌を歌っている。この三拍子の鼻歌は私がA判定を取った週の鼻歌だ。


 曇りの週は鼻歌が消えて、雨の週はラジオの音量が上がる。母の機嫌の天気図を私はたぶん世界で誰よりも正確に読める。読めることが、私の特技だった。


「それ、凪咲に似合うと思って買ったのよ」


 鏡の中の私は、今日も上品で、隙がなくて、母の作品だった。


 車内の会話は、冬期講習のスケジュールと年末の親戚の集まりの予定で埋まった。祖母の家。いとこたちの受験の話。


「拓也くん、志望校のランク下げたんですって。凪咲が基準にされちゃうわね」と、母は少し嬉しそうに言った。基準。年に二回、親戚の居間に展示される、よくできた見本。


 いとこたちが私をどんな目で見ているか、母は恐らく、一生気づかない。


「凪咲は自慢の孫だって、おばあちゃん、会うの楽しみにしてるのよ」


私は「うん」と微笑む。すると、喉の石が転がる感覚がした。


 書店の参考書コーナーで、母は候補を三冊に絞ってくれていた。選択肢まで、先に用意されている優しさ。私はそのうちの一冊を選んだ。正確には、母がいちばん薦めたそうな一冊を選んでみせた。


「お母さん、一階でお化粧品見てくるわね。十五分だけ」


 十五分。


 母の背中がエスカレーターに消えてから、私は足早に、文芸の棚へ向かった。誰に頼まれたわけでもない、私だけの小さな儀式のために。


 文庫の棚に、『星の王子さま』は今日もちゃんと並んでいた。訳者違いで、何種類も。私は指先で背表紙をたどって、彼に貸したのと同じ訳の、同じ表紙を見つけた。棚から半分だけ引き出して、また戻す。買うわけじゃない。ただ、確かめたかっただけ。


 ついでに、少し離れた棚で『ぼくは勉強ができない』も探した。こちらは平積みではなく、棚差しで一冊きり。私の同志はこの店では目立たない場所に、背筋だけ伸ばして立っていた。


 それでいい、という気もした。反逆の書は、平積みされたら反逆じゃなくなる。少し離れた棚には『夜のピクニック』も。自分の貸した本と借りた本が、世界中の書店にこうして流通している。そのことが、なんだか、こそばゆい。


「———だからさあ、それの二巻なんだって!」


 新刊コーナーの方から、大きな笑い声が弾けた。


 男子が三人。私は反射的に棚の陰に半歩引いた。真ん中の一人が目に入ったからだ。学ランじゃない。黒いパーカーに、ジャケット。それでも、わかった。姿勢と笑うときの首の角度で、一瞬で、分かってしまった。


 ……彼だ。


「なあ創太、これ買うのか?」


 大きな声の子が彼の肩を叩く。


「いや、買わない。というかお前はその本、前に買ってただろ。忘れたのか」


 声がした。低くも高くもない、少し乾いた、よく通る声。三か月間、文字でしか知らなかった人の声が書店の棚の間を渡って、初めて私の耳に届いた。心臓が大きく、とび跳ねた。


 私は棚の陰から、見てしまっていた。友人のボケに、彼が完璧なタイミングで返す。周りが笑う。彼も笑う。その口角の角度が駅と違った。きっちり計算された崩れない角度。その目は、笑っていない。


 あれが、きっと彼の仮面だ。あの笑顔の作り方を私は知っている。毎朝、母の前で、私も同じものを作っているから。


 よくできた量産品ほど、遠くから見ると本物に見える。彼のは、とてもよくできていた。よくできすぎていて、私の胸のどこかが軋んだ。


 声の大きい人が新刊を三冊も抱えてレジへ走り、もう一人が値札を見て大げさに唸る。


 彼はその間、二人を少し後ろで待っていた。その時、彼が、ふとこちらを向いた。


 ……目が合った。


 棚越しに二秒。彼の顔から量産品の笑顔が滑り落ちかけた。駅でよく見かける顔が、『十七時四十五分の顔』が、出てきそうになった。


 私は、小さく首を振った。


『だめ。ここでは、だめ。あなたの仮面が割れてしまう』


 彼は、元の仮面に顔を戻して、何事もなかったように友人の方へ向き直り、次のボケに、次のツッコミを返した。上手だった。上手すぎて、少しだけ、泣きたくなった。


「凪咲、お待たせ。決まった?」


 母が戻ってきて、私たちはレジへ向かった。その途中の通路で三人組とすれ違った。


 三十センチ。


 一瞬が引き伸ばされた。彼のジャケットの袖が視界の端をよぎる。紙袋の擦れる音。肩と肩の間を、冬の売り場の暖房の風が流れていった。私は前を向いていた。彼も前を向いていた。母は何も気づかなかった。


 背中で、大きな声が言った。


「腹減った〜。フードコート行こうぜ」


 そのすれ違いの瞬間、私たちは完璧な他人だった。帰りの車の中で、母が言った。


「いい参考書が見つかってよかったわね」


「うん、ありがとう」


 それから母は、バックミラーを直しながら言った。


「今日は楽しかったわね」


「うん」


 ———楽しかった、は嘘じゃなかった。理由が母の思っているものと一ミリも重なっていないだけで。


 窓の外を、灰色の海が流れていく。


 ……今日、私は彼の声を聞いてしまった。


 それが、営業用の声だとしても、声は声だ。彼はまだ、私の声を一音も知らないのに。この不公平を私はいつか、返さなくちゃいけない。いつ、どうやって返せるのかは、まだ全然、わからないけれど。


 その夜、部屋で、私は定期入れの内側から二枚の付箋を出して、机の上に並べた。


『頬、お大事に』


『終わりが決まってない』


 文字の上に、昼間聞いたばかりの彼の声をそっと重ねてみる。


 ……音の記憶は、薄れるのが早いという。そう、どこかで聞いたことがある。


 だから、私は目を閉じて、もう一度だけ再生した。営業用の乾いた、よく通る声。いつか聞くはずの本当の声のための、仮の音として。


 翌日の十七時四十五分。私は少しだけ迷ってから、自分から書いた。


『(凪咲) 昨日のこと』


 彼のマーカーが、一瞬止まって、動いた。


『(創太) ……見た?』


『(凪咲) 半分見た』


 彼が、吹き出した。マフラーの中で肩が揺れているのが、十メートル先からでもわかった。風の日のスケッチブックの意趣返しが、こんなに早く決まるとは思わなかった。


『(創太) 没収します』


『(凪咲) 何を』


『(創太) 昨日の記憶を』


『(凪咲) 残念。もう私の中』


 ひとしきり笑ってから、彼のペンが、少し速度を落とした。


『(創太) あれが教室の僕』


『(凪咲) 知ってる顔だった』


『(創太) こっちの顔の方がマシ?』


『(凪咲) 比べものにならないよ』


『(創太) 昨日の僕たちは』


『(創太) 完璧な他人だった』


『(凪咲) 上手だったよ』


 彼は少し間を置いて、正直な一枚を掲げた。


『(創太) 上手すぎてへこんだ』


 私は笑って、それから、泣きそうになった。私も同じだったからだ。すれ違った三十センチがいつもの十メートルより、ずっとずっと遠かったから。


 最後に、一つだけ訊いた。


『(凪咲) 昨日の二人とは仲いい?』


 彼のペンが、少しだけ考えた。


『(創太) たぶん、むこうは』


『(凪咲) そっちは?』


『(創太) 一人は……そう』


 大きな声の人だ、とすぐにわかった。私は『よかった』とだけ返した。


 世界中のどこですれ違っても、私たちは他人でいられる。他人でいるのが、上手すぎる二人なんだ。


 ———だからこそ、わかった。


 この十メートルの間でだけ他人じゃないということが、どれほど得がたいことなのか。昨日の三十センチがそれを教えてくれた。

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