十七話
置き本の第二便は、十二月の第三週に届いた。ベンチの手すり際に、一冊。
『ぼくは勉強ができない』
見返しの記名の下に、付箋が一枚。
『表では優等生の私がこの本を大好きなこと。二つ目の内緒です』
その夜、僕は一気に読んだ。勉強ができない主人公がそれでも自分の価値を一ミリも疑わずに、大人たちの「正しさ」へ真っ向から口答えしていく話だった。鉛筆の薄い線は、その口答えのページに集中していた。引いて、消して、また引いた跡。
廊下に順位を貼られる彼女が、この本を宝物にしている。その意味を考えたら、胸の奥が、静かに熱くなった。これは彼女の反逆の蔵書だ。声に出せない口答えを、彼女は何年も、この本に代わりに言ってもらってきたのだ。誰にも聞こえない声で。
翌日の駅で、僕は感想を掲げた。
『(創太) 主人公、君に似てる』
『(凪咲) 似てない。憧れてるだけ』
『(創太) 憧れは似てくる』
彼女はペンを持ったまま、少し黙って、それから今日いちばん小さな字で書いた。
『(凪咲) だといいけど』
返礼を選ばなければ、と思っていた矢先に、その問題は発覚した。
『(創太) 終業式の日は?』
『(凪咲) 二十五日。そっちは?』
『(創太) 二十四日』
書いてから、僕は指を折って数え始めた。向かいのホームで、彼女も同じことをしているのが見えた。手袋の指を一本ずつ。
『(凪咲) 次の学校、一月八日』
『(創太) 十三日間』
『(凪咲) 長いね』
沈黙が、一往復ぶん流れた。白い息だけが二つのホームに一つずつ、昇って消えた。
『(創太) 冬休み、この駅には?』
『(凪咲) 午前の冬期講習だけ』
……本当に、会えないのだ。
時刻表の空白は、毎日十分間を「くれる」空白だった。けれど、カレンダーの空白は、十二日間を根こそぎ「奪っていく」空白だった。同じ空白という言葉が、こんなに違う顔を持っているなんて知らなかった。
僕はマーカーを握り直した。この十三日間に、橋を架ける方法。一つだけ、思いついていた。
『(創太) 休み用の置き本をしよう』
『(凪咲) ?』
『(創太) 付箋に日付を書く』
『(創太) その日に確認する』
彼女の目が、水銀灯の下で丸くなった。それから彼女は、鞄の口を少しだけ開けて、こちらに傾けてみせた。文庫本の背表紙が、二冊覗いていた。
『(凪咲) 同じ事考えてた』
十メートル離れた二つの頭が、別々の夜に、同じ発明をしていた。僕たちは顔を見合わせて、声の届かない距離で、同時に笑った。最終便の交換は、ルールの定める手続きに従って行われた。
僕からの二冊のうち、一冊は迷わなかった。
『銀河鉄道の夜』
第一便の返礼に選びかけて、「正しすぎる」とやめた本だ。あの時の僕は、模範解答に見えるのが怖かった。会話が終わってしまう気がした。
でも、今は、違う。僕たちの間にはもう棚が一つ、ちゃんと空いている。よだかから始まった二人の本棚に、あの銀河が加わらない方がむしろ不自然だ。見返しに付箋を一枚だけ挟んだ。
『模範解答でも、今なら渡せる気がした』
もう一冊は、保証書付きで笑える随筆集にした。泣ける方と笑える方を一冊ずつ。処方箋のつもりじゃない。年末年始のお節料理みたいなつもりで。
そういうわけで、僕からは文庫を二冊と十三枚の日付付き付箋。『十二月二十六日用』から『一月七日用』まで。大晦日用には心底くだらないクイズを、元日用には柄にもなく真面目なことを書いた。
彼女からも二冊。同じように、日付の書かれた付箋の束が、ページのあちこちから小さな旗みたいに顔を出していた。
互いの十三日間が、本の形をして、線路を渡った。十二月二十五日。彼女の終業式の日が、年内最後の十七時四十五分になった。
僕はもう冬休みだったけれど、当然のように駅へ行った。制服じゃない僕を見て彼女が目を丸くして書いた。
『(凪咲) 私服、初めて見た』
『(創太) 書店ぶり、二回目では』
『(凪咲) あれはノーカウント』
『(凪咲) その服。自分で選んだ?』
『(創太) 全部選んだ』
『(凪咲) 合格』
『(創太) 審査があるとは聞いてない』
審査員は、雪の向こうで満足そうだった。合格の基準は、たぶん柄でも色でもなく、最初から『自分で選んだ』の一点だけだったのだと思う。
彼女が自分で選べるものが、この世界にどれだけあるのか。僕はそれを少しだけ考えて、それ以上考えるのをやめた。今日は年内最後の日なのだから。
雪がちらついていた跨線橋の階段では、駅員さんが竹箒で雪を掃いて、仕上げに白い粒を撒いていた。僕たちに気づくと、駅員さんは箒を持ったまま、にっと笑った。
「おう、常連さんたち。よいお年を」
僕たちは、それぞれのホームで頭を下げた。それから、示し合わせたわけでもないのに、ほとんど同時に書いて、ほとんど同時に掲げた。
『(凪咲) よいお年を』
『(創太) よいお年を』
同じ五文字が、雪の降る線路を挟んで向かい合う。彼女が笑って、もう一枚だけめくって書いた。
『(凪咲) また、この時間に』
十七時五十五分の列車が、雪の中から現れた。乗り込んで、いつものホーム側の窓際。動き出す景色の中の彼女に向かって、僕は口の形だけで言った。いつもの「また明日」じゃなく、今日だけは「また、来年」と。
大晦日の夜。一人きりのマンションで、僕はテレビもつけずに、彼女の置き本を開いた。『十二月三十一日用』の付箋のページ。そこにはこう書いてあった。
『紅白、見てる? 私はきっと英単語です』
声を出して、笑ってしまった。誰もいない部屋で。遠くで、除夜の鐘が鳴り始めていた。
この六日間で開けてきた付箋を僕は栞代わりに一枚ずつ、机の端に並べている。
二十六日用『大掃除、ちゃんとやること』
二十七日用『そろそろ、宿題の存在を思い出した頃かな』
二十八日用『年賀状って、書いたことある? 私は毎年五十枚書かされる』
三十日用『おもちは何個派? 私は三個と言って二個にされる』
二十九日用には、彼女からの持ち越しクイズまで仕込まれていた。
『駅の水銀灯は、年末年始も点いているでしょうか』
その答えを、僕はまだ知らない。一月八日に、この目で確かめよう。どれも他愛なくて、どれも、彼女の十二月の暮らしの一部だった。
彼女も今頃、僕の分の付箋を開けているだろうか。元日用に仕込んだ一枚のことを思うと、少しだけ落ち着かない。柄にもなく、真面目なことを書いてしまったのだ。
『今年は、声に出して笑う年にしよう。お互いに』
付箋の返事は書けない。この笑いも届けられない。それでも、一月八日の一往復目に何を書くかは、もう決めてある。
十三日間の空白の真ん中で、僕は生まれて初めて、『会えない』という言葉の大きさを測っていた。会えないことが、こんなに嵩張るなんて知らなかった。鞄にも、本棚にも、部屋のどこにも収まらない。
ただ、この感情に正しい名前をつけるのは、もう少しだけ先にしよう。そう思った。
年が明けた。元日の朝、僕は彼女の『一月一日用』を開けた。
『新年あけましておめでとうございます。本年も、どうぞホームでよろしくお願いいたします』
年賀状みたいに律儀な一枚だった。五十枚書かされると言っていた年賀状の五十一枚目を、僕は世界で一番良い形で受け取ったのだと思う。
二日用『親戚の家。絶賛、猫かぶり営業中です』
三日用『おうちにこたつとかある? 私の家はありません(泣)』
四日用『世界が平常運転に戻る日。運転再開まで、あと四日』
五日用『宿題、終わった? 私は終わってます(当然)』
六日用『流石にお正月ボケしてないよね?』
付箋は一日ずつ、律儀に、十三日間の空白を埋めていった。そして、一月七日の夜。最後の一枚は、他のどれよりも短かった。
『明日。忘れてないよね?』
「忘れるわけがない」
自然と声が、出ていた。誰もいない部屋で僕は自分の声に驚いて、それから、少しだけ笑った。読んだ瞬間、返事が書くより先に声になったのは初めてだった。
これは届かない声だ。十メートルどころか、町一つぶん届かない。宛先のいない部屋の空気をほんの少し震わせただけの声。
明日、十七時四十五分。まっさらなクロッキー帳のページに何を書くか。それは十二月二十五日の別れ際からとっくに決めてある。




