十八話
私の冬休みは、毎朝一枚の付箋から始まった。彼と決めた開封のルールは———
『その日になったら』それだけだった。
夜に開けるか朝に開けるかまでは書いていない。だから私は、朝に開けることにした。一日分の燃料は朝に入れる方がいいに決まっている。
十二月二十六日、冬期講習の初日。制服より少し楽な服を着て、鞄に彼の置き本を一冊忍ばせて、私は最初の一枚を開けた。
『講習初日。教室のいちばん後ろの席が取れたら勝ち』
何に勝つのかは、書いていなかった。でもその日、私は十分前に教室に入って、いちばん後ろの窓際を確保した。取れた。勝った。
結局、何に勝ったのかは、最後まで分からなかったけれど、確かに勝った。冬期講習の初日が『勝ち』から始まった人間はあの教室に私しかいなかったと思う。
二十七日用は、開けて少しだけ笑った。
『二十七日は一年でいちばん何もない日らしい。何もない日、おめでとう』
何もない駅の常連からの、何もない日の祝辞。『らしい』の根拠はどこにも書いていなかったけれど、言われてみれば、クリスマスと年末の谷間のこの日には確かに何もない。
祝われた以上、何かしなければいけない気がして、私はその日の帰り道、講習会場の前の自動販売機で、ひとつだけ寄り道をして、あったかいココアのボタンを押した。
手袋越しに缶のぬくもりを確かめて、一口飲んで、息だけで言った。
「……正解」
世界でいちばんあったかい飲み物の一か月遅れの答え合わせの時間。
———何もない日というのは、多分、何をしてもいい日という意味だと拡大解釈した。
二十八日用はこうだった。
『大掃除で、本棚から昔の宝物が出てくる確率は高い。経験者は語る』
私の部屋の本棚は、母の検品済みの参考書と辞書の列だ。宝物なんてと思いながら、英語の列を整えていたら、参考書のカバーを付け替えた『夜のピクニック』が、列の途中から出てきた。
……確かに確率は、高かった。経験者の言う通りだ。私は背表紙を撫でて、列のいちばん奥へ丁寧に隠し直した。
三十日用。
『おもちを食べたい時は、隠れて焼く。台所が無人になる瞬間は必ず来る』
来なかった。うちの台所は年末、無人になる瞬間が一秒もなかった。私は宣言通り三個と言って二個にされ、彼の作戦は我が家の防衛網の前に敗れた。敗戦報告は、一月八日にすると決めた。
大晦日。母と録画した教育番組の総集編を観ながら、年越しそばを食べた。紅白は「ただの音楽番組だから見るほどのものではない」というのが白瀬家の公式見解で、だから私は十二月の時点で、彼への付箋にああ書いたのだ。
『紅白、見てる? 私は英単語です』
未来の自分の大晦日を、私は一文字も外さずに予言していた。当たって嬉しい予言と当たって悲しい予言があるということを、単語カードをめくりながら知った。
彼の大晦日用はこうだった。
『除夜の鐘チャレンジ。百八回、全部数えられたら優勝』
私は布団の中で、本気で数えた。遠くのお寺の鐘は風向きで聞こえたり聞こえなかったりして、四十七回目あたりで境界が曖昧になり、六十回を超えたところで記憶がない。
目が覚めたら、年が明けていた。優勝は、できなかった。でも、除夜の鐘を数えながら眠った十六歳の大晦日を私はたぶん一生忘れない。
元日の朝。お雑煮を食べる前に、私は自分の部屋であの一枚を開けた。
『今年は声に出して笑う年にしよう。お互いに』
一回目は、普通に読んだ。二回目は、彼の字を指でなぞりながら読んだ。
書き出しの「今」の一画目に、ほんの少しだけ迷いの跡があるのを見つけた。柄にもないことを書くと自覚している人の一画目だった。
三回目と四回目は、意味を読んだ。声に出して笑う。お互いに。
この人は、私の喉のことを知った上で、治せとも頑張れとも書かずに、『笑う』という方向から回り込んできたのだ。きっと彼自身もそうありたいと思っている。
五回目は、声に出して読もうとした。
「ことしは、こえにだして……」
掠れて、途切れて、最後まで読めなかった。読めなかったのに、なぜか笑ってしまった。息だけのへなへなの笑い。
———あ、と思った。
今の、ぎりぎり「声に出して笑う」にカウントできるんじゃないだろうか。初笑い、達成一一月一日、午前七時十二分。実行までの所要時間、七時間十二分。最速記録だ。
一月二日は、祖母の家だった。
白瀬の家。母の生まれた家で、この町では、かなり古い名字の家だ。玄関を入って、すぐの床の間には、掛け軸が正月の分だけ付け替えられている。仏間の鴨居には、私の知らない白瀬さんの遺影が並んでいる。
親戚が十四人。居間のテーブルにお節とみかんと、いとこたちの近況。
「凪咲ちゃん、今、学年で何位くらいなの」と伯母が訊き、母が少し誇らしげに、少し慎重に答える。
「拓也は志望校どうするの」と誰かが訊き、いとこが私をちらりと見る。基準にされる側の目とする側の目がこたつの上で静かに交差する。
私は、猫を被って営業していた。本当の私をこの場の誰もが知らない。
正しい角度の会釈。正しい温度の相槌。お茶のおかわりを注ぐタイミング。私は、親戚の居間でも変わらず演じ続ける。
———そして、父は、その輪の、少し外にいた。
約半年ぶりの父は、単身赴任先から昨日の夜に家に帰ってきて、今日は、母の実家の座敷の一番障子に近い席に座っていた。
白瀬の名字を結婚の時の貰った人。生まれたときは別の名字だった人。それが私の父だった。
この家に「入った」側の人間だからか、父はいつもこの今では、少しだけ、遠慮している。祖母が叔父たちにお酌を回しても、父の番は、決まって少し後になる。
祖母が意地悪しているわけではない。ただ、血の順番みたいなものが、この家には根付いていて、父はその順番の後ろの方だった。
だからか、祖母の採点は、いつも母に向いていた。
「志乃、凪咲ちゃんの塾はどこにしたの?」
「あなたの頃より、今の子は大変ねえ」
そう、母に語りかける。
母は私の育て方を、祖母に採点されている。そして、その成績表が返ってくるのが、この時間だった。その成績表は父にはない。
婿は多分、その外側にいるのだ。外に居られる分、父はこの家でほんの少しだけ、他の白瀬の人よりも、息がしやすいように見えた。
叔父が父の存在を思い出したかのように、聞いた。
「そういや、凪咲ちゃん、来年から塾どうするんだ。いまは受験対策も早期化してきていると聞いているぞ」
父は湯呑みを持ったまま、少し、困ったような顔をした。しばらくして、父は「ああ……そういうのは志乃に任せていて。俺はよく分からんのです」と苦々しく笑った。
その一言は事実だった。
父は本当に私の塾の名前も、模試の判定も、何一つ知らないのだ。知らないことをこの座敷で少しだけ、申し訳なさそうに、けれど、どこか安全な場所から笑って見せる。
母が横で「私が全部見ていますので」と、如才なく引き取った。私のことは母が全部決める。この家では、それが決まりだった。
みかんの皮を捨てに台所へ立つと、父も湯呑みを下げるふりをして、後をついてきた。流しの前で父がぽつりと言った。
「……凪咲。元気か」
「うん」
「そうか」
それだけで会話は終わりかけた。父は気の利いた話はできない人だ。それは知っている。でも、父は下げた湯呑みをすすぎながら、もう一度、こちらを見た。
「なんか、静かだな。今日」
一瞬、思った。父は見えているのかもしれないと。半年離れていた人だけに分かる「何か」が私の顔に映っているのかもしれないと。喉の奥で、石が身構えているのが分かった。
「……ちょっと、疲れているだけ」
出たのは、いつもの嘘だった。本当のことを言うと詰まる。嘘だから、これは通る。やっぱり、私の身体は意地悪なまま。何も変わっていない。
父は「そうか」と頷いて、少しだけ、声を落とした。
「あんまり、無理をするな。……この家は昔から……ちょっと、な」
父はその続きは言わなかった。言いかけて、その言葉は湯呑みとともにシンクへと置いた。それから、独り言みたいに続けた。
「……そういえば、志乃も、若い頃はな……」
「あなた、お父さんがお銚子ですって」
母が台所に顔を出した。父は「ああ」と言って、座敷へ戻っていった。母が通りすがりに私の頭をぽんっと撫でた。
「凪咲、ちゃんと食べてる? おばあちゃんには、挨拶できた?」
「うん」
母の背中が座敷へ消えた。母も父も私に背を向けて、白瀬の名字の待つ部屋へ戻っていった。
私は流しの前に一人で立っていた。
「志乃も、若い頃はな」
その続きを私は知らない。
父も多分、母のことは途中からしか知らない。この家の外から入った父にしか見えないものが何かあって、それを見えたまま、どこか遠くへおいているのだと思う。
父の単身赴任。仕事だと、母は言う。それは、本当だ。でも今日、座敷のいちばん端で、順番の最後に湯呑みを待つ父を見て、私は初めて、別のことも思った。
———この人は、この家から遠いところに、逃げ場所を見つけたのかもしれない。
逃げた先から、父は、月に一度、電話をかけてくる。天気の話をして、切れる。
娘が石を喉の奥で育てていることには、気づかない。気づかないまま、また、遠くへ帰っていく。
誰も悪くない。父も、母も、祖母も。ただ、この家には、名字のために息を詰める仕組みだけが、代々、静かに続いている。それだけの話だ。
ポケットの中の定期入れ。定期入れの中の付箋の束。
『親戚の家。絶賛、猫かぶり営業中です』と書いた十二月の私は、この光景を一ミリも外さずに予言していた。予言が当たるたび、ポケットの上から、そっと、束を押さえた。
———ねえ。線路の向こうの、あなた。
この家には、あなたに見せられなかった「黒い塗りつぶし」が、いくつも眠っているよ。父の言いかけた言葉もそのひとつ。
……いつか、話せる日が来るのかな。あなたの名前すらまだ、呼べないでいるのに。
私は、正しい角度の笑顔を、もう一度、顔にかけ直して、座敷へ戻った。




