十九話
そして、一月七日の夜。
宿題の最終確認を終えて、明日の制服をハンガーに掛けて、私は机の上に彼からの付箋を十三枚、日付順に並べた。十三日間の付箋が一枚も欠けずにそこにあった。
最後に、自分が彼に渡した束のことを考えた。今夜、彼が開けているはずの、最後の一枚。
『明日。忘れてないよね?』
書いた時は、少し不安だった。十三日は長い。冬休みの間にあの十分間が『夢みたいな話』の棚に仕舞われてしまったらどうしよう。だから、念押しの一枚をいちばん最後に置いた。
でも今は、わかる。
「忘れるわけない」
声が出た。掠れてはいたけれど、確かに、出た。誰もいない部屋の誰にも求められていない独り言。
……ううん、違う。求められている。十二月二十五日の不安だった私に。あの日の私が今夜のこの返事をずっと待っていた。だから、喉は通してくれたのだと思う。
一月八日の朝は、よく晴れていた。
「いってきます」
坂を下りる足がいつもより速い。今日の十七時四十五分まで、あと十時間と少し。二冊目のクロッキー帳の一ページ目に彼が何を書くのか、私はそればかり考えて、始業式の校長先生の話をぜんぶ聞き逃した。
◆◆◆◆
一月八日、十七時四十五分。
二週間ぶりの三崎賀原駅は、ホームの端に正月の雪の残骸を白く残したまま、いつも通りの顔で僕を迎えた。水銀灯は点いていた。ジジジという羽音も健在だった。
そして、向かいの二番線に彼女がいた。濃紺のマフラーに顎を埋めて、ベンチのいつもの位置にいつもの姿勢で座っていた。まるで二週間なんて存在しなかったみたいに。
でも、僕がホームに入ったのに気づいた瞬間、彼女は勢いよく立ち上がった。存在しなかったみたいな顔は、そこで終わりだった。
僕は鞄から、二冊目のまっさらなクロッキー帳を取り出した。
一ページ目に何を書くかは、十二月二十五日から決めてある。キャップを外す。二週間ぶりのマーカーの音が、キュ、と鳴いた。
『(創太) あけまして、常連』
彼女は口元を手で押さえて、それから、大急ぎでスケッチブックをめくった。
『(凪咲) おかえりなさい、常連』
『(創太) ただいま、二番線』
『(凪咲) おかえり、一番線』
我ながら、ばかみたいな往復だった。ばかみたいで、二週間ぶんの重さが、この四枚でちゃんと帳消しになった。
『(凪咲) クイズの答えは?』
駅の水銀灯は、年末年始も点いているでしょうか。二十九日用の付箋に仕込まれていた、持ち越しクイズの最終問題。僕は頭上を指差してから、書いた。
『(創太) 点いてた。今、目の前で』
『(凪咲) それは今、年末年始の話』
『(創太) 確かめようがない』
『(凪咲) 出題ミスでした』
『(創太) 史上初の没問』
それから僕たちは、十三日ぶんの答え合わせをした。彼女のおもちは宣言通り三個と言って二個にされたこと。年賀状は五十二枚に増えたこと。
僕の初夢に彼女は出てこなかったこと(『(凪咲) 残念、見ればよかったのに』と返ってきて、マーカーを取り落としかけた)大掃除は本棚だけ異様に丁寧にやったこと。
『(凪咲) あと、あの付箋』
『(創太) どれ』
『(凪咲) 元日の。五回読んだ』
『今年は、声に出して笑う年にしよう。お互いに』
柄にもなく真面目なことを書いた一枚が、五回。僕は返事に困って、結局いちばん短いのを掲げた。
『(創太) 五回は多い』
『(凪咲) 六回目もあります』
三学期の駅には、少しだけ新しい空気が混ざっていた。
十七時四十二分の上りに、参考書を握りしめた三年生らしき人たちが乗っていくようになったのだ。単語帳に目を落としたまま乗車位置に立つ人。ぶつぶつと何かを暗唱している人。『受験』という二文字が、この小さな駅の空気を数度だけ張り詰めさせている。
『(創太) 三年生、いよいよだね』
『(凪咲) うん。学校もぴりぴり』
『(凪咲) 毎朝、受験の話』
『(創太) 毎朝?』
『(凪咲) 毎朝』
二年後の自分。十六歳の一月に、十八歳の一月を毎朝装着させられる生活。僕は返す言葉を選びそこねて、代わりに、くだらないことを書いた。
『(創太) 二年後も同じがいい』
彼女は、少しだけ長く、その一枚を見ていた。
『(凪咲) うん。そうだね』
その返事の文字が、ほんの少しだけいつもより小さかったことを、僕はこの時、気に留めなかった。気に留めるべきだったと知るのは、もう少し先の話だった。




