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【完結済】「十七時四十五分、向かいのホームの君」  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「世界で一番遠いチョコレート」
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二十話

 三学期の特進クラスは、一月の半ばに実力テストから始まった。結果は、五日後に廊下に貼り出された。私の名前は、十二月からさらに二つ、下がっていた。


 たった二つ。合計で、四つ。世界は何も変わらないと、十二月の私は思っていた。でも一月の私は、知ってしまった。二回続くと、世界は少しずつ変わるのだ。


 まず、冷蔵庫に一枚の表が貼られた。『家庭学習時間・記録表』


 母の丁寧な字で、曜日と教科のマス目が引かれている。


「凪咲を責めてるんじゃないのよ。見える化っていうんですって。塾の先生が薦めてくれたの」


 またしても、悪意はゼロだった。


 次に、日曜日が消えた。正確には、日曜の午後の自由時間という二時間が、数学の演習に置き換わった。それから母は、少し言いにくそうに、でもきっぱりと言った。


「スマホのロック、九時を八時半にしましょうか。夜は睡眠の質が大事だから」


 私は「うん、そうだね」と微笑んだ。声はすんなりと出た。求められている言葉だから。喉が締めつけられている、という自覚はあった。


 でも同時に、わかってもいた。母は母で、焦っているのだ。私の存在は、母の通知表でもある。祖母からの電話の頻度が、この頃、少し増えた。受話器を置いたあとの母の背中が、少し小さくなった。母もまた、誰かの採点表の上で生きている。


 だから、私は考えたのだ。母に、私の絵を見せてみよう、と。


 我ながら、どうしてそう思ったのか、うまく説明できない。追い詰められると、人は変な扉を開けたくなるのかもしれない。あるいは、十二月の駅の夜から、少しずつ、私の中の何かが、配置を変えていたのかもしれない。


「私は絵を描いています」


 これは本音じゃない。事実だ。押し入れに海があって、スケッチブックの最初の数ページがあって、美術部の籍がある。ぜんぶ、ただの事実。事実なら、言える気がした。


 一月最後の日曜日。数学の演習が終わった夕方を選んだ。母の機嫌は、晴れときどき曇り。リビングのテーブルにお茶を運んできた母の前に、私は、スケッチブックから丁寧に切り離した一枚を置いた。


 夕暮れの送電線の絵。


 海の絵は出せなかった。あれはまだ、押し入れの海と繋がりすぎている。だから二番目に好きな一枚にした。通学の車窓から何度も見て、目で覚えて描いた、オレンジの空を横切る黒い線たち。


「これ、私が描いたの」


 声は掠れながら、出た。事実だったから。半分だけ、通してもらえた。母は、湯呑みを持ったまま、止まった。


 長い、三秒だった。


「……まあ」


 母は絵を手に取った。窓の明かりに角度を変えて、じっくりと見た。その横顔に、一瞬、何かが通った。懐かしむような、眩しがるような、名前をつけられない表情。私は膝の上で、手を握った。


「上手ねえ。凪咲、こんなの描けたのね」


 通った。そう思った、次の瞬間だった。


「でも」と母は言った。絵をテーブルに置いて、私の顔を、心配そうに覗き込んだ。


「最近、疲れてるのね。息抜きしたくなるくらい」


「……え」


「いいのよ、責めてないの。息抜きは大事。でもね、凪咲。時間は有限なの。息抜きに逃げたくなるのは、計画に無理があるサインだって、塾の先生も言ってたわ。勉強の計画、一緒に見直しましょう。息抜きの時間も、ちゃんと組み込んであげるから」


 母は、優しく微笑んでいた。心の底から、私を心配する顔で。


 ……違う。違うの、お母さん。これは息抜きじゃない。逃げ場所でもない。これは私なの。送電線の黒と、空のオレンジの混ぜ方が私なの。疲れてるから描いたんじゃない。描いてるときだけ、疲れてないの。


 言いたい言葉は、喉の手前まで、ぜんぶ来ていた。来ていたのに。


「……うん。ありがとう、お母さん」


 出ていったのは、求められている言葉だけだった。


 母は満足そうに頷いて、それから、本当に優しい手つきで、絵を私に返した。


「大事にしまっておきなさいね」


 大事にしまっておきなさい。九年前とまったく同じ動詞が、まったく同じ優しさで、私の絵に、二度目の蓋をした。


 これなら、怒られた方がまだよかった。「くだらない」と破られた方が、憎めるだけ、楽だった。


 母は絵を褒めて、私を心配して、丁寧に封印した。私の反抗は、反抗として認識さえされなかった。私の精一杯の扉は、疲労のサインという札を貼られて、静かに閉じられた。


 その夜のことは、あまりよく覚えていない。覚えているのは、翌朝のことだ。


『いってきます』


 それすらも、出なかった。


 玄関で、靴を履いて、ドアノブに手をかけて、いつもの五文字を言おうとして。息だけが、出た。喉の奥の石がいつもより大きく、いつもより硬く、通り道のぜんぶを塞いでいた。


 求められている言葉のはずだった。毎朝言ってきた、ただの挨拶のはずだった。それすら、もう、通してもらえなかった。


 私は咳のふりをして、ドアを開けて、会釈だけして家を出た。背中で母の「いってらっしゃい、今日も頑張ってね」が聞こえた。


 坂道を下りながら、白い息を吐いて、私は静かに理解した。


 ……声が、全部、出なくなった。


 嘘も、建前も、求められた言葉も。石は、とうとう、言葉の道の全てを塞いだのだ。

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