二十一話
一月の教室には、味方が一つだけあった。マスクだ。風邪と乾燥の季節、教室の三分の一はマスクをしている。私もその中に紛れた。
マスクの下でなら、「おはよう」は口の形だけで済む。会釈と、目元の微笑みと、口の形。その三点セットで、かろうじて、私は白鳥を演じることができていた。
三時間目の現代文。先生が教科書の続きを読ませていく、いつもの授業。列の順番で、読む場所は計算できた。あと三人。あと二人。胃の底が、冷たくなっていく。あと一人。
「はい、そこまで。では続き、白瀬さん」
私は立った。教科書はちゃんと開いていた。読むべき行も、わかっていた。目は文章をなぞれた。意味も取れた。頭の中では、その一文は、ちゃんと音になっていた。
でも、口だけが、動かなかった。
正確には、口は開いた。息も出た。ただ、声だけがどこにもいなかった。喉の石は、もう『本当のこと』だけを塞ぐ門番ではなくなっていた。教科書の音読。誰の本音でもない、印刷された他人の文章。そんな言葉さえも塞いでしまった。
教室が、静かになった。
三十九人の視線が、ゆっくりとこちらへ集まってくるのがわかった。窓際の暖房が、ぶうん、と低く鳴っていた。誰かのシャープペンがこと、と机に置かれた。
「……白瀬さん?」
先生の声に、怪訝の色が混ざる。
……読まなきゃ。読まなきゃ。せめて「すみません」を。せめて咳のふりを。
でも、どの音も、石の向こうで溶けていく。マスクの中で口だけが金魚みたいに動いていた。
……このままじゃ、私は……。
「先生」
隣の席の子が、小さく手を挙げた。
「白瀬さん、喉を痛めてて。声、出にくいみたいです」
「あら、そうだったの。ごめんなさいね、気づかなくて。お大事に。じゃあ次、後ろの―」
授業は、何事もなかったように流れ始めた。私は座った。膝の上で、手が少し震えていた。隣の席の子が、机の下でそっと、私のノートの端に付箋を貼った。
『だいじょうぶ?』
丸い、優しい文字。私は頷いて、目元だけで笑ってみせた。彼女に、ちゃんとお礼が言いたかった。声で。言えないまま、昼休みが来た。
「凪咲さん、喉そんなに悪いの? 病院行った方がいいよ、絶対」
「長引くと大変だからね?」
心配は、本物だった。誰の声にも、悪意なんて一グラムもなかった。私は頷いて、微笑んで、『平気、ありがとう』と口の形で返した。
病院に行けば、多分名前がつく。名前がついたら、母のカレンダーに、赤丸とは別の色の丸が増える。母の通知表に、初めての赤点がつく。それだけは、だめだ。
でも、廊下ですれ違いざまに、聞こえてしまった。
「白瀬さんって、最近、ちょっと変じゃない?」
「わかる。前から、たまに固まるときあったよね」
「完璧すぎる人って、逆に何考えてるかわかんないっていうか」
悪意未満の、ただの観察だった。ただの観察が、一番正確で、一番深く刺さるのだということを、私はこの日知った。
白鳥の水面に、波紋が立ち始めている。水面下の足掻きが、とうとう、水の上に漏れ始めている。長い間かけて仕上げた優雅な滑走が、羽の先から少しずつ濡れていった。
十七時四十五分。
駅のベンチに座って、スケッチブックを膝に置いた瞬間、肺の底から長い息が出た。ここだけは、まだ、声が出る。紙の上でだけ。
『(創太) 今日は一段と寒い』
『(凪咲) うん』
返せた。返せたけれど、その二文字を書くのに、前の倍の時間がかかった。ペンを持つ手が、教室の喉を思い出すのだ。書き出しの一画目のたびに、一瞬、指が門番の顔色を窺う。紙の上に門番はいないと、頭ではわかっているのに。
けれど、彼は、待ってくれた。急かさない。首も傾げない。私の文字が上がるまで、白い息を吐きながら、ただ待っていて、上がったら、ちゃんと読んで、次を書く。
その優しさに甘えている、と思う。甘えながら、小さな焦りが、胸の底に溜まっていく。
……この場所でまで書けなくなったら、私はきっと———。
途中まで考えて、それ以上、考えるのをやめた。
大丈夫の根拠が一つしかない生活は、綱渡りに似ている。それは、わかっている。でも、綱はまだある。太くて、確かで、毎日きっかり十七時四十五分に張られる綱がある。
幕は今日も上がったし、明日も上がる。上がる限り、私は渡れるのだから。




