二十二話
一月の終わりの駅で、僕は観測を続けていた。
観測、という言い方は冷たいかもしれない。でも、他にやれることがなかった。十メートルの距離は、手を貸すには遠すぎて、目を逸らすには近すぎる。
だから僕は毎日、水銀灯の下で、彼女の文字を観測した。変化はいくつもあった。
彼女が書き出しの一画目の前に、ペン先が紙の上で一瞬ためらうこと。文字が、心なしか縦に潰れてきたこと。六往復あった一日の残高が、五往復になり、四往復になったこと。書く速度が落ちて、一枚の言葉がさらに短くなったこと。
そして、彼女がマスクを外さなくなったこと。
教室でのマスクは、わかる。防寒と流行り病の季節だ。でも、ここは違う。本当の彼女を表現できる場所のはずだ。
確かにマスクの上の目は、ちゃんと笑う。笑うけれど、その下の口元を、僕はもうずいぶんと、見ていない。
訊くべきか。何度も考えた。僕たちの間にはルールがある。訊かない、という柱。黒い四角の数だけ積み上げてきた、この関係の土台。
でも同時に、僕は知ってしまってもいる。あの手の止まり方も、声が出ないことも。知っている人間が知らないふりを続けるのは、優しさなのか、それともただの臆病なのか。
その夜、僕は一線を越えた。
『(創太) 最近、しんどい?』
掲げた瞬間に後悔した。
彼女のペンを持つ手が完全に止まった。詰まる止まり方でも、選ぶ止まり方でもない、初めて見る止まり方だった。ペンは紙に触れたまま、彼女は俯いて、そのまま、動かなくなった。
一分。二分。水銀灯がジジ、と鳴いた。返事は、来なかった。
十七時五十五分の走行音が響き始めても、彼女は俯いたままだった。僕は仕方なく立ち上がり、乗車位置へ歩いて、いつものように片手を上げた。
彼女の指先は、今日は振り返されなかった。列車の窓から見えた彼女は、膝の上のスケッチブックの白紙をただじっと見下ろしていた。
……やってしまった。
帰りの列車で、僕は自分の一枚を何度も反芻した。『しんどい?』なんて雑な訊き方だ。図星なら詰まるに決まっている。
彼女の喉が『本当のこと』を通さないことを、世界で一番知っているはずの僕が、本当のことを正面から訊いた。
それは質問じゃない。通せない荷物を、無理やり門に押し込む行為だ。初めての不協和音だった。三か月と少し、僕たちの十分間はずっと、不思議なくらい正確に和音を鳴らしてきた。
その最初の濁りが、僕の指から出たのだった。
それでも、翌日。彼女はいた。いてくれた、と思った瞬間、彼女の方が先に掲げた。
『(凪咲) 昨日はごめん』
『(創太) こっちこそ、ごめん』
『(凪咲) 違うの』
彼女は一度ペンを止めて、それから、ゆっくりと続けた。一画ずつ、確かめるような字だった。
『(凪咲) 図星だった。それだけ』
『(凪咲) もう声が出ないの』
『(凪咲) 紙の上でも』
読みながら、僕は奥歯を噛んでいた。知っていた。観測していた。それでも、本人の字で確定される事実は、観測の百倍、重かった。
僕は、何を書けばいい。
頑張れ、は論外だ。「大丈夫」は無責任だ。「病院に行けば」は彼女の事情を知らなすぎる。「かわいそう」は彼女がいちばん嫌う言葉だ。
マーカーを持ったまま、僕は生まれて初めて、自分の武器が言葉しかないことを呪った。言葉の門が閉まりかけている人に、言葉しか渡せない。
……いや。違う。閉まりかけているのは『言葉』そのものじゃない。『出し方』の方だ。だったら。
僕はキャップを外して、書いた。
『(創太) 新ルールの提案』
彼女が、顔を上げた。
『(創太) 白紙OK』
『(創太) 白紙は詰まってる合図』
彼女は、長いこと、その二枚を見ていた。マスクの上の目が、何度か瞬きをした。それからペンを置いて、スケッチブックを一枚めくって、何も書いていないまっさらなページを両手で、胸の前に掲げた。
白紙が、水銀灯の光を受けて、ぼんやりと光った。僕もクロッキー帳をめくって、白紙を掲げ返した。十メートルの距離を挟んで、二枚の白紙が向かい合う。
書かれている言葉はゼロ。でも、白紙から伝わってくる言葉は、多分、この三か月で一番、多かった。白紙というのは、こんなにも雄弁な紙だったのだ。
やがて、彼女が白紙を下ろして、一行だけ書いた。
『(凪咲) この制度、天才?』
『(創太) 図書委員なので』
『(凪咲) 関係ある?』
『(創太) 管理のプロなので』
マスクの上の目が、三日月の形になった。よし、と思った。口元は見えなくても、目が笑えば、今日は勝ちだ。その日から、僕は毎日の十分間に、もう一つ日課を増やした。
四コマ漫画だ。
図書室のポップで鍛えた画力の平和的利用だ。主役は悩んだ末、あの駅員さんにした。
タイトルは『三崎賀原駅の一日』
第一話は、融雪剤を撒きすぎて階段が真っ白になり、雪が降ったのかと勘違いする駅員さんの話。
第二話は、自動販売機の補充のお兄さんと縄張り争いをする話。
第三話は、水銀灯の電球を替えようとして、ジジジという音に話しかけられる話。
くだらない。我ながら、心の底からくだらない。でも、四コマ目を掲げるたび、マスクの上の目が三日月になる。声のない笑いが、肩の揺れになって、十メートル先から届く。
『(凪咲) 駅員さんに許可取った?』
『(創太) 無許可連載です』
『(凪咲) 訴えられたら白紙を掲げること』
『(創太) 制度の悪用では』
彼女の筆記は、遅いままだった。往復は少ないままだったし、白紙が掲げられる日も、何度かあった。治ってなんかいない。僕の四コマは薬じゃないし、白紙の制度は治療じゃない。
それでも、と帰りの列車で僕は思う。
白紙を掲げられる場所を守ること、それが大事なんだと思う。でも、逆に言えば、そこまでしか僕にはできない。守るだけで、本当にいいのか。彼女の白紙を受け止める制度は作れた。
だけど、彼女の白紙を減らす方法を、僕はまだ一つも持っていない。石を置いたのは僕じゃないし、石をどかせるのも僕じゃない。
わかっている。わかっているけれど、窓の外を流れていく夜の町に向かって、僕は最近、同じ問いばかり繰り返している。
見ているだけで、いいのか。十メートルのこっち側にいるだけで。それでいいのかと。




