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【完結済】「十七時四十五分、向かいのホームの君」  作者: 瑠璃色に輝く希望
三章「世界で一番遠いチョコレート」
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二十三話

 一月の終わりに、一度だけ、耳鼻科に連れて行かれた。母は心配していた。長引く『喉風邪』を。診察室の先生は私の喉を覗いて明るい声で言った。


「うん、喉はとてもきれいですよ」


 母は目に見えてほっとして、帰りの車で言った。


「よかった。じゃあ、やっぱり疲れなのね」


 石は、写真に写らない。きれいな喉の奥で、写らない石だけが、今日も律儀に門を閉めている。名前のつかないものは、この世界では存在しないことになっているらしい。私は助手席で頷いて、窓の外の灰色の海を見ていた。


 家の中の暮らしは、少しずつ形を変えた。冷蔵庫の記録表の隣に、小さなホワイトボードが増えたのだ。母の発案だった。


「喉が治るまで、筆談でいきましょう。その方が楽でしょう」


 それは、実務的で、手際がよくて、善意の塊でできていた。私は毎朝『いってきます』と書き、母は毎朝「いってらっしゃい、早く治るといいわね」と声で返す。治るといいわね。治る、と母は信じている。


 疲れが取れれば、風邪が抜ければ、元の凪咲に戻ると。そのホワイトボードが、二月の頭に、思いがけない発見をくれた。


 教室では、友チョコの季節が始まっていた。「凪咲さんも作るよね?」の問いに、私はマスク越しに頷いて参加を表明した。


 隣の席の子、あの日、助け舟を出してくれた子には、少しだけ多めに渡そうと決めていた。声で言えないお礼を、糖分に変えて。


 そして、彼。


 白紙を掲げていい、と言ってくれた人。白紙のままの私を、白紙のまま受け取ってくれる人。


 その人にだけは、今は白紙じゃないものを、渡したかった。金曜の朝、私はホワイトボードに書いた。


『金曜の夜、キッチンを借りていいですか。クラスの友チョコを作ります』


 母は、ぱっと明るい顔になった。


「あら、いいわね! お母さんも手伝……」


 言い終わる前に、私はマーカーを取って、続きを書いた。書きながら、指先が少しだけ震えた。


『一人で、やってみたい』


 母の言葉が、途中で止まった。一秒。二秒。ホワイトボードと私を、母の視線が往復する。それから母は少しだけ困ったように、でも確かに、笑った。


「……そう。わかった。頑張ってね」


 ———通った。


 玄関を出て、坂を下りながら、私は白い息の中で何度もその事実を確かめた。通ったのだ。


 「一人でやりたい」


 九年前から一度も、声では通せなかった種類の言葉が。書き言葉でなら家の中でも、通った。石は、ペン先までは、まだ完全には降りてきていないらしい。それどころか。もしかしたら、紙というのは……。


 その先を考えるのは、まだ怖かったのでやめた。


 金曜の夜のキッチンは、戦場だった。レシピは学校の図書室で借りた製菓の本。板チョコを刻んで、湯煎して、一度目は、お湯が跳ねて分離した。茶色いはずのものが、ぼそぼその何かになった。


 私は静かに深呼吸して、二度目に挑んだ。温度計。ゴムべら。今度は、つやつやの液体がボウルの中で回った。型に流して、冷蔵庫へ。


 友チョコの袋詰めを終えたのは、日付が変わる少し前だった。そして最後に、ひとつだけ、別の箱を用意した。


 紺色の小さな箱。文房具店の隣のラッピング用品の棚で、一目で決めた色。彼のマフラーの、あの濃紺。そして、付箋を、一枚書いた。


『同志チョコです』


 書いて、しばらく、見つめた。


 『同志』


 彼がくれた、私たちのためだけの一語。正確で、あたたかくて、安全な言葉。安全すぎる言葉。


 ……安全すぎて、どこか物足りない。


 気がついたら、二枚目を書いていた。


 書いてから、心臓がうるさくなった。三十秒、いや、もっと迷った。あの紙には書けないことが、七十五ミリの付箋には書ける。


 それが私たちの法則だった。でも、この文字は付箋にすら、堂々とは書けない。だったら。


 私はその一枚を、箱のいちばん底に、そっと敷いた。チョコの下。銀色の緩衝材の、さらに下。見つかるかどうかは、箱の開け方に委ねる。


 付箋にも書けないことは、箱の底に沈めればいい。小さい紙ほど本当のことが書けるのなら、一番深い場所には、一番本当のことを。


 冷蔵庫の中で、チョコが固まっていく。ベッドに入ってから、私は渡し方のことを考えた。置き本便は、確実で、安全だ。でも、今回だけは、手渡ししたかった。ありがとうは、できれば、目の前で。


 跨線橋の一段目。十二月に一度だけ上ったあの緑の階段。誰もいない時間なら、渡れた階段。彼がいる時間に渡ったことは、まだ一度もない。


 一段目に足をかけるところを、私は頭の中で、何十回も練習した。上る。渡る。下りる。目の前に立つ。箱を差し出す。


 練習の中の私は、毎回、ちゃんと渡れた。渡れる、はず。明日、私は初めて、自分の足で、ルールを破ってでも、あの十メートルを渡る。


 そう決めたのだった。

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