二十四話
二月十四日の教室は、朝から糖分の匂いがした。
「なあ! 義理でもいい! 人道支援でもいい! 俺は今日、チョコという概念を一個でも持ち帰りたいんだよ!」
健人が両手を広げて演説し、女子たちが笑いながら小さな袋を投げて寄越す。
「はい、人道支援」
「概念どうぞ」
健人は袋を掲げて雄叫びを上げた。平和だった。水槽の中は、今日も平和だ。
「で、創太。お前は今日、なんでそんなにそわそわしてんの」
「……してない」
「してるって。二時間目からずっと窓の外見てるし。あれか、雪か。雪が好きなのか」
「雪が好きなんだよ」
「変わってんなあ」
雪は、昼過ぎから本格的にちらつき始めていた。積もらない、粉砂糖みたいなやつだった。
十七時四十五分。
彼女はいた。膝の上に、鞄と———小さな、紺色の箱。
マスクの上の目が、いつもより緊張していた。彼女はスケッチブックを開いて、今日の一枚目を書いた。ペンは、ゆっくりだった。ゆっくりで、でも、迷いはなかった。
『(凪咲) これ、あげる』
心臓が、大きく跳ねた。紺色の箱。今日の日付。世界中の教室で朝から騒がれていた、あの行事。
……いや、落ち着け。ただの友チョコかもしれない。健人のもらった「概念」と同じ。
『(創太) 明日、置き本便で?』
彼女は、首を振った。そして、立ち上がった。箱を両手で持って、ベンチを離れて、ホームの端へ。跨線橋の方へ。
僕は、固まった。
今は十七時四十八分だ。空白の十分間のど真ん中。これはルール違反だ。この時間には、決して線路を越えない。その条文を書いたのは、彼女自身だ。その彼女が今、自分の足で、自分のルールを破ろうとしている。
……止めるべきか。
クロッキー帳に手が伸びかけて、止めた。違う。これは事故じゃない。彼女は決めてきたのだ。あの箱とあの目を見ればわかる。
何十回も頭の中で練習してきた人間の歩き方だ。だったら、僕がやるべきことは、条文を盾に止めることじゃない。
……見ていることだ。最後まで。
彼女は跨線橋の下に立った。緑の手すり。十三段の階段。彼女は一度、白い息を大きく吐いて、一段目に、足をかけた。
かけた足が、止まった。上がらない。
十メートル先からでも、わかった。彼女の足は一段目の縁に触れたまま、根が生えたように動かなくなった。肩が、小刻みに震え始める。
手すりを掴んだ手袋が、緑のペンキの上で白く強張る。膝は曲がらない。喉と同じ場所がきっと、足にもあるのだ。本当のことを言おうとすると閉まる門が、本当の場所へ行こうとすると閉まる門が。
その一秒が、長かった。
走り出しそうになる足を、僕は全力で床に縫いつけた。だめだ。走るな。僕が跨線橋の下まで駆けつけて、手を引いて、迎えに行けば、今夜の彼女は運ばれる荷物になる。彼女の何十回の練習が、『失敗』の名前で確定する。それだけは、だめだ。
叫ぶのもだめだ。この駅の静寂の中で声を張り上げれば、あの夜と同じだ。強張った顔で涙を拭いて、逃げるように去っていく未来しかない。
だったら、僕の武器は最初から一つしかない。
僕はクロッキー帳を掴んで、極太のマーカーで大きく書いた。書いて、頭の上まで高く掲げた。
『(創太) 違反は罰金です』
彼女の震える肩が、止まった。ゆっくりと、こちらを振り返る。マスクの上の目が、泣き出す一秒前の形をしていた。僕はページをめくって、次の一枚を書いた。今夜一番、丁寧な字で。
『(創太) 戻っておいで』
『(創太) 全部見えてるから』
全部、見える。箱も。決意も。一段目の練習も。動かなかった足も。それが敗北じゃないことも。全部、ここから見えている。
彼女は長い事、こちらを見ていた。それから、一段目にかけたままだった足を、静かに引いた。手すりから手を離す。俯いて、ゆっくりと、自分のベンチへ戻ってくる。座る。膝の上の紺色の箱を、両手で包む。
しばらく、俯いていた。
やがて彼女は、顔を上げて、マスクに手をかけて外した。二週間ぶりの素顔だった。
泣いていた。泣きながら、笑っていた。あの夜と同じ、泣き笑い。でも、あの夜とはまったく違って見えた。水銀灯の白い光の下で、彼女は濡れた目のまま、ペンを取って、掲げた。
『(凪咲) ホーム越しで』
『(凪咲) ごめんなさい』
彼女は掲げたスケッチブックを箱へと持ち替えて、両手で持ち上げた。線路の向こうから、まっすぐこちらへ差し出すように掲げた。
十メートル。届かない。絶対に届かない距離で差し出された、世界に一つだけの箱。
僕は、書いた。
『(創太) 僕のチョコが』
『(創太) 世界でいちばん遠い』
彼女の泣き笑いが、決壊した。肩を揺らして、声もなく、粉雪の中で笑って泣いた。僕も、マフラーの中で笑っていた。笑いながら、目の奥が熱かった。
世界で一番遠いチョコレート。世界で一番遠い十メートル。
『(凪咲) 明日、送ります』
『(創太) 史上最高の便になる』
十七時五十五分の走行音が、雪の向こうから近づいてきた。彼女はマスクを、もう着けなかった。列車の窓から見えた最後の彼女は、素顔のまま、指先を小さく振っていた。
翌日、二月十五日。僕のベンチの手すり際に、紺色の小箱は、几帳面に置かれていた。角を、ベンチの縁と平行に。家に帰って、僕は椅子に座り直し、姿勢を正してから、箱を開けた。
一番上に、付箋が一枚。
『同志チョコです』
同志チョコ。彼女らしい、正確で、あたたかい命名だった。中には少しだけ不格好な、手作りのチョコレートが四つ。一つ口に入れると、ほろ苦くて、少しだけ甘くて、世界一の味がした。義理でも概念でもない、同志の味。
四つ目を食べ終えて、箱を仕舞おうとして、僕は手を止めた。銀色の緩衝材の下に、白い角が覗いていた。
もう一枚。箱のいちばん底に、沈めるように敷かれた、小さな付箋。僕はそれを、指先でそっと持ち上げた。
『……たぶん、嘘』
———時間が、止まった。
『同志チョコです。たぶん、嘘』
同志が。嘘。じゃあ、これは。この箱は。この四つは。あの彼女の一段目の覚悟は。あの泣き笑いは。
僕は付箋を持ったまま、しばらく動けなかった。マンションの部屋は静かで、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえていた。心臓の鼓動がうるさかった。頬が熱かった。やがて、身体中が熱を帯びた。
そして、認めるしかなかった。箱の底に潜っていたこの文字に、僕の中の一番深い場所が、まっすぐ返事をしてしまっていることを。
———僕もだ。
僕の『同志』も、多分、とっくに嘘だ。いつからかは、わからない。ポップの夜か、粉雪の日か、書店の三十センチか、白紙を掲げ合った夕方か。
気づけば、もう嘘になっていて、気づかないフリが、もう限界だった。
翌日の駅で、僕は一往復目にそれを掲げた。
『(創太) お返しは三月十四日に』
彼女の目が、丸くなった。それから、ゆっくりと三日月になった。
『(凪咲) 一か月後。忘れないでね』
『(創太) 忘れるわけがない』
八文字。一月七日の夜、独り言として声になった、あの八文字。今夜初めて、それは紙の上で、ちゃんと相手に届く形になった。
三月十四日。その日付はこの時の僕たちにとって、「お返しの日」になる。カレンダーの上のただただ楽しみな未来の一日だった。
でも、僕たちはまだ、何も知らなかった。駅の掲示板に、まだ、あの一枚の紙が貼られていなかったことを。




