二十五話
二月の最後の週、僕の毎晩の指折りは後十六日まで進んでいた。三月十四日。お返しの日。伝えたいことの中身は、まだ固まっていない。固まっていないくせに、指を折る手だけは毎晩律儀に動く。
楽しみで日を数えるという行動を僕は十六年目にして初めて覚えて、少し浮かれていたのだと思う。
十六年間、僕の毎晩には数えるほどの楽しみもなかった。折る指があるというだけで、夜の色が違った。だからその夕方、掲示板の前を、僕はいつも通り素通りしかけた。
三崎賀原駅の掲示板に貼られるものなんて、大体決まっている。色褪せたマナーポスターに落とし物のお知らせ。年末年始の運行案内。その隣に、新しい白い紙が貼られていた。
三歩、歩き。四歩目で、足が止まった。理由は自分でもわからなかった。ただ、何かが視界の端に引っかかった。
僕は引き返して、その紙の前に立つ。
『三月十五日、ダイヤ改正のお知らせ』
ダイヤ改正。
確かに時刻表というものは、季節ごと、年数ごとに形を変えていくものだ。十二月の僕が、「ふうん」と思って忘れた、あの一般常識。紙の下半分には、新旧の時刻の対照表が几帳面な罫線の中に並んでいた。
役所の作った、なんの感情もない表だった。フォントも、罫線の太さも、この五ヵ月を何一つ知らない顔をして、ただ数字を並べている。
世界は、いつだって突然に、紙切れ一つで変わってしまうものだという事を僕は忘れていた。上り欄の夕方の段を指でなぞる。
現行、十七時四十二分。次、十七時五十五分。それが僕の知っている世界のすべてだ。
四十二分に間に合わないように歩いて、五十五分で帰る。その間の十分間が、僕と彼女の世界だった。
新しい時刻表の同じ段。十七時四十二分。次、十七時四十六分。
……四十六分?
読み間違いだと思った。指でもう一度なぞる。十七時四十六分。夕方の上りが一本、増えている。下りの欄も見る。十七時四十四分の次が十七時四十八分。こちらも一本、増えていた。
頭の中で、新しいダイヤの十七時四十五分を組み立てる。
僕がホームに着く。一分後、四十六分の上りが来る。乗る。行ってしまう。彼女がホームに着く。二分後、四十八分の下りが来る。乗る。行ってしまう。
十分間の空白は一分になる。
一分。書いて、掲げて、読んで、返す。あの往復が一回も成立しない長さ。念のため、指で秒を数えてみた。マーカーのキャップを外して、一枚書いて、掲げて、それだけで、もう二十秒が消える。
相手が読んで、ペンを持って、書いて、掲げる。六十秒は、あっという間に底をつく。『さむい』『さむいね』の、あの七文字の往復ですら、多分、ギリギリだ。
「おう、常連さん。熱心だな」
振り向くと、駅員さんが箒を持って立っていた。僕は多分、ひどい顔をしていたのだと思う。駅員さんの笑顔が少しだけ困った形をしていた。
「……これ、決まりですか」
「ん? ああ、ダイヤな。決まりだよ。本部が決めることだからなあ」
駅員さんは箒の柄に顎を載せて、掲示を見上げた。
「なんでも、朝と夕方の利用者が増える見込みなんだと。ほれ、駅の向こうに新しい住宅地ができたろう。もうすぐ、人も住み始めるから便利になるんだとよ、この駅も」
便利になる。電車が増える。待ち時間が減る。移動時間が短くなる。世の中の物差しでは、それは全部、いいことだ。誰もが喜ぶだろう。本部も、新しい住宅地の人たちも、この駅の利用者も。
———でも、僕と彼女のこの空白は世界から姿を消してしまう。
「三月十五日からか」
駅員さんは、ぽつりと言った。
それから僕の顔と掲示を見て、それから二番線をちらりと見た。そして、箒を担ぎ直した。
「……まあ、あれだ。それまでは、今まで通りだ」
それだけ言って、詰所へ戻っていった。その背中がいつもより少しだけ丸く見えたのは、僕の気のせいだったかもしれない。この人は。毎日ここにいる。融雪剤を撒いて、電球を替えて、時刻表を貼り替えて。
だからきっと、僕たちの十分間のことも、貼り替える時刻表のことも、その両方の意味を誰よりも知っている。知っていて、貼り替える紙を自分の手で掲示板に留めたのだ。それも仕事のうちだから。
十七時四十五分。彼女はいつも通りに来た。
『(凪咲) あと十六日だね』
彼女も数えていた。三月十四日までのカウントダウンを。僕はマーカーを持ったまま、動けなかった。言うべきだ。今すぐ。掲示板はスロープと反対側の、改札の脇にある。彼女の動線からは、見えない。僕が言わなければ、彼女は知らないまま、あと十六日を数え続ける。
『(創太) あと十六日』
でも、僕が書いたのはそれだけだった。その夜の筆談を僕はほとんど覚えていない。覚えているのは、彼女のマスクの上の目が、ここ最近でいちばん穏やかだったことだけだ。
三月十四日という楽しみな未来をまっすぐに数えている目。あの目に向かって、「その翌日から、この十分間は消える」と掲げる勇気が、僕にはなかった。
帰りの列車の中で、僕は窓に頭を預けて、言い訳を並べた。今日じゃなくてもいい。確かめることがある。新しいダイヤでも、何か方法があるかもしれない。
休日は? 彼女の休日は、塾か家で勉強。じゃあ、別の駅は? 僕たちにはこの駅しかない。この駅の、この十分間しか。
言い訳は、四つ目で尽きた。残ったのは、みっともない本音だけだった。言いたくない。あの穏やかな目を、僕の一枚で曇らせたくない。一日でも長く、彼女に「あと十六日」を数えていてほしい。
その夜、僕は本気で、抜け道を探した。新ダイヤの時刻を紙に書き出して、睨んだ。四十六分の上りを一本見送れば? 次は五十八分。それなら空白は戻る。
でも、僕が一本見送ったところで、彼女の下りは四十八分に来る。彼女がそれを見送る理由はない。それに、彼女の親も帰りが遅いことを不審がるのではないだろうか。
それなら、土曜の朝は? 日曜の朝は? これはさっき考えたのと同じだ。彼女は家から出られない。別の駅で待ち合わせは? いや、僕たちには待ち合わせという概念が存在しない。連絡先も知らないし、お互いの名前すらも名乗ったことがないのだから。
抜け道はどれも、行き止まりだ。僕と彼女の世界は、この駅のこの十分間だけにしか存在しない。美しくて、脆い世界だった。
そもそも事実を伝えないこと自体、それは優しさではない。知っていて黙っているのは、普段から仮面を被って演じているのと同じようなものだ。本音を隠して、取り繕って、結果、何も残らない。それどころか相手から知る時間を奪ってしまう。
だから、明日言おう。僕はマンションの部屋で、クロッキー帳の新しいページに、下書きをした。
『大事な話がある』
これは違う。重すぎる。
『掲示板見た?』
これは軽すぎる。
書いては消し、消しては書いて、結局、白紙のまま眠った。白紙は『今詰まってます』の意味。自分で作った制度に、自分が救われる夜が来るとは思わなかった。




