二十六話
翌日の十七時四十五分。
言うと決めた僕より先に、様子がおかしかったのは、彼女の方だった。ベンチに座った彼女は、スケッチブックを開いて、ペンを持って、書かなかった。書きかけて、やめた。
ページの隅で小さく手が動いて、また止まる。白紙を掲げるのとも違う。書きたいことがあるのに書けないのとも少し違う。書かなきゃいけないことを書きたくない。そういう手の動きに見えた。
やがて彼女は、一枚目を掲げた。
『(凪咲) 置き本便を送ります』
『(創太) 了解。第何便?』
『(凪咲) ……号外です』
『号外』その二文字の周りだけ、彼女の字が、少し滲んで見えた。インクのせいじゃない。線が震えていた。
『(創太) わかった』
それ以上は、訊かなかった。多分、訊けなかったが正しいかもしれない。帰りの列車で、僕は号外という二文字を反芻した。
新聞の号外は事件が大きすぎて、定期の発行を待てないときに出る。彼女の号外も、そういう類のものなのだろう。定期便の枠には、収まりきらない何か。
滲んだ字。震えた線。
僕が伝えたかったことも、本当は号外だった。二人とも、号外を抱えたまま、いつも通りの十分間をいつも通りに演じた夜だった。
翌日。僕のベンチの手すり際に、置かれていたのは本ではなかった。白い封筒が一通。几帳面に、角をベンチの縁と平行にして。持ち上げると、中で紙が一枚、静かに滑る音がした。
封筒は、軽かった。便箋一枚分。羽みたいな軽さ。その軽さが、逆に怖かった。重大な知らせほど、その大きすぎる事実に比べて、質量自体は軽いものだ。ダイヤ改正の掲示だって、たった一枚だった。
僕はその場では開けなかった。開けられなかった。封筒は軽い。そのはずなのに、鞄から出したてのひらの上で、それは石みたいに重かった。
あの彼女がわざわざ号外と書いたのだ。良いニュースではないものだと薄々気づいている。だから、尚更、開けられない。
十七時四十五分になって、彼女がホームに現れて、僕が封筒を持っているのを確かめて、それから、目で頷いた。開けての合図だった。
封筒の中身は、便箋が一枚。学校のノートの切れ端でも、スケッチブックの厚紙でもない。淡い水色の、このために、わざわざ買ったであろう便箋。この一枚のために、文房具店の棚の前に立つ彼女を想像して、僕は封を切る前から、少しだけ、泣きそうになった。
そこに並んでいた文字を、僕は生涯、忘れないと思う。内容のせいだけじゃない。字のせいだ。字が崩れていた。行の頭が揃わない。文字の大きさが、一文字ごとに違う。払いが震えている。書いては手が止まり、止まっては、また書いた、その戦いの跡が、紙の上に全部残っていた。
『四月から、東京の学校に編入することが決まりました。全寮制の学校です。引っ越しは、三月十五日。学校から母に私の声のことが伝わりました。担任の先生は、心配してくれただけです。誰も悪くないです。母は、環境を変えるのがいちばんいいと考えています。静かで、こういった症状の専門の先生もいて、勉強に集中できる学校。『私のためになる方を選びましょう』と、母は言いました。九年前に私が絵画教室を辞めて、代わりに塾に通うことになった時と全く同じでした。ごめんなさい。掲げて伝える勇気がありませんでした。この手紙も、書くのに、三日かかりました。もうどんな言葉も重くなっているのに、あなた宛ての言葉だけはまだ、書けました』
顔を上げると、彼女はベンチで、まっすぐにこちらを見ていた。マスクの上の目は、逃げていなかった。三日かけて書いた一枚を僕が読み終えるのを、逃げずに待っていた。
三月十五日。その日付が頭の中で、掲示板の白い紙と重なった。偶然にしては、タイミングがぴったりすぎだ。こんな事、現実に起こるなんて思いもしない。
でも、春というのは、そういう季節なのかもしれない。時刻表が変わり、学年が変わり、人が変わっていく。世界中の『区切り』が示し合わせたかのように同じ月に重なる。
僕はマーカーを取った。手が震えていた。
『(創太) 読んだ。ありがとう』
まず、それを掲げた。励ましでも、慰めでもなく、受領の一枚。彼女の目が、少しだけ緩んだ。それから僕はページをめくった。次の一枚は僕の番だった。昨日、言えなかった、僕の号外。
こんな形で出すことになるなんて、思ってもみなかった。
『(創太) 僕からの号外』
『(凪咲) ?』
『(創太) 改札の脇の掲示』
『(創太) ダイヤ改正が貼ってある』
『(創太) 僕らの空白は消える』
彼女は、動かなかった。読み終えて、掲示板のある方角を見て、それからゆっくり、こちらに視線を戻した。ペンを取って書き始める。
『(凪咲) 同じ日』
『(創太) そう。同じ日』
三月十五日。彼女がこの町を出る日。この駅の空白が消える日。二つのタイムリミットは、最初から一枚のカレンダーの同じマスに印されていた。
そして、僕たちは、ほとんど同時に、同じことに気づいたのだと思う。彼女のペンと僕のマーカーが、ほとんど同時に動いて、ほとんど同時に掲げられた二枚には、同じ日付が書かれていた。
『(凪咲) 三月十四日』
『(創太) 三月十四日』
そのあと、沈黙があった。どちらもペンを持たなかった。持てなかった。掲示板の紙と、水色の便箋。二つの号外が同じ日付を指していた。
まるで僕たちのこの世界に最初から期限が設定されていたみたいに。誰も悪意なんて持っていないのに。誰も、悪くないのに。お返しの日。伝えたいことがある日。指を折って数えていた、楽しみなだけの未来。
それが今、『最後の日』という名前に書き換えられた。
楽しみで心待ちにしている日とこれほどまでに来ないで欲しいと思っている日が、同日にやってくる。そんな出来の悪い冗談を、いまだに僕は信じられずにいた。




