七話
『星の王子さま』
ベンチの手すり際に、それは置かれていた。カバーの端が白く色褪せた、古い文庫本。背には、何度も開かれた本にしか刻まれない細かなしわが寄っている。
持ち上げると、まだほんのかすかに、鞄の中の温度が残っている気がした。ほんの十分前まで、これは線路の向こう側の世界の住人だったんだ。
その夜。一人きりのマンションで、僕は椅子に座り直し、なぜか姿勢まで正してから表紙を開いた。そして見返しのところで、手が止まった。
『白瀬凪咲』
小さな几帳面な字。インクの色がわずかに褪せているから、この本を買った日にでも書いたのだろう。今の彼女の字より、少しだけ幼い字。
『しらせ なぎさ』と読むのだろうか?
———名前を、知ってしまった。
口からその名前を出そうとして、やめた。声に出したら最後、『向かいのホームの君』は『白瀬凪咲さん』という一人の特定の人物になってしまう。
それは、あの空白の十分間に跨線橋を渡るのと同じくらい、いや、それ以上に、後戻りのできない越境だ。知らないふりをしよう。そう決めた。この名前は筆談でも呼ばない。
この四文字には、見返しの中で静かに眠っていてもらう。僕が知っているということを、僕だけが知っていればいい。
ページをめくる。
ところどころに、鉛筆の薄い線が引かれていた。消しゴムで消しきれなかった線の亡霊も残っている。引いて、消して、また引いたのだろう。
自分の星のバラが唯一では無かったと知って、草むらで泣くくだり。キツネとの別れ際、「大切なものは、目に見えない」と教わるくだり。そして、重いからだを残して、自分の星へと帰っていく、あの終盤。
そのあたりの数ページだけ、紙がほかより柔らかくなっていた。何度も何度も開かれたページにしか宿らない、あの柔らかさだった。本を読んでいるはずなのに、僕は彼女の時間を追体験しているみたいだった。
彼女がどこで立ち止まり、どこで息を止め、どのページの上で泣いたのか。線と、折り目と、紙の柔らかさが、全部を教えてくれる。
読み終えて本を閉じたとき、時計は日付を越えていて、僕はしばらくの間、ただ天井を見ていた。
……おかしなものだと思う。『星の王子さま』自体は、読んだことがある。
筋も、結末も、全部知っていた。それなのに、彼女の一冊は、まるで別の本だった。同じ活字が、同じ順番で並んでいるだけなのに。
本というのは多分、読んだ人間の時間を吸って、一冊ずつ、別の本になっていくのだと思う。
だとしたら、僕が今夜読み終えたのは、『星の王子さま』であると同時に、彼女の過ごした時間でもあるのだ。
返礼の本を選ぶのには、まる一日かかった。
翌日の放課後。僕は当番でもないのに、図書室の書架の前に立っていた。
彼女の『星の王子さま』に釣り合う一冊。背表紙に指を滑らせながら、我ながら柄にもなく、真剣に悩んだ。最初に手が伸びたのは『銀河鉄道の夜』だった。星つながりだ。無難で、正しいと思われる選択。
だから、やめた。
正しすぎる返事は、たぶん会話をそこで終わらせてしまう。国語のテストの模範解答みたいな返礼を彼女は望んでいない気がした。
次に考えたのは、うんと明るい本だった。腹を抱えて笑える類のやつ。泣いていた彼女への、処方箋のつもりで。
でも、これもやめた。『泣いていた彼女に』という発想そのものがなんだか上からで、彼女の涙を『治すべき症状』みたいに扱っている気がして、嫌になった。彼女は、きっとあの涙ごと、『よだかの星』という一冊を大事にしているのに。
閉館時間ぎりぎりまで棚の前をうろついて、結局、答えは図書室にはなかった。家の本棚のいちばん手に取りやすい段にずっと前からあった。
『夜のピクニック』
高校生たちが、夜を徹してひたすら歩き続ける、ただそれだけの物語。歩きながらでしか言えないことが、あの本にはたくさん出てくる。
だったら、十メートル越しでしか書けないことだって、あっていいはずだった。図書委員になった年に小遣いで買って、初めてポップまで作った正真正銘の私物。
見返しを開いて、僕は初めて自分の本に自分の名前を書いた。
『真木創太』
彼女だけが名乗って、僕が黙っているのは、フェアじゃないから。それから付箋を用意した。それを『夜のピクニック』の表紙の裏に。
『十分間の同志』よりと。
二日後。委員会の当番がない日を選んで、十七時三十五分、今度は僕が跨線橋を渡った。上りきった通路の窓から見下ろす線路は、拍子抜けするほど細かった。
二番線に下り、彼女のベンチの手すり際へ、二冊を重ねて置く。ふと振り返ると、一番線に僕のベンチが見えて、軽い眩暈がした。毎日の自分の定位置を、線路の向こう側から眺める。鏡を初めて見せられた動物みたいな、落ち着かなさだった。
彼女はこの前、ここに立ったのか。ここから、あの日僕を———。
……いや、これは考えないでおこう。
十七時四十五分。互いに素知らぬ顔の応酬。やがて彼女がベンチの上の本に気づき、両手でそっと持ち上げた。この前の僕と変わらない持ち方だった。
この数日後、この仕組みには正式名称がついた。彼女の命名で、『置き本』
対する僕の渾身の対案『三崎賀原駅間移動文庫』は、『長い』のたった二文字で瞬殺された。
『役所みたいな名前もいいと思うんだけど』と抗議したら、『役所は好きじゃない』と真顔で返ってきて、ごもっともすぎて笑うしかなかった。
****
『夜のピクニック』を家に持ち込むのは、ちょっとした密輸作戦だった。英語の参考書のブックカバーを付け替える。机の上での定位置は、参考書棚の英語の列。
読むのは、決まって、勉強が終わって、母の監視の目が無くなった後のベッドの上。常夜灯の明かりでページをめくっていたら、廊下で床の鳴る音がして、本を布団の中に隠したこともある。
「凪咲、まだ起きてるの?」
「うん、単語、あと少しだけ」
声は、するりと出た。掃除当番を交代してもらったときと同じだ。嘘だけがすらすらと出る。布団の中で本を抱えたまま、私は暗闇に向かって、聞こえないくらい小さく声を出す。
『ごめんなさい、お母さん。今夜の私は英単語より大事なものを読んでいます』
見返しの『真木創太』の字を見たときは、正直、少し笑ってしまった。書き慣れていないのが丸わかりの緊張した字。私が名乗ってしまったから律儀に名乗り返してくれたのだ。
……この人はそういう人なんだ。フェアであろうとする人。
『まき そうた』
多分、そう読む。口には出さない。出さないけれど、その日からこの四文字は、どんな科目の重要暗記事項よりも、私の中心に住所を持った。
表紙裏の付箋『十分間の同志より』
同志。恋人でも、友だちでも、知り合いでもない。それなのに、それ以外に言いようのない間柄。この人はこういう言葉を選んでくる。数ある言葉の中から、私たちのためだけの一語を正確に引き当ててくれる。
読み終えた夜、私は返却用の付箋を書いた。
『夜通し歩くのと、毎日十分だけ書くの、どっちが遠くまで行けると思う?』
正直、書いてみて、自分でも、何を言いたいのか、よく分からない質問だった。
それから、もう一枚。ペンを持ったまま、しばらく迷った。スケッチブックに掲げるには小さすぎて、でも、どこにも書かずにおくには、少しだけ重すぎる本音。
『今日、教室でたくさん笑った。頬が痛い。本当は、笑ってないのに』
三十秒ほど迷って、結局、挟んだ。不思議だった。あの紙には書けないことが、七十五ミリの付箋になら書ける。大きな声では言えないことが、小さな声でなら言えるのと、たぶん同じ理屈だ。
こうして、置き本と付箋の往復が、私たちの二本目の連絡回線になった。掲げる言葉が『会話』なら、挟む言葉は『手紙』だった。彼の付箋はいつも短くて、まっすぐで、時々ずるいくらい優しかった。
あの付箋『頬が痛い』の返事には、たった五文字だけが書かれていた。
『頬お大事に』
その文字を電車の中で読んだ時、私は思わず、口元を手で隠した。あの質問への返事も、忘れられない。次の置き本の見返しに、彼はこう挟んで寄越した。
『あの本の歩行祭は一晩で終わる。こっちは終わりが決まってない。だから、こっちの方がずっと遠くまで行ける』
『終わりが決まっていない』
その付箋を私は単語カードの箱の下から、定期入れの内側へ移した。もう少しだけ、肌の近くに置いておきたかったから。
毎朝、改札で定期をかざすたびに、カードの下でその一枚が眠っている。終わりの決まっていない十分間が、今日も一回分、私の一日に組み込まれている。
そう思うだけで、母のカレンダーの赤丸が、ほんの少しだけ小さく見えた。定期入れは少しずつ、時刻表に載らない時間の束になっていった。
改札の機械は毎朝、何も知らない顔でそれを通して、私をこのホームに招き入れていた。




