六話
十一月の下旬、彼女の首元に濃紺のマフラーが定着した頃。冬が本格的に来るその前に、彼女がそれを言い出した。
『(凪咲) 本を貸したい』
『(創太) 読みたい』
我ながら、過去最速の返信だった。マーカーが紙を擦る音が、勢い余って、キュッと、高い音を出したくらいだ。掲げてから、肝心なことに気づいて、二枚目を継ぎ足す。
『(創太) どうやって?』
僕たちの間には十メートルの距離と線路がある。声も届かないその隔たりを、文庫本一冊が越える方法。そこからの数日間は、ちょっとした作戦会議をした。
初日、僕の第一案は即刻、却下された。
『(創太) 投げる』
『(凪咲) 落ちるよ』
『(創太) 肩には自信がある』
『(凪咲) 本に謝って』
ごもっともだった。次善の案として、僕は現実的なところを出してみた。
『(創太) 駅員に預けるのは?』
この返事には、少しだけ間があった。彼女はペンを持ったまま、二呼吸分ほど考えて、それから書いた。
『(凪咲) 他の人には秘密』
……ああ、そうか。と思った。わかる。わかってしまう。
この十分間は、時刻表の谷間にできた、僕たちだけの空白だ。誰かを一人でも間に挟んだ瞬間、ここは「誰かに説明できる関係」になってしまう。名前も、素性も知らない。線路の向こうの人。その説明できなさこそが、僕たちの呼吸を楽にしているのだから。
翌日、彼女は完成形を持ってきた。スケッチブックに描かれていたのは、図解だった。駅の見取り図。跨線橋。時計の絵に『十七時三十五分』。ベンチの端、手すり際に置かれた本の絵。
そして矢印は、置いたらすぐに自分のホームへ引き返すルートを示している。
『(凪咲) 渡す方が置く』
『(創太) 会うのは?』
我ながら、少し踏み込んだ質問だった。彼女のペンは、今度は迷わなかった。
『(凪咲) いつもの十分、それ以外』
『(凪咲) 越境を許可します』
『許可します』の律儀な字面に笑ってしまったけれど、書かれている中身は、ルールというより法律だった。
空白の十分間には決して線路を越えない。互いの世界に触れていいのは、相手がいない時間だけ。彼女は、この仕組みを設計した。
この関係を壊さないために、わざわざ遠回りの手順を組んでいる。そして僕には、その慎重さの意味が痛いほどわかる。
僕たちは二人とも知っているのだ。同じホームに立って、生の声で「こんにちは」と言ってしまえば、何かが決定的に変わってしまうことを。
———この空白が心地の良い余白ではなくなってしまうことを。
『(創太) 了解。賛成』
『(凪咲) 明日、第一便発送』
『(創太) 宅配便か』
『(凪咲) 三崎賀原駅前郵便局です』
そんなやり取りで、その日の残高は尽きた。
十七時五十五分の列車の窓から、律儀に頭を下げて見送る『郵便局員』が見えて、僕は堪えきれずに、マフラーの中で笑った。
****
翌日の進学コースにだけある七時間目を、私は人生で初めて、上の空で過ごした。
……嘘だ。上の空そのものは、何度もある。模試の結果を待つ日。母の機嫌の読めない日。
でも『楽しみ』が理由で上の空になったのは、多分、初めてだった。
放課後、私は小さな工作をした。掃除当番を替わってもらった。
「珍しいね。凪咲さんが頼むの」
「ごめんね。ちょっと、用事があって」
声は、するりと出た。
……嘘なのに。いや、嘘だから、なのかもしれない。
本当のことを言おうとすると詰まる喉が、こんな小さな嘘は素通しにする。私の身体は、つくづく私に意地悪だ。
十七時三十一分、三崎賀原駅。ホームに人影はない。鞄の中には一冊の文庫本。鞄がいつもよりずっと重い。
跨線橋の階段の一段目に、足をかける。心臓がうるさい。悪いことなど何一つしていないのに、国境を越える密航者の気分だ。
……でも足は、すくまなかった。誰もいない時間になら、ここを渡れる。
跨線橋はこの駅と同い年で相当古かった。手すりの緑のペンキはところどころ剥げて、下から錆色が覗いている。鉄板の踏面は一歩ごとにたわんで、こん、こん、と低い音を鳴らした。
誰もいない駅に、私の足音だけが響く。囲いの金網を冬の始まりの風が細く鳴らして通り抜けていった。
階段を上がりきると、通路の小さな窓から線路が見下ろせた。二本のレール。十メートルの隔たり。毎日私たちを隔てているものは、上から見れば、夕暮れの残りを鈍く照り返す、ただの細い鉄だった。
……なんだ、こんなものなんだ。と思った。
一番線に、下りる。彼のホーム。空気が違う気がするのは、たぶん気のせいだ。同じ駅の、同じ冷たい風。何も変わらない、はず。
それでも私は、初めて上がり込む他人の部屋みたいに、足音を殺して歩いた。彼のベンチ。
彼が毎日座っている場所。座面の端が、ほんの少しだけ艶を帯びている。毎日、同じ人が、同じ場所に座り続けるからだ。私と、同じ。何気なく振り返って、私は息を呑んだ。私のベンチが見えた。
二番線のいつもの席。毎日私が座って、ペンを走らせたり、笑いを噛み殺したり、泣いたりしている場所。
彼は毎日、ここから、あそこにいる私を見ていたのか。あの日の惨めだった私はここからどんなふうに見えていたのかな。
……よく、声をかけてくれたものだなと思う。十メートルは、こちら側から測ると、思っていたよりずっと遠かった。声をかけるには、相当な覚悟が必要だったと思う。
それから、少しだけ魔が差した。ほんの十秒だけ、と自分に許可を出して、私は彼のベンチに、座ってみた。座面は氷みたいに冷たかった。彼は毎日、ここから十分間を始めるんだ。
正面を向くと、視界のちょうど真ん中に、私のベンチがまっすぐ据えられていた。逃げも隠れもできない、特等席。
……ここから見える毎日の私は、どんな私なのだろう。ちゃんと、笑えているのだろうか。
……八、九、十。十秒を心の中できっかり数えて、立ち上がった。
スカートの皺を直す。座った証拠はどこにも残らない。残らないけれど、世界に一つ、誰にも言わない秘密がまた増えた。頬が、少しだけ熱い。
彼が毎日座るベンチの冷たさを、私は知った。
十七時三十六分。
文庫本を、手すり際に置く。表紙を上に。本の角を、ベンチの縁と平行に。我ながら几帳面が過ぎると思ったけれど、直せなかった。
それから少しだけ迷って、誰も見ていないのをいいことに、彼のベンチへ小さく頭を下げた。
『よろしくお願いします』と。何を、なのかは、自分でも分からないまま。
跨線橋を渡り終えて二番線に下りた直後、十七時四十四分の下り列車が滑り込んできて、二人だけ客を降ろし、また出ていった。
十七時四十五分。
私は何食わぬ顔でベンチに座り、単語カードを開く。彼が来る。いつも通りの歩調で、いつも通りにベンチへ向かい、止まった。気づいた。
彼はゆっくりとこちらを見た。私は単語カードから顔を上げない。上げないけれど、口元だけが言うことを聞かない。
視界の端で彼がそっと文庫本を大事そうに持ち上げるのが見えた。両手で。まるで壊れ物みたいに。
……大げさだな。ただの、古い文庫本なのに。
でも、その持ち上げ方を見た瞬間、私は理解してしまった。
恐らく、私は今日この人に、ただの古い文庫本ではない何かを渡したのだと。
そして彼はそれをちゃんとそういうものとして、受け取ったのだと。




