五話
翌日の十七時四十五分。僕は約束のものをクリアファイルごと胸の前に掲げた。
完成したポップ。夜空に重ねた二色の青。右下の隅で翼を広げるよだか。その視線の先、左上の空に置いた惹句。
———『いちばんみにくい鳥が、いちばん遠くまで飛んだ。』
彼女は立ち上がって、ホームの黄色い線の際まで出てきた。たっぷり三十秒は眺めて、それからベンチに戻り、書いた。
『(凪咲) 合格』
『(創太) 安心した』
『(創太) 厳しい先生だから』
『(凪咲) どの先生が?』
『(創太) 向かいの美術部の』
彼女は肩をすくめてみせた。とがめるような、くすぐったそうな、器用な仕草だった。
後日談。数日後の放課後。
図書室のカウンターにいた僕の背後で、司書の先生が掲示板の前に立ち止まった。先生は僕のポップを指して「これ、誰が作ったの」と聞いた。
名乗り出ると、「構図がいいね、構図が。夜空の空け方が上手」と、まるで僕と彼女のやりとりを聞いていたような褒め方をした。
……まあ、考えたのは、僕じゃないんですけどね。
その日の駅で、僕は一部始終を報告した。
『(創太) ほめられた。特に構図』
『(凪咲) 良かったね』
『(創太) 半分はそっちの手柄』
『(凪咲) 賞金は折半で』
『(創太) お金は出ない』
そして、読書週間が中盤に差しかかった頃には、もう一つの報告が加わった。
『(創太) よだかの星、貸出四件』
『(創太) 新記録です』
冷静に考えれば、しょぼい記録だ。ベストセラーなら数日で超える数字だし、そもそも『僕の作ったポップの中で』という限定つきの一位でしかない。それでも彼女は両手を叩いて喜んでくれた。それから少しだけ考えて、書き直した。
『(凪咲) 空にとび立ったね』
……その一言は、ずるいなと思った。
僕はただ、絵の成果を自慢したかっただけだ。なのに、彼女の一言で、この『四』という数字の意味が変わってしまった。あの孤独な鳥の話を、うちの学校の誰かが四人、鞄に入れて家に持ち帰った。四つの部屋で、四つの夜に、あの鳥は空をかけたのだ。
十一月の日々は、瞬く間に過ぎていった。毎日きっかり十分間。書いて、掲げて、読んで、返事を待つ。七~八往復、多くて十往復。ただそれだけの、けれど、何よりも確かな定例行事。
ある日は、絵しりとりをした。
『りんご』の絵から始まったそれは、三巡目で早くも文明の衝突を起こした。
彼女の描く『ゴリラ』は美術の資料集みたいに正確で、水銀灯の下で見ると普通に怖い。対する僕の「ラッパ」は、我ながらどう見ても水道の配管だった。
極めつけは彼女の『パトカー』で、掲げられたのは、ただの黒いセダンだった。首を傾げる僕に、彼女は不本意そうな顔で描き足した。車体の屋根に、着脱式の赤色灯を。
『(創太) それは反則』
『(凪咲) 本物っぽさの追求』
『(創太) 本物っぽさは不要』
そう紙を掲げる彼女は、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべていて、それが、無性に可愛らしかった、
ある日は、持ち越しで問答をした。これは、この十分間が生んだ僕たちの発明だった。十七時五十五分の走行音が聞こえてから、彼女がお題だけを掲げた。
『(凪咲) 無人島に一冊』『持っていくなら?』
答えを書く時間は、もうない。僕は宿題を抱えたまま列車に乗り込み、一晩かけて考えて、翌日の一往復目で答えを掲げる。
『(創太) サバイバル本』
『(凪咲) ロマンがない』
『(創太) 生きてこそだ』
『(凪咲) よだかの星は?』
『(創太) それは多分泣く』
『(凪咲) 泣けるんだ?』
……一本、取られた。あの日の僕の最初の文字を、彼女はちゃんと覚えているのだった。
たった十分しかないという制約を、僕たちは少しずつ、遊びに変えていった。時間の残高を数えながら言葉を削る癖も、答えを一晩持ち越す焦れったさも、慣れてしまえば、そういうルールのゲームだった。
むしろ、制限時間があるからこそ、一手一手が濃くなる。将棋の早指しに似ているのかもしれない。
……別に将棋が、得意なわけではないけれど。
見送りにも、いつの間にか流儀ができていた。
十七時五十五分の走行音が聞こえると、彼女は書きかけでも必ずペンを置き、スケッチブックを膝の上に伏せて、こちらを見る。僕は鞄を持って立ち上がり、乗車位置まで歩く数歩のあいだに、片手を軽く上げる。彼女は掲げる代わりに、指先だけで小さく振り返す。
列車が入ってくる。扉が開く。乗る。そして僕は毎回、決まってホーム側の窓際に座る。動き出した窓の外で、彼女は必ずもう一度だけ顔を上げて、通過していく僕の窓を目で追う。読み取れるはずのない一瞬に、僕は口の形だけで「また明日」と言う。
伝わっているのかどうかは、わからない。わからないけれど、翌日の彼女の一往復目は、決まって少しだけ機嫌がいい。
先に行くのはいつも僕で、見送るのはいつも彼女だった。ダイヤがそう決めているだけの、ただの偶然。それなのに時々、ほんの少しだけ、申し訳ないような気持ちになる。誰もいなくなったホームで一分間、彼女はどんな顔で五十六分の列車を待つのだろう。
十一月も中旬を過ぎると、彼女の手元に白い手袋が現れた。ペンを持つときだけ、右手の手袋を外す。かじかむ指先に息を吹きかけながら書くものだから、寒い日の彼女の文字は、心なしか少しだけ丸くなる。
僕はいつの間にか、掲げられた文字の丸みで、向こうのホームの体感温度がわかるようになっていた。
雨の日は少し困った。屋根があるとはいえ、ボロボロなため、雨が吹き込んでくるのだ。
傘とスケッチブックとペンは、両手では数が合わない。彼女は屋根の下ぎりぎりに立ち、傘を首と肩で挟む器用な体勢で書いて、掲げた。
『(凪咲) あめ、きらい』
漢字を書く余裕もなかったらしい。ひらがな四文字の脱力っぷりに僕は吹き出しかけて、慌てて咳払いでごまかした。声の届かない距離のはずなのに、彼女はなぜか勝ち誇った顔をしていた。
ちなみに雨越しでも、僕たちの筆談は問題なく続行できた。眼鏡もコンタクトも挟まない裸眼同士というのは、この十メートルにおいては、ちょっとした才能の一致だと思う。
学校の話も、少しずつ増えていた。もちろん、固有名詞は抜きで。
『(創太) クラスは何人?』
『(凪咲) 四十人。廊下に順位が出る』
『(創太) 廊下に?』
『(凪咲) 月に一度、テストの』
さらりと書いてあったけれど、僕はその光景を想像して、少しぞっとした。四十人分の何番という数字を、毎月廊下で公開される日々。
彼女はそれを『そういうものだから』という顔で書く。でも、その顔の作り方を僕はよく知っている。
『(凪咲) そっちは?』
『(創太) 貼られない』
『(凪咲) 平和』
『(創太) 平和のかたまり』
『(凪咲) 交換して』
『(創太) 何を?』
『(凪咲) 学校』
冗談の形をしていた。していたけれど、たぶん、半分は本気だった。
一度だけ、『学校の名前は――』と書きかけたことがある。ペン先が「名」の途中で止まって、僕はその行を、太いマーカーで黒く塗りつぶした。
書いてしまえば、この時間は終わってしまう。そんな気がした。その制服から校名は互いに既に分かっている。
でも、あえて、それを紙面上に書き出す事は、この空白の時間の一番大事な柱を抜くことのような気がした。塗りつぶした黒い四角に気づいた彼女が、首を傾げて、『?』と掲げた。
『(創太) 書き損じ』
彼女はそれ以上、訊いてこなかった。多分、彼女のスケッチブックのどこかにも、同じ黒い四角が一つや二つあるからだと思う。
名前も、学校も、訊かない。どちらが決めたわけでもないその決まりは、そうやって、黒い塗りつぶしの数だけ、静かに増えていった。
風の強い日もあった。木枯らし一号が吹いたと朝のニュースが言っていた日。ホームの古い屋根が、かたかたと鳴り、線路の砕石の間を枯葉が転がっていく。マフラーに顎を埋めた彼女が、いつものようにスケッチブックを開いた。
その瞬間だった。
突風がページをさらった。ばらばらばら、と紙が音を立てて勝手にめくれていく。彼女は慌てて押さえようとして、一瞬、本当にほんの一瞬だけ、いつも飛ばされる最初の方のページがこちらを向いた。
そこには色があった。白紙のはずのスケッチブックの序盤に、淡い青と、燃えるような橙。多分、空と海。十メートル先の一瞬でわかったのはそれだけで、次の瞬間には、彼女が両腕でスケッチブックを抱きかかえるように押さえ込んでいた。
顔を上げた彼女と、目が合う。急いで、彼女はスケッチブックに書き込む。
『(凪咲) 見た?』
『(創太) 見てない』
『(凪咲) うそ』
『(創太) ……半分見た』
『(凪咲) 没収します』
『(創太) 何を』
『(凪咲) 今の記憶を』
真顔でそんなことを書くものだから、僕は吹き出してしまった。けれど、マフラーの上に覗く彼女の耳が赤いのは、どうも寒さのせいだけではなさそうだった。少し迷ってから、僕は正直に書いた。
『(創太) 綺麗な色だった』
彼女はペンを持ったまま、しばらく固まった。ペン先が紙に触れたまま、動かない。
———また、あの止まり方だ。ポップの日にも見た。疲れているんだろうか。それとも、踏み込みすぎただろうか。僕が謝罪の言葉を考え始めたところで、彼女の手は、そっと動き出した。
今日いちばん小さな字だった。
『(凪咲) いつか。描けたら』
『いつか』その言葉を、僕は勝手に、約束として受け取ることにした。あの最初の数ページに眠っているものを、僕はまだ知らない。知らないままでいる。
彼女が『いつか』と言ったのだから、その日が来るまではそれでいい。
そして、教室にも小さな変化は起きていた。
「なあ創太、お前さ、最近なんかあった?」
昼休み。購買の袋からパンを取り出しながら、健人が唐突に言った。心臓が嫌な跳ね方をした。
「なんかって」
「いや、なんかさ……機嫌いいだろ、最近。前はもうちょい、こう、営業スマイルっぽかったのに」
営業スマイル。健人の語彙にしては、鋭すぎる一言だった。いつもなら考えるより先に出るはずのツッコミが、わずかに遅れる。
「気のせいだろ。ああ、そういえば、購買のコロッケパンが復活したからかもな」
「あー、それはあるわ。あのコロッケパンはマジで文化遺産だからな。で、聞いてくれよ、昨日も唐揚げがさあ――」
話は無事に唐揚げへ着地した。助かったのか、ほんの少しだけ残念だったのか、自分でもよくわからなかった。仮面の下が、漏れ始めている。長年かけて完成させた『都合のいい友人A』の顔に、管理できていない表情が混ざり始めている。
「危ないな」と思った。
でも、今は何故かそれを直す気には、どうしてもなれなかった。




