表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/19

四話

 十一月に入ると、十七時四十五分のこの場の空気は目に見えて冷たくなった。ブレザーの下にセーターを着込むようになり、吐く息がうっすらと白く見える日が増えた。


 日没はどんどん早まって、僕がホームに着く頃には空の茜色はもうほとんど残っていない、そんな季節になっていた。


 その日、様子がおかしかったのは、彼女ではなく、僕の方だった。


 発端は昼間の図書委員会だった。秋の読書週間に向けて、図書委員は一人一枚、推薦本のポップを作ることになっている。担当の本は自由。そして、僕はよりによって自分から、あの本を推薦することにしてしまった。


『よだかの星』


 あの日以来、返却棚でこの背表紙を見かけるたび、目が勝手に追いかけるようになっていた。だから、どうせ描くなら、と思ったのだ。


 それがまさか、こんなことになるとは。描こうと思っても、描けない。正確に言えば、描いても、描いても『何か』が違った。


 ポップなんて今まで何十枚も作ってきた。頼まれた本をそれなりに読み、それらしい絵とそれらしい惹句をつけて、適当に仕上げる。


 誰にも期待されていない掲示物に、誰も文句なんて言わない。それでよかったはずだ。


 なのに、初めて『上手く描きたい』と思った途端、手が動かなくなった。皮肉なものだと思う。本音を言おうとすると声に出せないのと、多分、同じ仕組みだ。


 ベンチに座った僕は白い明かりの下でクロッキー帳を開き、何度目かの下書きを眺めて、ため息をついた。


 紙の真ん中に、太いマーカーで描いたよだか。その上に惹句。


『いちばんみにくい鳥が、いちばん遠くまで美しく飛んだ』


 文字も絵も、間違ってはいない。間違っていないのに、動きがない。生きている感じがしない。描かれたよだかは、まるで死んでいるみたいだった。


 僕は視線を感じて、顔を上げた。


 向かいのベンチの彼女が、スケッチブックを胸の前に掲げて、こちらをじっと見ていた。


『(凪咲) 何かあった?』


 ……見られていたのか。頭を掻いたり紙を睨んだりしていた一部始終を。この前と立場が逆だ、と思った。この前は僕が気づく側だったのに。


 少し迷ってから、僕は観念して、下書きのページをそのまま彼女に向けて掲げた。我ながら締まらない話だが、隠すほどのことでもない。


『(創太) ポップ、何か違う』


 彼女は返事を書かなかった。代わりに腰を浮かせ、ホームの黄色い線のぎりぎりまで進んで、目を細めるでもなく、紙の隅の小さな星の一つ一つまで読み取るようにじっと見た。


 互いに視力は恵まれているようだ。でなければ、この十メートル越しの品評会はそもそも成立しない。たっぷり三十秒ほど眺めてから、彼女はベンチに戻り、今までで一番速くペンを走らせた。


『(凪咲) 鳥を右下へ』


『(凪咲) とぶ先の空を』


『(凪咲) 大きく開けて』


 ……とぶ先の空。


 言われた瞬間、自分の絵の死因がわかった気がした。僕のよだかは紙のど真ん中で、行き先も持たずに、標本みたいに貼り付けられていた。慌てて新しいページに描き直す。鳥を右下の隅へ。左上に向かって、何もない大きな夜を。マーカーがキュッキュッと鳴る。掲げる。


『(創太) こう?』


『(凪咲) そう。文字を上に』


 文字を鳥の視線の先へ。空白だった夜に『いちばんみにくい鳥が、いちばん遠くまで飛んだ。』を移した瞬間、紙の中で、生命が宿った。惹句が星になって、ただの掲示物が飛翔の一枚になった。


 顔を上げると、彼女は身を乗り出すようにして僕の手元を待っていた。掲げる。彼女は胸の前で両手を小さく打ち合わせ、それから急いで書いた。


『(凪咲) 合格』


『(創太) 完璧。天才?』


『(凪咲) 美術部なので』


『美術部なんだ』と書きかけてやめた。もう時間はあまりなさそうだ。書く、掲げる、読む、返事を待つ。この十分間の残高はもうあと二往復もない。訊きたいことは山ほどできてしまったのに。


 いつから描いているのか。どんな絵を描くのか。あのスケッチブックのいつも飛ばされる最初の数ページには何が眠っているのか。


 その全部を諦めて、僕は一番大事なことだけを書いた。


『(創太) これで戦える』


 彼女がふふっと息だけで笑うのが見えた。それから返事を書こうとして、その手が、ふっと止まった。


 ペン先が紙に触れたまま、数秒、動かない。さっきまであんなに軽やかに走っていた手が止まった。俯いた顔から表情は読めない。


 僕が首を傾げて見せると、彼女は我に返ったように小さく首を振り、何でもなかったかのように続きを書いた。


 きっと疲れでもしているんだろう。名門女学校で普段から勉強に忙しいに違いない。それに加えて、今日は僕の絵にまで付き合わせてしまった。


 十七時五十五分の走行音がレールを伝ってきた。もう時間切れだ。


 彼女は慌ただしくページをめくり、今日一番大きな文字を書いて、両手で高く掲げた。


『(凪咲) また明日』


 ———また明日。


 その文字を掲げたまま、彼女は発車する僕の列車を見送った。加速していく窓ガラスの向こう、流れて遠ざかるホームに白い息と、ネイビーの制服と、『また明日』の文字が水銀灯の光の中で残像のように焼き付いて離れなかった。


 今までの僕の『明日』はただの繰り返しだった。同じ教室、同じ会話、同じ笑顔。でも、最近は間違いなく、違ってきている。


 その夜、一人きりのマンションのテーブルで、僕はポップの仕上げに色を差した。よだかの飛ぶ先の夜空に青を二色、重ねて塗る。我ながら、過去一番のポップの出来だった。


 誰に頼まれたわけでもないのに絵筆が止まらない夜と明日の十七時四十五分を心待ちにしている自分。


 ———そのどちらも、楽しかった。こんなに楽しいと思ったのは、いったい何年ぶりのことだろう。


 僕は出来上がったポップを眺めながら、『明日は何を話そうか』と一人で会話を想像してしまうのだった。


  ****


 今日、ペンを持つ手が止まった理由。本当は理解している。


『美術部なので』


 自分で書いた五文字を掲げながら、私は自分で驚いていた。美術部なので。まるで、ずっとそう名乗って生きてきた人みたいに、するりと出てきた六文字。


 ……本当は、籍があるだけの幽霊部員なのに。本当はこの六文字を家では一度も口にしたことがないのに。彼は『天才?』と書いてくれた。『これで戦える』とまで言ってくれた。何と戦うのかは分からないけれど、きっと彼なりの感謝なのだと思う。


 私の絵の見方が、十メートルの向こうで誰かの役に立った。その瞬間、押し入れの奥で眠っているクリアファイルのことを思い出してしまった。


 小学六年生の秋だった。私は当時、絵画教室に通っていた。


 町の写生大会で私は海を描いた。目の前に広がる海、そして、灰色の防波堤と、夕方のオレンジに染まった空、その間を横切っていく黒い電線。覚えている。


 防波堤の端に画板を抱えて座って、潮の匂いと遠くの船のエンジンの音の中で、私は時間を忘れて、その風景を描いていた。


 出来上がった作品を見て、先生は「凪咲さんは空の色を混ぜるのが上手ねえ」と褒めてくれて、金色のシールが貼られた賞状と一緒に、絵は一週間、市民ホールのロビーに飾られた。


 返却された絵を私は両手で抱えて家まで走った。「廊下を走っては駄目」といつも言われていたのに、その日は玄関から台所まで走った。


「お母さん、見て!」


 母はちゃんと喜んでくれた。それは、覚えている。「まあ、上手ねえ」と目を細めて、夕飯にはハンバーグを一品増やしてくれた。嘘みたいに嬉しい夜だった。あの夜の食卓の眩しさを、私は今でも覚えている。


 その夜のうちに、母は絵を丁寧にクリアファイルへ仕舞った。折れないように厚紙を当てて、「大事に取っておこうね」と、押し入れのアルバムの箱の上へ。


 それから、こう言った。


「凪咲は集中力があるのね。この集中力をお勉強に向けられたら、鬼に金棒ね」


 悪意なんて、どこにもなかった。ただの、褒め言葉の続きだった。そして、次の春、中学に上がった頃、近所の絵画教室の月謝袋は、進学塾の封筒に変わった。


「どっちもは難しいから、凪咲のためになる方にしようね」


 母はそう言って、私の頭を撫でた。私は頷いた。撫でられた頭で、頷く以外のやり方を、まだ知らなかった。私の海は、それから一度も、押し入れから出ていない。丁寧に保存されて、丁寧に封印されている。


 母はきっと、今でもあれを『大事に取ってあるのよ』と言うだろう。嘘じゃない。捨てられるより、ずっと優しい。でも、もう取り出せない。それはその優しさのせいなのかもしれない。


 それから、喉に初めて石が生まれた朝のことも覚えている。


 中学三年生の冬。大事な模試の朝だった。母の車の助手席。フロントガラスの向こうで信号が赤に変わって、母は機嫌よく、頻出英単語の問題を口頭で出してくれていた。


 前の晩、ほとんど眠れていなかった。本当は、お腹の奥が冷たくて、「今日、ちょっと体調悪いかも」と、それだけ言いたかった。


「……」


 言おうとして、息だけが出た。声にならなかった。喉の奥で、何か小さくて硬いものが、言葉の通り道を塞いでいた。


 母は沈黙を良い方に受け取った。


「あら、集中しているのね」


「違うよ」とそう言おうとした声も、せき止めている石の向こう側で溶けて消えた。


 私は結局、頷いて、膝の上で手を重ねて、出された問題を全問正解した。答えを言うときの声はちゃんと出た。必要とされている言葉なら、喉は通してくれた。


 ———通してもらえないのは、いつだって、私自身の心の奥の本当の言葉だけだった。


 その日の模試は、何故かそれまでの人生でいちばんいい判定が出た。母は喜んで、結果が出た夜には、祖母へ電話をかけた。受話器の向こうの声が少しだけ漏れ聞こえた。


「凪咲ちゃんは、本当にできた子ねえ」


 黙ることで褒められた。飲み込むことで点数になった。そんな積み重ねを通じて、私の喉は少しずつ、正しく詰まっていった。


 こんな風になってしまったのは、誰のせいでもないのだと思う。でも、強いて言うなら、この方法しか知らなかった、あの頃の私のせいだ。


 高校に入って、入部届に『美術部』の三文字を書いた日、指先が震えた。本当は、出さないのが正解だった。部活動なんて、母の予定表のどこにも枠が用意されていない。それでも、ペン先は勝手に動いた。家の誰にも言っていない。


 あの一枚は、私の人生で初めての秘密だった。


 でも結局、部室にはほとんど行けていない。籍だけの幽霊部員。押し入れの中の海と大して変わらない。そのはずだった。


『美術部なので』


 あの六文字を書いた瞬間、押し入れの中の海が十年ぶりに動いた気がした。構図のことなんて、誰にも習っていない。絵画教室は小学校で辞めている。


 それでも、飛ぶ先の空間を空けるとか、視線の先に言葉を置くとか、そういうことを、私の目と手はちゃんと覚えていた。丁寧に封印されたはずの私が動きだして、十メートル先の誰かの役に立った。


『これで戦える』


 あの文字を読んだとき、笑ったと同時に、何故か泣きそうになった。だから、手が止まった。それだけの話。


 その貰った言葉に対して、私が次に書く言葉が『どういたしまして』でいいはずがなくて、かといって本当の言葉、『あなたの役に立てて、生き返った気がした』なんて、言葉は重すぎて、まだとても書けなくて。


 だから私は一番軽くて、でも本当の言葉を選んだ。


『また明日』と。


 帰りの下り列車の窓を夜の海が流れていく。昼間なら水平線の見える区間も、今はただ、街灯の点線と真っ暗な広がりがあるだけ。


 押し入れのクリアファイルの中で、私の海は今も、小学三年生の時間のまま、眠っている。オレンジの空の色を私はまだ覚えている。混ぜた絵の具も、全部。


 ……彼は知らない。


『これで戦える』の六文字が、私の海にまで届いてしまったことを。


 私たちは、まだ何も知らない。お互いの名前も、好きな食べ物すらも。それでも届くものだけが、あの十メートルを渡っていく。


 ……彼のポップの中で、よだかは空を飛ぶのかな。図書室のたくさんの人が通りかかる壁の上で。


 ……だったら、私の海にも、いつか。


 膝の上の鞄を上からそっと押さえる。この厚みの中には、誰にも見せていない数ページが筆談の内容と一緒に綴じられている。


 明日も、十七時四十五分はやって来る。時刻表のどこにも載っていない、私と彼の時間が。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ