三話
「なあ創太、聞いてくれよ。今朝コンビニでさ、前の奴が肉まんとピザまん同時に買ってたんだよ。信じられるか?」
「別にいいだろ。その人、腹が減ってたんだよ」
「よくねえ! 肉まんには、肉まんの、ピザまんには、ピザまんの世界観があるんだよ。同時に買うってことは魂が二つに割れてんだ。この意味、分かるか?」
「分からねえよ! それに、お前、先週、購買で焼きそばパンとカレーパン同時に買ってたよな。同じだろ」
「あれは主食とおかずだから成立してんの!」
翌日の昼休み。一年三組の教室には、昨日と寸分違わぬ健人のでかい声が響いていた。僕がツッコんで、周りの奴らが笑う。何も変わらない。いつも通りの水槽の中。
でも、そんなのはどうでもいい。僕は昨日の事だけを考えていた。駅のホーム。水銀灯に照らされた震えた不器用な文字。
……あれは、現実だったんだろうか。
一晩経つと、自信がなくなった。あまりにも日常から切り離れた出来事だったから、夢を見ただけのような気さえしてくる。彼女は今日も来るだろうか。あんなふうに涙を見せて、見ず知らずの僕と紙面上で言葉を交わしてしまったことを後悔しているかもしれない。この『何もない駅』を避けて、別のルートで帰ることを選んでもおかしくない。
放課後。図書委員の当番で返却本を書架に戻しながら、僕は柄にもなく、ずっとそんなことを考えていた。当番を終え、鞄にクロッキー帳を入れる手が一瞬だけ迷う。
……でも入れた。必要になりそうな気がしたから。
学校から駅までの二十分が、今日はやけに長かった。
十七時四十分。
僕はいつものように上りホームのベンチに座り、ひどく落ち着かない気分で向かいのホームを見つめていた。遠くで、踏切の警報音が鳴り始めた。十七時四十二分の上り列車が来る。その直前、駅へと続く短いスロープにネイビーのブレザーのシルエットが現れた。
僕は、ほっとして、肺の奥で息を吐き出した。彼女は昨日と変わらない端正な足取りで下りホームへ歩みを進め、いつものベンチに腰を下ろした。そして、膝の上に置いた鞄を開く。そこから、取り出されたものを見て、僕は少しだけ、目を疑った。
それは文庫本でも、昨日破り取った大学ノートでもない。それは、リング綴じの立派なスケッチブックだった。表紙のロゴからして、美術部などが使う画用紙の束だ。
彼女はそれを膝の上に置き、一度だけこちらを見て、ほんのわずかに、小動物が様子を窺うような控えめな動作でこくりと頷いた。言葉は何もない。けれど、そのスケッチブックの存在こそが、彼女からの明確な意思表示だった。
———この時間を続けたい。
僕も無言のまま、鞄から図書委員のクロッキー帳を取り出し、膝の上に置いた。古い水銀灯の青白い光の下。十メートルの空間と二本の線路を挟んで、二冊の画用紙が向かい合う。
その夜から、僕たちの『十分間の筆談』はそうしておずおずと定例化していった。
****
「凪咲、単語カードは持った? 電車の中の時間も無駄にしないでね」
「うん、ちゃんと鞄に入ってるよ。いってきます。お母さん」
朝七時のダイニング。栄養バランスの計算され尽くした朝食とキッチンのカレンダーの模試の日を囲む赤い丸。後、十二日。母の視線がその赤丸と私を往復するたび、喉の奥が強張る。
逃げるように私は家を出て、学校に向かう。
「凪咲さんのノートって、ほんと美術品みたいに綺麗だよね。心まで整っているんだろうなあ」
昼休みの教室で友人が私のノートを覗き込んで言う。私は「そんなことないよ」と微笑む。
白鳥は今日も優雅に水面を滑る。誰も知らない。この白鳥が一昨日、駅のホームで人目を憚らず泣いたことも。見ず知らずの男の子と紙とペンだけで会話をしたことも。
その秘密は制服の内側で、小さな熾火のように温かかった。机の引き出しの奥、単語カードの箱の下に隠した一枚の切れ端のことを思うだけで、午後の小テストも少しだけ軽くなった。
放課後、久しぶりに美術室に顔を出した。籍だけ置いている幽霊部員の私に顧問の先生は「白瀬さんは来られる時だけでいいのよ」と笑ってくれる。
油絵具の匂い。ここは校内で唯一、成績の話をされない部屋。ロッカーから私物のスケッチブックを取り出す。
表紙をめくった最初の数ページには、母の知らない絵が眠っている。通学の車窓から覚えた海辺の風景、夕暮れの送電線、名前のない野良猫。恐らく、母からしたら『無駄なこと』をこっそり描き溜めた、私だけの紙面上の空間。
———これを持っていこうと思った。
ノートの切れ端じゃ足りないと思った。小さくて、薄くて、サインペンのインクが裏に抜けてしまう。それに何より、切れ端というのはいかにも『その場しのぎ』の道具のように思える。
もうあの一回で、私の中では、あのやりとりは、その場しのぎではなくなってしまった。
スケッチブックを鞄に入れる。厚みの分だけ、鞄が重くなる。怖くないと言えば嘘になる。
でも、鞄を持ち上げた腕は不思議なくらい軽かった。
帰り道、駅前の小さな文房具店に寄った。そんな何でもない予定にない行動を取るだけで、心臓がこんなにうるさくなるなんて思わなかった。
太い黒のフェルトペンを一本、レジに持っていく。店番のおばあさんが「あら、学校の課題に使うの?」とにこにこ話しかけてきて———
喉が、きゅ、と締まった。声が出ない。私は曖昧に微笑んで、小さく頷くことしかできなかった。
……結局、レジで声は出なかった。でも、ペンは買えた。今日はそれでいい。
十七時四十五分。二番線のベンチ。
私は真新しいフェルトペンのキャップを外し、スケッチブックを開いた。秘密の風景画たちのページをそっと通り過ぎて、まっさらなページに書く。そして、立ち上がり、掲げる。
『(凪咲) これからはこれで』
向かいの彼は、目を丸くして固まった。わかりやすい人だなって思った。それから、彼は慌ててクロッキー帳をめくって、掲げる。
『(創太) 個展開催した?』
『(凪咲) 白紙の個展です』
『(創太) 埋まる予定は?』
『(凪咲) 協力してくれるなら』
『(創太) いいよ』
私は自分の意思でこのやり取りを続けることを決めてしまった。母も知らない、学校の友人も知らない。私だけの秘密だ。多分、この瞬間は当分、忘れない、と思う。
そう思うと、スケッチブックの厚い紙の質量がやけに重く腕にかかった。
十七時五十五分、彼の上り列車が先に来る。乗り込む直前、彼はこちらに向かって、ほんの少しだけ手を上げた。挨拶と呼ぶには小さすぎる、でも見間違いではない。そう思う。
彼を乗せた列車が行ってしまうと、ホームには私と水銀灯の光だけが残される。一分後に来る自分の下り列車を待ちながら、私はスケッチブックの最後に書いたページを見下ろした。
『協力してくれるなら』
———ずいぶん遠回しな言い方をしたものだと思う。
……でも、本当は、文字数さえ許せば、こう書きたかったんだよ。
「明日も、明後日も、これから、ここで話しましょう」と。




