二話
向かいのホームで泣いている彼女を見た瞬間、僕は、かつての自分を思い出していた。
あれは小学生の頃。両親の怒鳴り合いが終わった後、電気の消えた暗い部屋で誰にも迷惑をかけまいと、クッションに顔を押し付けて、声を殺して泣いていた僕と同じだ。
息ができなくて、寂しくて、誰かに「助けて」と言いたかったのに―その声の出し方が、分からなかった僕。
きっと、声を殺して泣く人間は声を殺して泣いたことのある人間にしか見つけられない。
「関わるな。他人に干渉するな」
事なかれ主義の僕が、何年もかけて心の奥に沈めてきた感情が鎖を引きちぎって浮上してくるのが分かった。抑えられなかった。
―今、目の前の彼女はあの日の僕なんだ。とそう思ってしまった。そんなのはただの思い込みだ。自分勝手な投影だ。分かっている。それでも。
……声を、かけなければ。
だけど、どうやって? この静寂の中で大声を張り上げて「大丈夫ですか」と叫べば、彼女はきっと強張った顔で涙を拭い、何でもないふりをして、逃げるようにこの場を去ってしまうだろう。
そして明日から、この十分間の空白に彼女は二度と現れなくなる。それは駄目だ。直接すぎない、何か。逃げ道を残した、何か。言い訳が必要だ。鞄の中を探る。指先に触れたのは、図書室のポップ制作のために持ち歩いていた、クロッキー帳。それと極太の油性マーカー。
手が震えた。寒さのせいじゃない。こんなにはっきりと自分の意思で他人に踏み込むのは、いつぶりだろうか。キャップを外す。キュポンとプラスチックの乾いた音が、やけに大きく響いた。真っ白な紙の上で一度ペン先が止まる。
何を書く? どこまで踏み込む? どこで、踏みとどまる? とにかく考えながら、インクを滑らせる。キュッ、キュッと、静寂の駅にマジックの摩擦音だけが響いた。
十メートル。声は届かなくても、この距離なら、この文字で多分届く。書き終えたクロッキー帳を胸の高さに掲げ、僕は向かいのホームの彼女を真っ直ぐに見つめた。心臓が嫌になるくらい速く打っている。
不意に視線を感じたのか、彼女がビクッと肩を震わせて顔を上げた。涙で濡れた瞳が、驚きに見開かれる。彼女の視線の先には線路越しにクロッキー帳を掲げる、見知らぬ男子高校生が映っているはずだ。不審者だと思われても仕方ない。通報されても文句は言えない。でも、僕はクロッキー帳を上げ続けた。
そこに大きく書かれた文字を読み取って、彼女は息を呑んだようにこちらを見つめた。
『(創太) 本、泣けるんですか?』
彼女が泣いている理由には、一切触れなかった。
『あなたが泣いているのは、本のせいだ』ということにしておく。
あなたの涙は、あなたの抱えている何かのせいじゃない。ただの読書感想だ。そういうことにしておけばいい。
―そんな、臆病者なりに計算した距離感の言葉。
彼女は一瞬、呆然としたように、僕とクロッキー帳を交互に見つめた。長い、長い数秒間。水銀灯がジジ、と鳴いている音だけが聞こえた。
そして、彼女は、膝の上の本にゆっくりと視線を落として、―まるで、限界まで張り詰めていた氷が、ふっと溶けるように。ほんの少しだけ、泣き笑いのような表情を浮かべた。
彼女が動いた。鞄の中からノートを取り出し、ページを数枚、破り取る。ビリ、という小さな音まで、十メートル先の僕の耳に届いた気がした。ペンケースからサインペンを取り出し、ベンチを下敷きにして、何かを書いている。俯いたうなじに、水銀灯の白い光が落ちていた。
やがて、彼女は立ち上がり、僕がそうしたように、その紙を連続で胸の前に掲げた。
『(凪咲) よだかの星』
『(凪咲) 知ってる?』
そこには、整った容姿とは裏腹に少し震えた、不器用な文字が並んでいた。
僕は、小さく息を吐き出した。
……知っている。宮沢賢治の作品。他の鳥たちに疎まれ、名前さえ奪われそうになり、地上に居場所をなくして、たった一羽で夜空の果てへ飛んでいって、夜空で光り続ける星になった鳥の物語。
図書室の書架で、何度も背表紙を見てきた。そして、僕自身、何度も読み返してきた。彼女はあの物語を読んで泣いていたのか。それとも、あの物語に自分を重ねて泣いていたのか。
―多分、後者だ。分かる。だって、僕がそうだったから。
彼女も一人で夜空へ飛び立ち、よだかの星のようになりたいのかもしれない。誰にも本当の声を聞かせられないから。誰も自分の事なんて分かってくれないから。
僕はクロッキー帳のページをめくり、新しい紙に迷いなくペンを走らせた。今度は、手は震えなかった。
『(創太) 知ってるよ、僕も』
『(創太) 星になりたいから』
掲げたその文字を彼女が読み取った瞬間、彼女の瞳から、再び、大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
けれど、それは先ほどまでの、絶望に満ちた涙とは違っていた。俯かず、顔を隠さず、僕を真っ直ぐに見つめたまま流す涙。張り詰めたものが決壊した涙ではなくて、凍っていたものが溶け出した涙。そんな風に見えた。
その瞬間、言葉を一度も発することなく、名前も知らないまま、十メートルの境界線を越えて、二人の孤独が静かに共鳴した。
十七時五十五分。
遠くから、下り列車の接近を知らせる低い走行音がレールを伝って響き始める。空白の十分間の終わりの合図。彼女がはっとしたように紙を下ろし、慌てて目元を拭った。それから、ほんの少しだけ、ぎこちなく、けれど確かに、僕に向かって頭を下げた。
たった十分間の世界から切り離された軌道上の空白の時間。声を出さずに泣いていた彼女と本音を押し殺して笑っている僕。決して交わるはずのなかった二つの軌道が、古い水銀灯の下で、静かに重なり合った。
―そんな、気がした。




