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一話

「だから言っただろ、創太! 唐揚げに勝手にレモンをかける奴は人権を剥奪されても文句は言えねぇんだよ!」


「お前、昨日も言ってただろ。どんだけ唐揚げが好きなんだよ」


「本当のことだからだ! 俺はレモンなんかサッパリしたものよりも、マヨとかで、こう、もっとガッツリいきたいんだよ! その方が美味いし、デカくなれるにきまってる!」


「購買のパンにまでマヨかけてた奴の食育論とか誰が聞くんだよ」


「うるせえ! あれはマヨが主食でパンがおかずなんだよ!」


 数時間前。


 昼休みの一年三組の教室には、昨日と何一つ変わらない前嶋健人(まえじまけんと)の無駄にでかい声が響いていた。窓際の席を囲んで机をくっつけた四人分の弁当。誰かのスマホから流れる音量最小のゲーム音。廊下から聞こえる女子の笑い声。


 そんな日常という名前の巨大な歯車が、今日も正常に稼働している音がしていた。


「もう国が法律作るべきだよな。唐揚げレモン事前確認法」


 僕は完璧なタイミングでツッコミを入れ、口角をきっちり三ミリ持ち上げて笑う。


「それだ! 創太、お前、やっぱり、最高だな! 分かってんじゃん!」


 健人が僕の肩をばしばし叩き、周囲の奴らも同調して笑う。誰もが平和で、誰もが楽しそうだ。僕が今、顔の筋肉をどれだけ不自然に引き攣らせて笑っているかなんて、誰も気にしていない。気づいてもいない。この笑顔が、鏡の前で作り方を覚えた量産品だということも一切だ。


 会話のテンポを読む。求められている相槌を、求められている温度で打つ。ボケには即座にツッコミを返し、誰かの自慢話には二割増しの驚きで応じ、悪口には賛同も否定もせず曖昧に笑う。


 そういう仮面を被って演じるだけで、この教室という水槽の中を波風立てずに泳いでいける。


 この学校において、友人たちの目に映る僕は「ノリが良くて、空気が読めて、波風を立てない、都合のいい友人A」といったところだろう。それでいい。むしろ、それがいい。


 この表面上だけの関係で充分だ。仮面というのは、被っていることを気づかれなければ、これほど便利な道具はないのだから。


「そういや創太、放課後、カラオケ行かね?」


「悪い、今日図書委員の当番」


「まじめか! じゃあまた今度な」


「おう、また今度」


 ―また今度。便利な言葉だ。約束のふりをしていて、その実、約束を回避するような言葉。


 放課後。


 図書室のカウンターで返却本のバーコードを読み取り、書架に戻し、貸出記録を整理する。図書委員の仕事は嫌いじゃない。本は喋らないし、顔色を窺う必要もない。借りに来る人も、大人しい人ばかりで最低限の事務的な言葉しか発しない。この時間は、苦痛ではない。


 そのまま、当番を適当にこなし、誰とも約束をせず、僕は一人で学校を出た。


 校門を抜けた瞬間、肺の奥に溜まった淀んだ空気を吐き出すように、深く息をつく。空気を読み、他人の顔色を窺い、本音を殺して笑い続けた八時間分の給排気。白い息が夕暮れの空気に溶けて消えた。


「言葉は凶器」だと、僕はそう思っている。冗談でも比喩でもなく、本気で。


 特に「心からの本音」という奴は、たちが悪い。あれは核兵器に匹敵する凶悪さを持っている。たった一言で、何年もかけて積み上げた関係を更地にする。たった一言で、人の心を灰にする。放った側にも、放たれた側にも、消えない汚染を残す。


 昔、僕はそれを二度、目の前で見た。本音と本音が正面衝突して、一つの家庭が、親友関係が目の前で崩れ去っていったのを。


 だから、僕は本音を語らない。もう、深い人間関係も要らない。上辺だけの言葉で、上辺だけの日々を、取って付けたかのような笑顔で過ごしていけばいい。それなら誰も傷つけないし、誰にも傷つけられない。


 傷つくくらいなら―傷つけるくらいなら、きっとそれが正しい。正しい、はずなんだ。


  ****


「いってらっしゃい、凪咲。今日も頑張ってね」


 私、白瀬凪咲しらせなぎさは、母の笑顔を見るのが、この世の何よりも恐ろしかった。


 朝七時の白瀬家のダイニング。焼き立てのトーストの匂い。丁寧に淹れられた紅茶。テーブルの上には、栄養バランスを完璧に計算された朝食とその横に、今日の分の英単語カード。母の一日は、私の一日のために設計されていた。


「お母さん、凪咲のために特別なお弁当のメニューを考えたのよ。頭や身体にいい食材ばかり集めたの。次の模試も、この調子なら絶対にA判定よ」


「……ありがとう、お母さん。いつもすごく美味しいお弁当作ってくれるから、楽しみだよ」


 喉の奥がきゅうっと引き攣るのを必死に堪えながら、私は『完璧な娘』の笑顔を作った。口角の角度も、声の高さも、もう何年も演じてきたから間違えることはない。


 母には一切の悪意がない。それが一番苦しい。


 母方の実家、この白瀬家は、名家と言えるほどではないけれど、世間体をひどく重んじる厳格な一族だ。親戚が集まれば、話題は決まって「どこの子がどこの高校、大学に受かったか」とそんな話ばかりだった。きっと祖父母は、母に対して、私の育て方の採点をし続けているのだと思う。


 そんな白瀬家に婿入りした父は単身赴任で、三人で住んでいるこの家にはほとんど居ない。だからこそ、母は家にいない父の分まで『優秀な自慢の娘』を育て上げることに今の自分の人生の全てを懸けている。


 模試の判定表をファイルに綴じ、塾の説明会に通い、私の体調と睡眠時間を手帳に記録する。それが母の生きがいで、母の戦いで、母の愛だった。


 だから、そんな母の努力を否定することなど、私にはできない。


「もう疲れた」


「そんなに高いレベルの大学になんて、行きたくない」


「普通の高校生活を送りたい」


 そんな本音はきっと、凶器になる。私を心から愛してくれている母を、地獄へ突き落としてしまう。この本音は、母の十六年間を『無駄だった』と宣告する死刑判決なのだ。


 ……こんなの、絶対に言えるはずがない。


 愛情という名の真綿で、ゆっくりと首を絞められながら、私は今日も『母の期待に応える完璧な娘の凪咲』を演じる。


 ……いつからだろう。極度のプレッシャーを感じると、喉が詰まって、声がうまく出せなくなったのは。


 最初は模試の朝だけだった。それが面談の日になり、母と成績の話をする夜になり、今では一日のほとんどの時間、喉の奥に小さな石が挟まっているような感覚がずっと消えない。


 学校で声が出なくなったときは、友人には「ちょっと喉の調子が悪くて」と微笑んで誤魔化しているけれど、本当は違う。きっと私はもう、自分の本当の声の出し方を忘れてしまったのだ。


「凪咲さんって、白鳥みたいに優雅だよね」


 学校で、友人たちは私をそう褒めてくれる。顔が整っていて、姿勢がきれい。成績が良くて、先生からの信頼も厚くて、いつも穏やかに微笑んでいて。水の上を優雅に滑る、白鳥みたい。そういう言葉をかけてくれる。


―でも、違うの。


 水面の下で、必死に足掻いているの。溺れないように。沈まないように。誰にも見えないところで、ずっと。


 最近、せめてもの抵抗で母の車での送迎を断った。


「これからのことを考えて、自分自身で自律した行動を取りたいの。もし、遠くの大学に入ったら、一人で全部、やらなきゃいけないと思うし」


 もっともらしい建前を並べて、ようやく勝ち取った電車通学。母は少し寂しそうな、けれど誇らしそうな顔で「凪咲は本当にしっかりしているのね」と言った。その言葉に胸がずきりと痛んだ。


 でも、管理されたスケジュールの中で、電車通学は母の視線から逃れられる唯一の手段だった。


 十七時四十五分。学校からの帰り道、この三崎賀原駅の下りホームのベンチに座った瞬間だけが、私が『ただの凪咲』に戻れる時間だった。


 特進クラスの補講後に終礼を終えて、丘の坂を下りてくると、四十四分の下り列車には、どうしても間に合わない。次の下りは五十六分。それまでの十分あまり、駅には、目の前の彼以外、誰もいなくなる。


 向かいのホーム、いつも一人で座っている男子生徒。学ラン姿の静かな人。彼はいつも、五十五分の上り列車に乗って先に行く。私と同じで、ダイヤの隙間に取り残されている人なのだと思う。


 その理由は知らない。知る必要もないと思う。十メートルの距離と二本の線路がお互いを風景のままにしてくれている。それが心地よかった。


 冷たいベンチに座って、鞄の中から一冊の文庫本を取り出す。宮沢賢治の『よだかの星』。


 よだかは、醜い鳥だ。顔はみそをつけたようにまだらで、くちばしは裂けている。他の鳥たちから疎まれ、鷹からは「名前を変えろ」と迫られる。お前がよだかを名乗るのは目障りだと。生きるために虫を食べることにすら罪の意識を抱いて、よだかはやがて、地上での居場所を失い、たった一羽で夜空の彼方を目指して飛び続け―青白い星になって、燃え続ける。


 ページをめくるたび、私はよだかが自分自身に思えてならなかった。友人たちは私を「白鳥のように美しい」と言う。


 けれど、本当の内面は違う。母の期待という重圧に怯え、本音ひとつ言えない。誰よりも臆病で、誰よりも醜い「よだか」だ。生きるために自分を偽り続ける、この苦しさを誰も知らない。誰にも言えない。


『よだかは、じつにみにくい鳥です』


 書き出しの一文を指先でそっとなぞる。活字を追ううちに、限界まで張り詰めていた心の糸が、前触れもなく、プツリと切れた。


 ……ああ、これだめだ。


 視界が滲む。ページの上の活字が、水の底に沈んだように歪んでいく。ここで泣いてはいけないのに。知っている誰かに見られたら、十六年かけて作り上げた『完璧な自分』が崩れ去ってしまう。


 それでも、私は目から溢れる涙を止めることができなかった。声を出さないように、必死に奥歯を噛み締める。俯いて、髪で顔を隠して、ただ静かに泣き続けた。涙がページに落ちないように、それだけを気をつけながら。泣き方まで正しくなければいけない自分が惨めで、また涙が出て、止まらなくなった。


 ……誰か、助けて。誰か、この息の詰まる世界から私を連れ出して。本当の私を見つけて。声にならない叫びは、冷たい冬の風に溶けて、消えていく。


 ―そのはずだった。

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