プロローグ
夕暮れの三崎賀原駅。海沿いの小さな町の外れにある向かい合った二本のホームだけの無人駅だ。
改札と呼べるものは、駅入口付近に置かれた簡易的なICリーダーのみ。駅舎らしい建物もなく、ホームの屋根はベンチの周りをかろうじて覆う分しかない。雨の日には横殴りの飛沫が吹き込んで、コンクリートの足元を濡らす始末だ。
町の人間は、この駅を『何もない駅』と呼ぶ。実際、その通りだった。自動販売機が一台、時刻表の掲示板が一枚、そして、何年前から貼られているのか分からない色褪せたポスターが一枚。それで、全部だった。
十月も半ばを過ぎたこの時期、日は驚くほど早く沈む。西の空にわずかに残った茜色が東の端から染み出してくる群青に少しずつ塗り替えられていった。昼と夜の境界線がちょうど、この駅の真上をゆっくり通過していくような時間帯。
古い水銀灯がジジジと虫の羽音に似た音を立てて、青白い光をホームに落として、その頼りない明かりの輪の外側では、もう夜が始まっていた。
十七時四十二分、上り列車が発車する。
部活を早めに切り上げた生徒や、買い物袋を提げた主婦たちを飲み込んで、二両編成の車体が軋みながらホームを離れていく。
続く十七時四十四分。今度は下り列車が反対側のホームを後にする。赤いテールランプが線路の先の闇に吸い込まれて、だんだん見えなくなる。
そこから、十七時五十五分に次の列車がやって来るまで、この駅には、きっかり十分間、通過列車すら存在しない完全な空白が訪れる。
時刻表の谷間。ダイヤの隙間。呼び方は何でもいい。とにかくその十分間だけ、この駅はただの静かな箱になる。人の流れが止まり、アナウンスも鳴らず、時間そのものが線路の上で立ち往生しているような、そんな十分間がやってくる。
僕、真木創太は、いつものように上りホームの冷たいベンチに腰を下ろしていた。
学校からこの駅まで、歩いて約二十分。終礼の後、図書室の当番を終えて歩けば、四十二分の上り電車には、ぎりぎり間に合うかどうか。
だから、僕はいつも、わざと間に合わないように歩く。次の上りは十七時五十五分。僕は毎日、この空白の十分間をホームで過ごす。
聞こえるのは、駅の近くを走る車の音と、冬の足音を孕んだ冷たい風切音だけ。
……とても寂しげな場所だと思う。
でも、僕にとって、この寂しさは救いだった。誰の顔色も窺わなくていい。誰に合わせて笑わなくてもいい。学校という舞台の幕が下りた後の楽屋のような時間。現実から切り離された安全地帯。それがここだった。
でも、ここ最近は様子が違ってきていた。線路を挟んで向かい側。二番線の下りホーム。距離にして、約十メートル。
そこに彼女はいた。
深いネイビーの上品なブレザーに細いリボン。僕の通っている県立の三崎賀原高校とは駅の反対方向の出口、長い坂を上った丘の上にある私立の名門・三崎賀原女学院の制服だ。
生徒のほとんどが車の送迎で通学しているようなお嬢様学校。電車通学の生徒はこれまで見かけなかったが、最近になって、彼女を見かけるようになった。
うちの学校の連中が『楽園』と呼ぶ場所の制服を彼女は着崩すことなく、きっちりと身につけていた。腰の近くまで伸びた黒髪は水銀灯の光を受けて艶やかに光っている。
遠目でも分かる整った容姿で、涼しげに彼女はいつもベンチの端に座り、膝の上に文庫本を開いていた。
ページをめくる指先だけが、時折、ゆっくりと動く。ただ、それだけの風景が目の前に広がっている。そう、彼女は僕と同じこの空白の十分間の住人だ。
……確か、二学期が始まった頃から見かけるようになったと思う。
けれど、それ以上のことは何も知らないし、知ろうとも思わなかった。
向かいのホームの読書する女子高生。
僕にとって彼女は時刻表や水銀灯と同じ、この駅の風景の一部でしかなかった。それでよかった。十メートルという距離と二本の線路。それは互いの世界に干渉しないためのちょうどいい境界線だった。
そう、いつもなら、気にも留めずに過ぎていくはずの十分間。
けれど今日、僕は見てしまった。彼女の華奢な肩が不自然に、小刻みに震えているのを。最初は寒さのせいかと思った。今夜は秋口一番の冷え込みだと、朝のニュースが言っていた。
だからそう思った。でも、実際は違った。
俯いた彼女の頬を伝って、透明な雫が幾筋もこぼれ落ちているのを見てしまった。水銀灯の青白い光がその軌跡を一瞬だけ光らせては消していく。彼女は指先で目元を拭っていた。
それでも、活字から目を離そうとはしなかった。まるで本を読み続けることだけが、自分をこの場に繋ぎ止める最後の錨であるかのようにずっと。
……泣いている。
それに気づいた瞬間、僕の胸の奥に大きな衝撃が走った。悲しみなのか。感動なのか。それとも、もっと別の何かなのか。何が彼女に涙を流させているのだろう。読んでいる本の物語のせいだろうか。それとも、物語はただの引き金で、本当はもっと前から、彼女の中には涙が溜まっていたのだろうか。
しばし、逡巡するも、僕は思い出す。
——きっと、これは見てはいけない。
涙というものは、流した当人のものだ。他人が勝手にその涙を見て、感想を持ってはいけない。
「絶対に関わるな。見なかったことにしろ。それがお前のやり方だろう」と自分自身に言い聞かせる。
このまま彼女を見続けてはいけない。それは分かっていた。泣いている姿を他人に見られることが、どれほどの恥辱で、どれほどの恐怖か。知っているはずだった。
それでも、僕は、向かいのホームで泣き続ける彼女の姿から目を離すことが、一切できなかった。




