エピローグ
四月の朝、玄関のホワイトボードは、まだ壁に掛かっている。外していない。
母が「もう要らない?」と言ったとき、私が「置いておきたい」と答えたからだ。声で。
だって、あれは私の松葉杖じゃない。もうひとつの喉だから。折れた足が治ったからといって、杖を燃やす必要はない。
また詰まる日が来たら、私はまた、あそこに書く。書けることは、負けじゃない。白紙を掲げていいと教えてくれた人が、線路の向こうにいたから、私はそれを知っている。
ボードの隅には、今日も母の字がある。
『いってらっしゃい。今日は暖かいって』
その下に、私が書く。
『いってきます』
書いてから、玄関で、声でも言った。
「いってきます」
「はい。いってらっしゃい」
二回言うのが、白瀬家の新しい作法になった。声が出る日も書く。書ける日も言う。どちらかを選ばなくていい。母は最初、不思議そうな顔をしていたけれど、今はもう、何も言わずに二回、返してくれる。
****
転校の話が、正式に白紙になったのは、三月の終わりだった。
「一度、白紙にしましょう」と母が言った、あの雪の夜から、二週間。私たちは何度も話した。夕食のあと。日曜の午後。時々は、ホワイトボードの前で、立ったまま。
「凪咲。……本当に大丈夫?」
母が、私の目を見て、訊いた。
「あの学校は専門の先生もいるし、静かだし。成績の事をしつこく言うような先生方ではないと思う。お母さんは、あなたが少しでも楽になるなら……ううん」
母は、そこで、自分の言葉を、自分で止めた。
「ごめんなさい。今のは、また、お母さんの理由。あなたの理由を、聞かせて」
私は、息を吸った。
喉の石は、その夜も、ちゃんとそこにいた。消えてなんかいない。ただ、私はもう、石があっても声を出す方法を、少しだけ覚えていた。
「……逃げるために、行きたくないの」
「逃げる?」
「東京の学校が悪いんじゃないの。……でも、今の私が行ったら、それは『声が出ないから、環境を変えました』になると思う。……そうじゃなくて」
言葉が、つっかえる。でも母は、待ってくれていた。
「……ここで、治したいの。声が出なくなった場所で。詰まったまま、生きてみたいの。逃げた先で出せる声より……ここで、出せるようになった声の方が、私は欲しい」
母は、長いこと黙っていた。それから、目元を押さえて、小さく、頷いた。
「……わかった。じゃあ、お母さんは、それに協力する。それだけ」
翌日、母は電話で、丁寧に、辞退の意を伝えた。私は隣の部屋で聞いていた。「娘とよく話し合いまして。……ええ。娘が、そう決めましたので」
「娘が、そう決めましたので」その一言を、私は一生、忘れないと思う。
三月の最後の日曜日に、母が押し入れを開けた。
「凪咲。ちょっと、来て」
行くと、母は、あのクリアファイルを手に持っていた。九年間、アルバムの箱で眠っていた、私の海。
「これ、飾りましょう」
「……え」
「額、買ってきたの。居間の、あそこの壁。少し、日の当たるところがいいでしょ」
私は、言葉が出なかった。今度は、石のせいじゃない。
母は、クリアファイルから絵を出して、そっと額に入れた。灰色の防波堤。オレンジの空。それを横切る、黒い電線。九歳の私が、時間を忘れて描いた、あの夕方。
額に収まった海を壁に掛けて、母は、しばらく黙って、それを見ていた。
それから、言った。
「……お母さんね」
背中を向けたまま。
「昔、少しだけ、描いてたのよ」
……え。
「高校のとき。美術部だったの。二年生まで」
心臓が、大きく鳴った。
「おばあちゃんに、言われてね。『そんなことしてる暇があるなら』って。……それで、やめた。あっさり。自分でも驚くくらい、あっさり」
母は、絵の中の送電線を指でなぞった。あの日の指だ。私が海の絵を見せた、あの夕方。母の指が、絵の中の線を、なぞりかけて、止まった。あのときの指の意味がやっと、わかった。
「あなたが、この絵を見せてくれたとき。……お母さん、本当は、すごく、上手いと思った。空の色の混ぜ方も、線の置き方も。……でも、口から出たのは「疲れてるのね」だった」
母の声が、震えていた。
「……怖かったの。絵で食べていけるわけがない。きっと、途中でやめることになる、そのときに傷つくのはこの子だって。……だから、先に、蓋をした。お母さんが、されたのと同じやり方で」
母は、振り返った。目が、赤かった。
「愛してるつもりで、同じことを、してた。……私が本当は一番分かっていたはずなのにね」
私は、母に、駆け寄った。
「お母さん」
「ごめんなさい、凪咲」
「……もう、いいの。もう、いいから」
私たちは、額の前で、しばらく抱き合っていた。母の背中は、思っていたより、ずっと小さかった。母も、蓋をされた人だったのだ。蓋をされた人が、蓋の開け方を知らないまま、私を育てた。それだけの話だった。
「ねえ、お母さん」
「……なあに」
「また、描いてみない?」
母は、鼻をすすって、笑った。
「……四十過ぎて?」
「まだまだ、現役だと思うよ」
母は声を出して笑った。久しぶりに聞く、母の本当の笑い声だった。
****
専門の先生のところへは、月に二度、通っている。
『治す』というより、『付き合う』ための場所だ。先生は、私の石を、無理に取ろうとはしない。『出ない日は、出ないままでいいですよ』と言う。『出ない自分を、責めないことから始めましょう』と。
どこかで、聞いたような台詞だった。その話をしたら、彼は駅で、ものすごく得意そうな顔をした。
「僕、先生より先に言ってた」
「言ってたね」
「診断書、書ける気がする」
「書けません」
声で、返せる。隣で。それがまだ、少し、信じられない。
声は、完全には戻っていない。学校で、朝の挨拶がうまく出ない日がある。母の前で、詰まる日もある。緊張すると、今でも石は、律儀に門を閉める。
でも、以前と違うのは、閉まったときに、絶望しなくなったことだ。
閉まったら、書く。書いて、渡す。それだけのことだ。
隣の席のあの子、ううん、『村田 香苗さん』は今もメモ帳を持ち歩いてくれている。
「凪咲さん、今日は紙の日? 声の日?」と、毎朝、訊いてくれる。それが、どれほど有難いか。村田さんは、多分、一生知らない。
「村田さん、今日は声で大丈夫だよ。私のこと、凪咲って呼んで。……友達だから」
村田さんは、目を見開いて、それからぽろぽろと泣き始めた。
「え!? ……なんで」
「凪咲が悪いんだから。反則だよ。それ」
いつだか、自分が彼に言った言葉が返ってきて、思わず、笑ってしまった。
「それに、だったら凪咲も、私の事、香苗って呼んでね」
「うん、香苗ちゃん。よろしくね」
初めて、この学校で下の名前で呼び合える友達ができた。それが、どうしようもなく、嬉しくて私も香苗ちゃんと一緒に泣いてしまった。
****
そして、四月のある夕方。
十七時四十五分。新しいダイヤの駅に、もう空白はない。一分後には、上りが来る。三分後には、下りが来る。私たちの十分間は、時刻表から、きれいに消えた。
それでも私たちは、毎日、ここにいる。
一番線の、同じベンチに並んで。
一番線。彼のホーム。上りのホーム。私の家は、下り方向へ三駅先だ。私が乗るべき電車は、二番線から出る。それなのに、私は毎日、一番線にいる。
十七時四十六分。上り列車が、桜の花びらを少しだけ巻き込んで、ホームに滑り込んでくる。
私は、彼と、同じ扉から乗る。
理由は、単純だ。この五ヵ月間、私はずっと、見送る側だった。
十七時五十五分。彼の上りが、先に来る。彼が乗る。扉が閉まる。列車が行ってしまう。私は、誰もいなくなったホームで、一分間、次の下りを待つ。毎日。毎日、毎日。
あれが、どれだけ寂しかったか、彼は知らない。
窓の向こうで、彼が口の形だけで「また明日」と言うのを見て、それから、私は一人になる。たった一分。されど、一分。あの一分間の駅の静けさを、私は、知っている。
だから、もう見送らないと、決めたのだ。
彼と同じ扉から乗って、彼の隣に立って、彼の降りる駅まで行く。二駅。それから、私は反対側のホームに渡って、下りに乗り換えて、家に帰る。往復で、二十分。
完全に遠回りだ。合理性なんて、一ミリもない。
母には、そう説明した。「電車の中で、友達と話したいの」と。
……これは、嘘じゃない。ただ、少しだけ、順番が違うだけだ。話したいから乗るんじゃない。乗っていたいから、話すのだ。
「二十分、無駄になるわよ」と母は言った。
「うん。無駄にする」
そう答えたら、母は少し驚いた顔をして、それから、笑った。
「……そう。じゃあ、いってらっしゃい」
そうして、無駄にしていい二十分を、私は、手に入れた。
二十分。きっと世界で一番、贅沢な二十分だ。
「おう、常連さんたち」
駅員さんが、竹箒を担いで通りかかる。私たちが並んでいるのを見て、にっと笑う。
「今日は、どっちのホームだい」
「「こっちです」」
声と声で答えた。私の方は、少し掠れていたけれど。ちゃんと、二人分の声が重なった。
****
列車が来る。扉が開く。彼が先に乗って、振り返って、私を待つ。
……ああ、そうか。ステップに足をかけた瞬間、私は、気づいてしまった。
この人は、いつも、待っている。跨線橋の一段目で足がすくんだ私を、走らずに、叫ばずに、線路の向こうから待っていた。
ペンが止まった私を、急かさずに、キャップを閉めて、開けて、閉めて、待っていた。白紙を掲げた私に、白紙を返して、待っていた。そして今も、扉の内側で、振り返って待っている。
私は、きっと、この人の『待つ』に声を返してもらったのだ。
「……なぎさ」
彼が、私の名前を呼ぶ。もう、掲げなくても、届く距離で。
「うん」
私は、扉をくぐる。そして、隣に立つ。
窓の外を、水銀灯が流れていく。昼間はただの灯柱でしかない、あの古い水銀灯。夕方になれば、また、ジジジと鳴くのだろう。私たちのいない、一分間のホームを青白く照らして。
十七時四十五分、向かいのホームの君。そう呼んでいた人は、もう、向かいにいない。
隣にいて、私の名前を声で呼ぶ。そして、私は、それに、声で返事ができる。
「……ねえ」
「ん?」
「今日、白紙の日じゃないよ」
彼が、笑った。
「知ってる。さっきから、ずっと喋ってるよ」
電車はホームからどんどん遠ざかっていく。
「また明日」
私は小さい声でそう呟いた。




