おまけ①
三月の終わり。
掲示板から、ダイヤ改正の紙は剥がされていた。役目を終えた紙は、四隅のテープの跡だけを残して消えている。世界を変える紙も、終わってしまえば、ただの跡になる。
新しい十七時四十五分は、慌ただしい。僕がホームに着いて、一分後に上りが来る。乗る。行ってしまう。彼女がホームに着いて、三分後に下りが来る。乗る。行ってしまう。
新ダイヤの初日、僕たちは一分で何往復できるかを本気で検証した。結果は、一往復と半分。半分というのは、彼女が二枚目を掲げたときにはもう僕の電車が動き出していたという意味だ。
加速する窓越しに読んだその一枚には、『みじかい』とだけ書いてあった。
それでも彼女は、毎日いた。二番線に。
転校が白紙になったと聞いたのは、その週のことだった。スケッチブックで彼女はあの雪の夜のことを少しだけ話してくれた。
『(凪咲) 娘が、そう決めましたので』
母親の電話の言葉だという一枚を掲げたとき、彼女の目は、この五ヵ月で見たどの目よりも静かだった。
……よかった。心の底から、そう思った。
思って、それから僕は、自分の中に妙な感触があるのに気づいた。
期限が、消えたのだ。
三月十四日という日付は、僕にとって崖だった。崖の手前では、人は走る。走るしかないから走る。だから僕はあの雪の夜、跨線橋を駆け上がることができた。膝を打っても、痛みを後回しにできた。
でも今、崖はなくなった。目の前にあるのは、平らな、どこまでも続く道だ。明日がある。明後日もある。来週も、来月も、たぶん来年も。
———だったら、今日じゃなくてもいい。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。
……知っている。この言葉を、僕はよく知っている。
「悪い、今日図書委員の当番」
「まじめか! じゃあまた今度な」
「おう、また今度」
また今度。約束のふりをした、約束の回避。十六年かけて磨き上げた、僕の唯一の特技。
崖がなくなった途端、僕の中の臆病者はまっさきに古い道具を取り出してきた。二月十四日、箱のいちばん底に沈んでいたあの四文字への返事を、僕は今、人生でいちばん使い慣れた方法で先送りにしようとしている。
『……たぶん、嘘』
あの付箋を、僕はまだ机の引き出しに入れたままにしている。焼き菓子は渡した。名前も呼んだ。声も聞いた。それでも、あの四文字にだけは、まだ何も返していない。
今日だ。
そう決めたのは、学校から駅までの二十分の、ちょうど最後の一歩を踏み出したときだった。
十七時四十五分。彼女はいつも通り、二番線のベンチにいた。
『(凪咲) 風がぬるい』
『(創太) 春が来た』
『(凪咲) 三分の一くらい』
いつも通りの一往復。それで、もう時間はない。遠くで、四十六分の上りの走行音が鳴り始める。
僕は立ち上がった。乗車位置まで歩く。片手を上げる。彼女が指先だけで振り返す。列車が入ってくる。扉が開く。
そして、僕は、乗らなかった。
扉の前に立ったまま、動かなかった。発車ベルが鳴って、扉が閉まって、僕を置いて、上り列車が出ていった。
二番線で、彼女が立ち上がるのが見えた。
僕は三冊目のクロッキー帳を開いて、書いた。まだ一度も掠れていない、新品のマーカーで。
『(創太) 次のは五十八分』
『(創太) こっちは十二分ある』
彼女はそれを二回読んだ。それから、近づいてくる下りの走行音の方角を一度だけ見て、ベンチに、座り直した。
四十八分の下りが二番線に入ってきた。扉が開いて、閉まって、彼女を置いて、出ていった。
駅から、音が消えた。
誰もいないホームが二本。青白い光の輪が二つ。ジジジ、と水銀灯が鳴いた。
ダイヤがくれていた十分間は、もうこの世界のどこにもない。だったら、自分たちで作るしかない。二本の電車を見送るという、ばかみたいに簡単な方法で。
僕たちは初めて、自分の手で空白を作った。
『(創太) そっち行っていい?』
『(凪咲) 許可します』
跨線橋の一段目に足をかける。あの夜は走った。融雪剤の粒ごと凍りかけた鉄板で滑って、膝を打って、それでも走った。
今夜は、歩いて渡った。一段ずつ。こん、こん、と低い音を鳴らしながら。
通路の小さな窓から、線路を見下ろす。二本のレール。十メートルの隔たり。上から見れば、春の残り光を鈍く照り返す、ただの細い鉄。
二番線に下りる。彼女のベンチ。彼女は、少しだけ横にずれて、僕の座る場所を空けた。
その隣に座った。
三十センチ。この距離で並んで座るのは、二度目だった。ココアを飲んだ雪の夜以来。
視線を落として、僕は少しだけ笑ってしまった。膝の上に置かれた彼女の右手。人差し指のところだけが、不格好に切り落とされた白い手袋。
「……まだ、してるんだ。それ」
「……お守りだから」
「四月だけど」
「お守りに、季節はありません」
言い返してから、彼女は少しだけ耳を赤くして、手袋の指を反対の手で隠した。
……かわいいな、と思った。思ってしまってから、その感想を頭の隅に押しやるのに三秒かかった。
そして、そこから先が、出てこなかった。
言葉は用意していない。用意しないと決めていた。その瞬間に体の奥から出てくるものを掲げたかったから。それなのに、体の奥からは何も出てこない。
僕はクロッキー帳を膝の上で開いた。ペン先を紙に置く。置いて、そのまま、動かなくなった。
書けない。一画目が出ない。頭の中には言葉があるのに、それを紙に載せた瞬間に何かが決定的に変わってしまう気がして。
……ああ、これか。
彼女が何ヵ月も戦ってきたものと同じ。でも、いちばん浅いところの部分。
それでも、これは確かに「詰まる」という感覚だった。
僕はページをめくった。まっさらな一枚を、膝の上で彼女の方へ向けた。
白紙。『今、詰まってます』の意味。自分で作った制度に自分が救われる、二度目の夜だった。
彼女は、急かさなかった。首も傾げなかった。ただ、膝の上でスケッチブックをめくって、自分も白紙を一枚、僕の方へ向けた。
十メートルを挟んで向かい合っていた二枚の白紙が、今夜は三十センチで、並んでいた。
待たせている。
そう思った瞬間に、わかった。この五ヵ月、僕はずっと待つ側だったつもりでいた。違う。彼女もずっと、僕を待っていたのだ。
僕はクロッキー帳を閉じた。閉じて、ベンチの上に置いた。
「……ごめん。今日は、紙を使わない」
「二月十四日の、箱の底」
彼女の肩が、小さく跳ねた。
「あれの返事を、まだしてない」
風が、線路の砕石の上を渡っていく。彼女は俯いたまま、動かなかった。
「三月十四日に言うつもりだった。ずっと指を折って数えてた。……でも、あの日は言わなかった」
言えなかったんじゃない。言わないことを選んだ。
あの雪の夜にそれを渡していたら、それは餞別になっていた。東京へ持っていく荷物が一つ増えるだけだった。彼女はきっと、あの寮の本棚に僕の言葉ごと並べて、律儀に大事にしただろう。
そんなものを、渡したくなかった。
「行き先が決まってない未来になったから。……だから、言う」
息を吸う。
「『同志』って言葉を選んだのは、僕だ」
彼女が顔を上げた。
「正確な言葉だと思った。恋人でも、友だちでも、知り合いでもない。それ以外に言いようのない間柄。……あの時は、本当にそう思ってた」
「うん」
「でも、あの箱の底の四文字を読んだ夜に、白状すると、僕はもう気づいてた。……僕のも、たぶん、嘘だって」
———言った。
心臓の音が、耳のあたりまで上がってきているのがわかった。
「だから、あの言葉を返上したい。取り下げます。……もっと正確な言葉に、書き換えたい」
彼女は、両手で口元を覆っていた。手袋の、切られた人差し指だけが、そこから覗いていた。
「でも、四十四日かけても、いい言葉が見つからなかった」
「……四十四日」
「二月十五日から数えてた。……几帳面なところは、うつるみたいだ」
彼女が泣きそうな顔で笑った。
僕は一枚書くたびに少しずつ埋まっていく、この紙面上の距離の名前を、僕はまだ知らないでいた。
あれから四ヵ月。距離は十メートルから三十センチになって、名前だけが、まだ空欄のままだ。
「言葉が見つからないから」
僕は、ベンチの上に置いた自分の右手を、彼女の方へ、手のひらを上にして差し出した。
「今日は、言葉じゃない方で言う」
掲げなかった。掲げなくても届く距離に、僕たちはもう座っているから。
彼女は、その手のひらを見ていた。長いこと。水銀灯がジジ、と鳴いた。
それから、右手の手袋に、左手をかけた。指を一本ずつ、ゆっくり抜いていく。僕は、待った。
三月の初め、彼女はこの手袋の人差し指を切り落とした。ペンを持つたびに手袋を外す、その数秒が惜しかったからだ。残り時間が数えられるようになった駅で、彼女は数秒を削って、僕に一枚でも多く渡そうとしてくれていた。
今夜、彼女はその数秒を、惜しまなかった。
外した手袋を膝の上に置いて、彼女は、右手を伸ばした。
小さな手だった。指先が、冷えていた。それが、僕の手のひらの上に、そっと重なった。
届いた。
十メートルと、二本の線路と、五ヵ月と、紙の上を渡ってきたものが、ようやく、僕の手の中に着地した。
僕は指を曲げて、その手を包んだ。彼女の指が、一度だけ、びくりと震えて、それから、僕の指の間に、遠慮がちに滑り込んできた。
「……あったかい」
彼女が、掠れた声で言った。
「そっちが冷たいだけだよ」
「……そういうことじゃ、ない」
……知ってる。
「ねえ」
「ん」
「十二月のクイズの本当の答えを言ってもいい?」
十二月。四ヵ月と、少し。
僕は笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱かった。
「……持ち越し記録、大幅更新だ」




