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おまけ②

 その日の彼は、スロープを下りてくる時点で、もうおかしかった。


 歩幅が違う。いつもより半歩ぶん大きい。ベンチに座るときの、鞄の下ろし方が雑。そして座り方。背もたれに預けない、前傾の座り方。


 ……何かある。


 わかってしまう自分が、少しだけ嫌だった。この五ヵ月で私は、十メートル先の人の背中から天気を読む技術ばかり上達してしまった。母の鼻歌の拍子を読むのと同じ技術を、今度はこの人に使っている。


 でも、その日の私は、いつもより少しだけ本気で読んでいた。


 四十四日。


 二月十五日から数えて、四十四日。あの箱の底に沈めた四文字への返事を、私はもうそれだけ待っていた。


 最初は、見つからなかったのかと思った。銀色の緩衝材の下は、我ながら深すぎたと思う。次の一週間は、見つけたうえで、何も返さないことを選んだのだと思った。


 それはそれで、返事だ。私はそう受け取ることにして、受け取ったふりのまま、また駅に通った。


 三月十四日には、期待した。「伝えることがある」と彼は予告していた。


 でも、あの雪の夜に彼が渡してくれたのは、それより、ずっと大きなものだった。私の声。だから文句なんて、あるはずがない。


 ……あるはずがないのに。


 正直に書くと、私は少しだけ、拗ねていた。


 だって、あの絵。


『十七時四十五分、向かいのホームの君』


 一番線のベンチに座る、彼だけを描いた一枚。誰にも見せたことのない最初の数ページを全部めくって、その最後に置いた新作。


 ———あれが、私の告白だったのに。


 題まで付けて渡したのに。あの人は「ありがとう」と言って、両手で、壊れ物みたいに受け取って、それきりだった。


 四ヵ月前も、そうだった。あの人はチョコの箱を両手で持ち上げて、大事に、大事に受け取ってくれた。受け取るのがうますぎるのだ、この人は。


 差し出されたものを、差し出された形のまま、丁寧に胸に仕舞ってしまう。


 だから、その日、彼の座り方が違ったとき、私は期待してしまった。


 十七時四十六分。上り列車が来た。


 彼が立ち上がる。乗車位置へ歩く。片手を上げる。私は指先で振り返す。扉が開く。


 扉が、閉まった。彼を、ホームに残したまま。発車ベルの音が、まだ鼓膜の内側に残っていた。走り出す二両編成の向こう側で、彼が、こちらを見ていた。


 私は立ち上がっていた。自分でも気づかないうちに。


『(創太) 次のは五十八分』


『(創太) こっちは十二分ある』


 十二分。


 その文字を、私は二回読んだ。二回読んで、それから、自分の下り列車の走行音を聞いた。


 四十八分。私の電車。乗らなければ、家に着く時間が二十分遅れる。母の手帳のマス目が、二十分ぶん、狂う。


 ……いいや、と思った。


 帰ったら、声で言おう。声が出なかったら、ホワイトボードに書こう。『少し、遅くなりました』と。理由は訊かれるかもしれない。訊かれたら、そのときに考える。


 私は、座り直した。


 下り列車が入ってきて、扉が開いて、閉まって、私を置いて出ていった。


 音が、消えた。誰もいないホームが二本。水銀灯が二本。ジジジ、と、いつもの羽音。


 ———戻ってきた。


 時刻表から消えたはずの空白が、私たちの目の前に、十二分、戻ってきていた。誰かにもらったのではなく、二人で、電車を二本捨てて、作った。


『(創太) そっち行っていい?』


『(凪咲) 許可します』


 跨線橋に、彼の足音が響いた。こん、こん、と低い音。


 あの雪の夜は、駆け上がる音だった。何段か飛ばして、途中で一度、鈍い音がして、それでも止まらなかった音。


 今夜は、一段ずつだった。二番線に、彼が下りてくる。


 私は、横にずれて場所を空けた。一人ぶんの空白。ベンチの上の、三十センチ。


 彼が座った。


 そして、私の手元を見て、笑った。手袋のことだ。

四月なのに、まだ着けている。理由は、言えるわけがなかった。


 人差し指の先を切り落としたのは、三月の初めだった。母に内緒で裁縫箱を開けて、ほつれないように切り口を縫って。ペンを持つたびに手袋を外す、あの数秒が惜しかったから。


 あの頃の私にとって、数秒は、彼に渡せる一文字と同じ意味だった。


 だから、捨てられない。


 これは私が、この人のために時間を削った証拠だから。お守りというのは、半分、本当だ。


「四月だけど」


「お守りに、季節はありません」


 言い返してから、耳が熱くなった。慌てて反対の手で隠したけれど、たぶん、間に合っていない。


 そこから、彼は黙り込んだ。


 膝の上でクロッキー帳を開いて、ペン先を置いて、それきり動かなくなった。私には、それが何なのか、たぶん世界でいちばんよくわかった。


 一画目が出ない。頭の中には言葉があるのに、指が門番の顔色を窺っている。


 やがて彼は、ページをめくって、まっさらな一枚を私の方へ向けた。


 白紙。


 ……ずるい人だと、また思った。


 その制度を作ったのは、あなたなのに。詰まってもいい、書けない日は書けないままでいい、と教えてくれたのはあなたなのに。その制度に、一番助けられているのが、自分だなんて。


 私はスケッチブックをめくって、自分も白紙を一枚、彼の方へ向けた。


 十メートルを挟んで向かい合っていた二枚の白紙が、その夜は三十センチで、並んでいた。


 待ってるよ。


 そう言うつもりの、白紙だった。


 彼が、クロッキー帳を閉じた。閉じて、ベンチの上に置いた。


「……ごめん。今日は、紙を使わない」


 その瞬間に、心臓が変な音を立てた。


 紙を使わない。


 この人が、自分の武器を置いた。十メートルを越えるために鍛え上げた、たった一つの技術を、自分から手放した。


 それから彼が言ったことを、私は一字一句、覚えている。


「『同志』って言葉を選んだのは、僕だ」


 心臓が、跳ねた。


「正確な言葉だと思った。恋人でも、友だちでも、知り合いでもない。それ以外に言いようのない間柄。……あの時は、本当にそう思ってた」


「うん」


「でも、あの箱の底の四文字を読んだ夜に、白状すると、僕はもう気づいてた。……僕のも、たぶん、嘘だって」


 ……読まれていた。届いていた。四十四日、返ってこなかったんじゃない。四十四日、抱えていてくれたのだ。


「だから、あの言葉を返上したい。取り下げます。……もっと正確な言葉に、書き換えたい」


 私は、両手で口元を覆った。そうしないと、変な声が出そうだった。


 この人は、いつもそうだ。数ある言葉の中から、私たちのためだけの一語を正確に引き当ててくる。その人が、自分の引き当てた言葉を「もう正確じゃない」と言っている。


 それが、どれだけのことか。


「でも、四十四日かけても、いい言葉が見つからなかった」


「……四十四日」


「二月十五日から数えた。……几帳面なところは、うつるみたいだ」


 泣きそうな顔で、笑ってしまった。


「言葉が見つからないから」


 彼が、ベンチの上に置いた自分の右手を、こちらへ、手のひらを上にして差し出した。


「今日は、言葉じゃない方で言う」


 掲げなかった。


 十メートル。声は届かなくても、この文字なら多分届く。そう言って、あの人が最初の一枚を掲げた夜から、五ヵ月。


 今夜、その手は、掲げられなかった。掲げなくても届く距離に、私たちはもう座っているから。


 私は、その手のひらを見ていた。長いこと。


 大きい手だな、と思った。膝を打っても、滑っても、跨線橋を上りきった手。マーカーを握って、五冊分の紙に、私の声の代わりを書き続けた手。


 手袋を、外そう。そう思った。数秒、惜しくない。今夜だけは。むしろ、この数秒を、丁寧に使いたかった。


 左手をかけて、指を一本ずつ、ゆっくり抜いていく。切り落とした人差し指の穴に、少しだけ引っかかった。不格好な、私だけの手袋。


 彼は、待っていた。急かさない。首も傾げない。

外した手袋を膝の上に置いて、私は、右手を伸ばした。


 彼の手のひらの上に、置く。


 ……熱い、と思った。


 次の瞬間、その手が、私の手を包んだ。指が曲がって、私の手の輪郭を確かめるみたいに、少しだけ強く。


 思わず、手が跳ねた。跳ねてから、逃げなかった自分に驚いた。


 それどころか、私の指は、勝手に、彼の指の間に滑り込んでいた。自分の身体なのに、私の許可なんて一度も取らずに。


 ……つくづく、この身体は私に意地悪だ。でも今日だけは、少しだけ、感謝した。


「……あったかい」


 出た声は、掠れていた。


「そっちが冷たいだけだよ」


「そういうことじゃ、ない」


 ……そういうことじゃ、ない。ねえ、わかってる? わかってるんでしょう、あなたは。


「ねえ」


「ん」


「十二月のクイズの、本当の答えを言ってもいい?」


 彼が笑った。笑いながら、目の奥が濡れていた。


「……持ち越し記録、大幅更新だ」


 私は、大きく息を吸った。


 喉の奥に、石があった。当然だ。これは私の本当の言葉だから。


 でも、私は知っている。この人は待つ。今日出なかったら、明日。明日も出なかったら、明後日。白紙でもいいと言った人だ。


 そう思った瞬間に、石が、少しだけ、動いた。出さなくていいと言われた声だけが、出てくる。私の喉は、ずっとそういう仕組みだった。


「世界でいちばんあったかい飲み物は、ココアじゃないの」


「……知ってた」


「知ってたの?」


「なんとなく」


 なんとなく、じゃない。この人はいつも、なんとなくの顔をして、でも、知っている。


「あの日ね、本当の答えは、別にあったの」


 言葉が、少しずつ通り始めていた。門は開ききっていない。半分だけ開いた隙間から、一語ずつ、押し出すみたいに。


「十メートルの向こうから届く、六文字とか、七文字とか。……どんな飲み物より、身体の奥まであったかくなるもの」


「書けるわけがないと思った。だから、ココアにしたの」


 彼は、何も言わなかった。ただ、握った手に、少しだけ力がこもった。


「……でもね」


 私は、繋がったままの手を、二人の膝の間で、そっと持ち上げた。


「今日、更新されました」


「更新」


「うん。……いちばんあったかいものが、変わったの」


彼の方を向く。三十センチ。声の届く距離。


「湯気も出ないのに、これがいちばん、あったかい」


 風が、線路を渡っていった。水銀灯が、ジジ、と鳴いた。


 彼は、何度か瞬きをして、それから、空いている方の手で、目元を乱暴に拭った。


「……ずるい」


「反則じゃないよ。答え合わせ」


「大反則だ。罰金です」


「罰は、あとで受けます」


 三月十四日の雪の夜と、まったく同じやり取りだった。ただし、立場が逆になっていた。


 それから私は、繋いでいない方の手で、スケッチブックを開いた。


 彼が目を丸くする。


「……いいの。これは、詰まったからじゃないの」


 ページを一枚、破り取る。ビリ、という音。


 十月のあの最初の夜と同じ音だった。あの夜、私は大学ノートの端を破って、震える字で『よだかの星、知ってる?』と書いた。名前も知らない誰かに向かって。


 片手でスケッチブックを押さえて、太いフェルトペンで、書く。片手で書くのは難しくて、字が少しだけ丸くなった。


『わたしも、うそでした』


 掲げなかった。


 二つに折って、彼の空いている方の手のひらに、置いた。


 手渡し。


 彼はそれを開いて、読んで、それから、しばらく動かなかった。


「……二回、言うの」


 私は言った。


「最近、声が出る日も、書くの。書ける日も、言うの。……どっちかを選ばなくていいって、決めたから」


 彼は紙を四つに折って、制服の内ポケットに入れた。定期入れに付箋を仕舞うときの私と、同じ手つきだった。


 十七時五十八分。


 上りの走行音が、レールを伝って響き始めた。


 彼が立ち上がる。繋いだ手が、名残惜しそうに解ける、かと思ったら、解けなかった。彼はそのまま、立ち上がった私の手を、握ったままだった。


「……あの」


「うん」


「ほどかないんだ」


「ほどく理由がない」


 ……この人は、たまに、こういうことを平気で言う。


「……乗るよ」


 私は言った。


「え」


「そっちの、電車」


 彼がぽかんとした顔をした。この人は、驚くと本当にわかりやすい。


「二駅で降りて、向かいのホームに渡って、下りに乗り換えるの。往復で二十分。……完全に、無駄」


「じゃあ、なんで」


「私、五ヵ月間ずっと、見送る側だったから」


 窓の向こうで口の形だけの『また明日』を読み取って、それから一人になる。たった一分。されど、一分。誰もいなくなったホームの、あの一分間の静けさを、この人は知らない。


「もう、見送らないって、決めたの」


 彼は、何か言おうとして、やめて、「……了解」とだけ言った。繋いだ手に、一度だけ、力がこもった。


 跨線橋を二人で渡った。並んで。手を繋いだままだと、階段は少し歩きにくくて、こん、こん、という音の間隔が、いつもより短くなった。


 一番線に下りると、改札の脇で駅員さんが竹箒を担いで立っていた。私たちを見て、それから、二番線を見て、掲示板の跡だけになった壁を見て、にっと笑った。


「おう、常連さん。……電車、二本も見送って」


 私たちは、それぞれ、頭を下げた。繋いだ手は、慌てて離した。……たぶん、間に合っていない。


「まあ、あれだ。ゆっくりしていけ」


 雪の日と、同じ言葉だった。


 上り列車が入ってくる。扉が開く。彼が先に乗って、振り返って、私を待つ。


 私は、その隣に立った。


 車内は、空いていた。座らなかった。二人で、扉の脇に立って、外を見ていた。


 制服の袖と袖が、電車の揺れのぶんだけ、触れて、離れて、また触れる。


 窓の外を、二つの水銀灯が、ゆっくり流れて、遠ざかっていく。今夜からは、あの光の下に、誰も残らない。


「……ねえ」


「ん」


「新しい言葉、いつか見つかったら、教えてね」


 彼はしばらく黙って、それから、窓の外を見たまま言った。


「たぶん、もう見つかってる」


「え」


「言うのは、また今度」


 ……また今度。その四文字を、この人は昔、約束の回避に使っていたのだと言っていた。


 でも今の「また今度」は、まったく違う響きをしていた。


「……ずるい」


「持ち越しは、僕たちの得意技だから」


 私は笑って、それから、揺れに合わせて、ほんの少しだけ、彼の腕の方へ寄った。


「また明日」


 小さな声で言うと、隣から、同じ四文字が返ってきた。


 十七時四十五分は、時刻表から消えた。


 でも、私たちはまだ、毎日そこにいる。今度は、同じホームに。多分、これからも。

ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。


この作品はこれで終わりになりますが、これからも色々な作品を書いていきたいと思いますので、是非、読んでいただけますと幸いです。


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― 新着の感想 ―
完結お疲れ様でした。 毎話、言葉の選択や描写が素晴らしくて、苦しくなる展開もありましたが、更新を楽しみにしておりました。いろいろと考えさせられました。 あと、あの会話の手段…いいなあと思ってました。主…
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